第20話 こんばんは。

 同居が始まってから一週間ほどが経過した。


 食事、洗濯、掃除、その他諸々。俺にとっては親のいない環境での初めての生活。


 慣れないことばかりで、その上そこには当たり前のように幼馴染の姿があって。料理は黒魔術だわ洗剤は混ぜるな危険だっつーのに混ぜ混ぜするわ掃除は下手くそだわでもう散々だ。


 そしてその度に、あいつは申し訳なさそうに瞳を伏せて謝って。今度は頑張ると強がって笑うのだ。


 頑張ろうとしているのは分かる。あの夜、あいつの言葉を聞いていた俺には痛いほどわかってしまう。わかるのだが……


(あいつ今までどうやって生きてたの……っ!?)


 ろくに両親が帰ってこない家でどれだけ酷い生活をしていたのだろうか。想像するのも憚られる。


 だから俺はあいつを叱りつつ、手伝いつつ、この1週間を過ごしてきた。


 その生活はきっと楽しかったのだろう。久しぶりの、幼馴染と過ごす時間が楽しくないはずなどなくて。それは心休まる時間だったのだろう。




 だけど、俺にはまだ捨てられないものがあった。


 だから俺は今日、ここにいる。




 静けさに包まれた放課後の図書室。


 そこにいるのは放課後もこの場所で勉強や読書をしようなんていう優等生と、当番の図書委員。そして、俺くらいのものだ。


(さて、今日はどれを借りようか)


 そんなことを考えながら本棚を物色するものの、その実、本になど全く集中できていない。


 俺の視線がたどる先にいるのはただ一人。


 小暮夢乃こぐれゆめの


 図書委員として図書室の受付をしている女子生徒だ。  


 受付と言っても、図書室において常時しなければならない仕事なんてない。ときたま貸出を求める生徒がやってくれば対応する、その程度だ。


 だから彼女はいつも受付のカウンター奥で椅子に腰かけながら、ひとり本を読んでいる。


 眼鏡の奥に光り揺らめく黒の瞳。眼鏡は常用しておらず、読書や勉強の時のみつけるらしかった。


 ふと、黒くしなやかな髪が揺れて、彼女の瞳にかかる。その髪を細い指でもって耳にかけるその仕草さえ、知的で、神聖なものに俺には見えた。


 一瞬、彼女の口元が綻ぶ。わずかに瞳が細くなって、「ふふっ」と息を漏らす。何か、読んでいる小説で面白いシーンでもあったのだろうか。


 そんな彼女の一挙手一投足に、心臓が高鳴った。胸が締め付けられるように、痛むのを感じた。


(ああ、やっぱり。やっぱりだ)


 俺の片想いはまだ、終わっていない。


 そう簡単に、終わってしまうものではないらしい。


 小暮夢乃。彼女こそが帰ってきた故郷で俺が出会った、片想いの相手。


 初めて彼女を見たときから、この想いは続いている。


 一週間ぶりに来た図書室で、俺はそれをまた、知った。


 だけど、だけど俺は、もう……。



 ほどなくして、彼女――小暮さんが本をパタンと閉じて時計を見やった。図書室の閉鎖時間が迫っているらしい。


 タイムリミットはすぐそこだ。


 俺は少し焦りつつ、本棚をぐるっと見渡し一冊の本を手に取る。


 そして受付に向かって真っすぐ歩き出すと、小暮さんはそんな俺に気づいて柔らかい笑みで俺を迎えた。


「こんにちは――ではなく、こんばんはの時間でしょうか」


「ああ。こんばんは」


「はい、こんばんは。北見くん」

 

 やっぱり彼女は笑顔を崩さず俺に挨拶を返してくれる。その慎ましくも艶やかな笑顔と、鈴のように透き通った音色を響かせる声が、俺の心に染み込むようで。


 心臓はさらに激しく脈打ち始めた。


 これが俺に作ることのできる、たった一つの彼女とのつながり。


「えっと、小暮……さん。今日はこれ、借りたいんだけど……」


 俺はぎこちなくそう言って、先ほど本棚から引き抜いた一冊の本を差し出した。


 

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