第54話 私の涙は……。

 見つめていた。


 小さくなっていく彼の背中を見つめていた。


 ――――小暮とは付き合えない。


 きっぱりと、彼は私に告げた。


 ――――好きなやつがいるんだ。


 分かっていた。知っていた。


 彼がどこを見ているかなんて、彼にとって大切なものは何かなんて、分かってた。分かっていないのはきっと、あの子だけ。


 ああ、彼の背中が見えなくなっていく。


 もう、いいのかな。


 そう思った瞬間、温かいものが頬を伝った。


 その次に、今度は冷たいものが頬に触れた。


 涙かと思ったけど、違ったかな。雨、だったかな。そうだよね。だって涙なんて、そう簡単に流れない。流したのは記憶に焼き付くあの日と、記憶に新しいあの日だけ。


 でも、そっか。


「そっか。私の涙は……」


 私に涙を流させるのはいつだって、彼だけだった……。


 ボロボロ。ポタポタ。ひたひた。


 これは涙? やっぱり雨?


 もうどっちでもいい。


 どうせ、どっちもだから。


 この雨のおかげで私は思いきり泣くことが出来る。誰にも気づかれず、一人きりで、思う存分に泣くことが出来る。


 崩れ落ちるように、私は膝をついた。


「祐樹くん。……祐樹くん。…………祐樹くん……っ!」



 隣同士の小学校に通っていた私と彼はある日、喧嘩相手として出会った。


 あの頃は髪も短くて背も大きい方だった私を、彼は最初男の子だと思っていたみたい。 


 でも、私が女であることを知って。彼は態度を変えた。


 あの頃の私はそれが許せなくて。女だからバカにされてるって。私より弱いくせにって。そんなことばかり。


 それで彼を殴って、蹴って。たくさん傷つけた。


 でも。



 『笑ったらきっと可愛いのに』


 『夢乃って言うのか。うん。すげー可愛い名前だな』



 許せなかったはずなのに。彼は私をイライラさせるだけの人だったはずなのに。


 初めて、同い年の男の子に可愛いって言われて。そんな簡単な言葉で。私は女の子になってしまったのだ。


 恋に落ちてしまったのだ。初恋だった。その瞬間、たくさんたくさんの涙が零れた。なんてチョロイ女の子だろう。


 それが、彼が私を泣かせた一回目。


 恋に落ちた私は、一丁前にどうすれば彼が振り向いてくれるのかを考えるようになった。でもずっと男の子同然に生きてきた私にはそんなの分かるはずもなくて。たくさん悩んだ。


 そうして私が注目したのが、彼女だった。


 ずっと彼の隣にいる彼女。大人しくて、可愛らしい彼女。


 そう、今ではギャルみたいな風貌になっていて私も話してみるまで気づかなかったけれど。それが瀬川瑞菜さんだった。


 彼女のようになりたいと思った。彼女のようになれば、彼の隣にいられるんだと思った。


 幼い日の彼女を見本に、私の大改造は始まったのだ。

 

 でも、彼は転校してしまって。この町を去った。


 突然のことに当時の私は何もできなくて。かといって恋心を捨てられるはずもなくて。


 どうせろくにお話すらできていないで抱えている恋心だ。私はいつか会える日を夢見て待つことにした。


 そしてその日は思ったよりも早くやってくる。


 ああ、なんで。なんでその時。彼が彼だと気づいたとき。私はすぐに想いを伝えることが出来なかったのだろう。そうしていたら、彼はきっと……。


 私は変わった。そのおかげか、彼は私のことに気づいていなかった。


 でも、再会してから彼の心が私の方を向いていたことは知っていた。


 これでも、勘は鋭いつもりだ。それが本当に恋心か、まではさすがに分からないけれど。それでも彼は、間違いなく彼好みになれた私を見てくれていたはずなのだ。そして幸いにも、彼女はここにはいない。私はそう思っていた。


 だからこそ、甘えてしまった。


 彼が行動を起こしてくれるのを待とうだなんて。そんな物語のお姫様みたいなことを考えた。


 彼を、図書室で待ち続けた。


 私たちはゆっくりでも、結ばれるのだと信じていた。



 ある時から、ぱったりと彼が図書室を訪れなくなった。


 それでも鈍間に待ち続けた私の元へ彼は来てくれたけれど。


 その時にはもう、すべてが終わっていたのだ。


 彼の心がもう、私へ向いていないことを私は悟ったのだ。


 それからはもう、必死だった。余裕なんて欠片もあるわけがなかった。それはただの足搔きだった。だからこそ、ボロはいくらでも出てしまって。自分で仕組んだはずのデートであんな醜態をさらしてしまった。

 女の子らしくも、お姫様っぽくも、物語らしくもない。地べたを這いずるような闘いだったのだ。


 そうやって、彼の心を私の元へ留めようとした。取り戻そうとした。



 でもやっぱり、ダメだった。そうだよね。だって私はぜんぶ、あの日の彼女の模造品。あの子が今は目の前にいるんだもん。私なんか見てくれるはずがない。


 私が負けたって、仕方ない。


 だってあの子は可愛いんだもの。あんなにか弱いんだもの。守ってあげたくなるんだもの。


 それはついつい、弄り倒してしまうくらいに。何も変わっていなかった彼女は可愛らしかったのだ。


 そして、強かったのだ。


 だからこれで、私の闘いはおしまいです。


 私はこの人生でたった一度きりの大敗北を胸に。


 この舞台を去りましょう。この先に、私の出番はないのだから。


 でも、今は。今だけは。もう少しだけ泣かせてください。


 この誰もいない舞台袖で。


 降りしきる冷たい雨に身を隠しながら。


 私はずっとずっと、もう涙が枯れ果てるんじゃないかってくらいに。もう、枯れ果ててもいいやって。泣き続けた。

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