第13話 恥ずかしいんだもん。

 一瞬の沈黙の後、俺は「どうぞご勝手に?」とトイレの方を指さした。しかし瑞菜みずなは頑なに首を横に振る。


「……むりぃ」


「いやサッサと行けや。漏らされても困るんだが」


 俺にそっちの趣味はない。


「……ダメ。むりなの」


「だから、なんで」


 問い詰めると、瑞菜はぷいっと顔を逸らしてたどたどしく口を開く。


「だ、だってその……えと……ゆうがいるのにおしっこするの……恥ずかしい。お、音とか、聞こえちゃうかもしれないし……」


「いや聞かねえよ!?」


「ゆ、ゆうにその気がなくて聞こえるかもしれないでしょ!? そもそも、ゆうならこっそり聞いてそうだもん! えっち!」


「だからなんで!? なんで俺ってそういうキャラになってるの!?」


 母含め俺に対する認識がおかしい件!


「うぅ……だってぇ……恥ずかしいものは恥ずかしいんだもん……」


 俺の叫びに対して、最後は小さな反論とも言えない言葉が空気に溶けていった。


 まったく、こいつの羞恥心の基準はどこにあるんだ。


 はやく処女を捨てたいとか言ってた処女ビッチの言とは思えない。


 でもまあ、そういうのは嫌いではなかった。純愛厨の俺としては、そういった初心さというのは忘れないでいてほしい限りである。


 俺は思わずこめかみを押さえながら、大きくため息を吐いた。


「うぅ……それにその……ね……?」


 俺のため息にビクッと震えるように反応した瑞菜は、言いにくそうにチラチラと俺を見ては視線を外すのを繰り返す。


「……なんだよ?」


 聞くが、瑞菜は困ったようにするばかりだ。


 もしかして、トイレに行けない理由の一端が俺にある? 恥ずかしいということ以外に?


 ああいや、そうか。少し考えてみればすぐに分かった。


「ったく……めんどくせえやつだなあ……」


「うぅ……ごめんなさい」


 申し訳なさそうに顔を伏せる瑞菜。今日だけで何度、瑞菜は俺に謝っているのだろう。


 瑞菜は昨日、俺を頼った。助けを求めた。

 だがその実、両親に捨てられたばかりで人に、俺にさえも怯えている節がある。不安を抱えている。信用出来ずにいる。


 だから、俺から目を離すのが怖いのだ。その隙に俺がいなくなってしまうのではないかと、瑞菜は心配しているんだ。


 それなら……。


 俺は瑞菜の頬を両手で掴んでこちらを向かせた。


 超至近距離で藍色の瞳と目が合い、俺も目を逸らしたくなるが我慢する。逸らすわけにはいかないから。


「俺の目を見ろ」


「う、うん……」


「俺はおまえの何だ」


「え……? えっと、す、好きな人……です……」


「……っ。――――そうじゃなくてっ」


 ゼロ距離で何言ってくれてんのこいつぅ!? 


 さすがの俺も心臓が大合唱を始めている。目を合わせているのも、やっぱり俺まで恥ずかしい。今すぐ部屋を駆け出して、その間に全部済ませちゃって欲しい。


 が、落ち着いているふりでこの場はしのがせてもらおう。


「俺は、おまえの幼馴染だ。瀬川瑞菜せがわみずなのたったひとりの幼馴染だ。だから、俺はおまえを助けに来た。おまえのために、俺はここにいる。俺はおまえが本当に嫌がることはしないし、もう絶対に裏切らない。いなくなったりしない。だからたとえ何が信じられなくても俺のことだけは、信用しろ。お互いを信用すること。それが俺たちがここで暮らすうえでの前提条件であり、絶対条件だ」


 ああ、なんでこんなクサいことを言っているのだろう。


 たかがトイレで。本当に意味が分からない。この会話が終わったらとりあえずふて寝したい。昨日から引き続き、黒歴史更新しまくりだ。


 だが、これはいつか言わなければならないことだった。


 一緒に暮らすうえで何よりも重要なのは信頼関係。


 そしてそれを築くために。いや、取り戻すためにまず必要なのは、言葉だ。


 それは責任だとか、そんなこと以前の話で。


 俺にとって瀬川瑞菜はどこまでも幼馴染だ。これからのこと、なんてのは知らないが今の彼女は俺にとってそれ以上でもそれ以下でもない。


 でも。


 幼馴染のためになることがしたい。

 幼馴染の頼りにしてほしい。

 幼馴染の信頼がほしい。


 泣き顔もいいが、やっぱり最後には笑っていてほしい。


 それは俺にとって当然のことで。


 瑞菜とは幼い頃からずっと一緒だった。もしかしたら家族以上に、一緒にいたかもしれない。


 そうだ。今、分かった。


 俺にとって瑞菜は幼馴染で。幼馴染とは家族のようなものだったんだ……。


 そんな自分の感情に気づいて、俺は両親の都合とはいえ故郷を離れていたことをこの上なく後悔する。


 何食わぬ顔で瑞菜の元を去ったあの頃の自分をぶん殴ってやりたくなる。


 言葉にしてみて、初めてわかることもある。


 俺は存外、この幼馴染のことが好きだったらしい。


 それが恋愛感情であるのかはやっぱり知らないが。俺はこんなにも、瑞菜のことが大事だったんだ。


「だからまあ、トイレくらい気軽に行きやがれ。おまえが恥ずかしいってんなら耳は塞いどいてやるし、絶対にどこにも行かないから」


「ゆう……」


「ま、さっさと慣れてくれれば助かるけどな?」


 俺が笑って見せると、瑞菜はゆっくりとした動作でこくんと頷いた。


 それを確認して、俺は彼女から離れる。


「ほれ、ちゃっちゃとトイレ済ませてこい」


 しっしと俺は手を振って、それからちゃんと塞ぐぞと言う意思表示として両手を耳に当てた。


 そんな俺の視界に、ピンクラベンダーの長い髪が舞う。


「――――ゆう……っ!」


「うおっ。な、なんだ?」


 瑞菜は俺の胸に寄り掛かるように抱き着いた。


 ふわりと、女の子特有の甘い香りがした。瑞菜の体温が胸に伝わってくる。


「……ありがとう。わたし、わたしね? やっぱり大好きだよ? ゆうくんのこと。ゆうのこと。昔も、


「……そうかよ」


 ぶっきらぼうに返した俺に、瑞菜は嬉しそうにニッコリと微笑んでいた。


 どうしてよいか分からない俺は、とりあえず天井へと視線を彷徨わせながら片手で瑞菜の頭を撫でる。


 さらさらの、長い髪。昔は黒だったが、今は派手なピンクラベンダー。でも、それもまた綺麗だと今は思える。



 一分くらい、撫でていただろうか。


 そろそろトイレ行かなくていいのか? そう思い俺は瑞菜を見やる。


 するとそこには、またしても真っ赤になりながらぷるぷると震える幼馴染が。


「あ、あのね? ゆ、ゆう……? ごめん……なさい……ぃ……も、もう……限界、か、も……ぉ……」


「……は?」


 限界って? え? まさか?


 瑞菜は苦しそうに顔を歪めて、俺に熱い視線を送る。その身体が、ビクンっと震えた。


「漏れちゃうぅ……」


 やっぱりいいいい!?


「い、いや、おいちょっと待て! もうちょい耐えろ!? 今連れてくから漏らすのだけはやめてくれええええええ!?!!?」


 漏らしたらおしっこの音聞かれるどころの騒ぎじゃないでしょうが!?


 一生そのネタで弄ってやるレベルだぞ!?


 てかやっぱりコイツは泣いてるくらいがちょうどいい!



 数分後。俺はなんとか、動けない瑞菜をトイレまで導くことに成功したのだった――――。

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