恋なくても幸

夕焼けに憧れる本の虫

恋なくても幸



 「あ、」‬


 少し前を歩く彼の履き古した濃紺のジーンズ、その後ろポケットに刺さっている長財布を見て、思わず声が出た。‬


「なに?」‬


「いや、まだ使ってんだなとか気持ち悪いこと考えてた」‬


 昔、彼のために友だちと選んだ長財布。お洒落なデザインに惹かれて、学生ながら少し背伸びして買ったその財布は、薄汚れてはいたものの、未だ現役としてその役目を全うしていた。‬


「はは、別に気持ち悪くはねーだろ」‬


「そゆもん?」‬


 笑いつつ流し目で私を捉えるその視線は昔と微塵も変わってなくて、だからこそ、曖昧な寂しさに打ち拉がれる。‬


「むしろ使ってる俺のが気持ち悪いんじゃね?」‬


「あは」‬


 そんなことないよ、と言いかけて口を噤んだ。代わりに、「今の彼女とはどーなの?」なんて質問を投げる。‬


「彼女? お察しの通りだよ」‬


「え? 何にもお察ししてないけど」‬


 ぷくく、と笑って見せる。……いや、違うな。嘲笑って、が正しい。‬

 君は愚かだと、君を肯定する。それが昔から、私の役割なのだ。‬


「お察ししてないはさすがに嘘だろ」‬


 少し細めた目の先にいる私。今の私は、彼にどう映っているのだろう。‬


「幸せじゃないの?」‬


「……まったく、昔と変わってなさすぎてうんざりするな」‬


 ぴた、と足を止めた彼が、こっちを振り返る。足元に視線をやり、そのまま遠くを見た。波の音が聞こえる。‬


「何のために呼び出したと思ってんの?」‬


「愚痴を吐き出すため?」‬


「ばーか」‬


 はぁ、と溜め息を吐いた彼は、そのままガシガシと頭を掻き、私から目を逸らした。‬

 気まずそうな彼。可哀想なことをしただろうか? でも、昔の二の舞を踏む訳にはいかない。……責任を持てないものに、寄り添ってはいけない。‬


「幸せ?」


「まぁ、ぼちぼち?」‬


「何で疑問形なんだよ」‬


「私はいつだって幸せだから」‬


「バカ言え」‬


 今度は本当に苛ついているように表情を崩し、しかしすぐ脱力して座り込んだ。‬


「1人でも、幸せだよ?」‬


「へーへー、そーかよ」‬


 「まぁ、俺が幸せにしてやるとか、口が裂けても言えないもんな」。そう呟いた彼が、自嘲気味に笑う。‬


「今更?」‬


「どーせ昔から甲斐性なしだよ」‬


 彼は気付いているだろうか?‬

 私の首元に光るネックレスが、あの時に貰ったものだということを。‬

 1番大好きだった時期。何にも考えていなかった時期。あの時に戻れたらなんて言わないけれど、確かに幸せだった頃。‬


「ね、頑張って幸せになってね」‬


「そう簡単なもんじゃねーんだよ」‬


 大きく伸びをした彼が、そのまま後ろに倒れ込む。‬


「あーあ、砂だらけだ」‬


「お前も寝転べよ」‬


 ぐん、と手を引っ張られ、砂浜にへたり込んでしまう。横座りにワンピースは全く適応してくれず、膝も太ももも砂だらけだ。‬


「うわ、乱暴」‬


「寝転んでしまえよ。そんだけ汚れりゃ、変わんねーだろ」‬


「髪に砂入ると面倒なんですけど?」‬


「変わんねーよ」‬


 ワガママを言う彼に跨り、頬を両側から抓った。‬


「付き合ってた頃に言ってくれれば良かったのに」‬


「お前は綺麗過ぎるんだよ」‬


 そっと伸ばされた手が、頬に触れる。‬


「馬鹿言わないで」‬


 その手に自分の手を重ね、彼を見詰める。‬

 ゴツゴツしたその手は、しかし私を守ってくれはしない。‬


 求めるものが、求める形で手に入ることなんて滅多にない。だから怒るなんて全く見当違いで、だけどそんなことに気付いたのはつい最近だから、恋愛はつくづくタイミングの問題だなと思う。‬


「ワガママ、彼女にちゃんと言えてる?」‬


「残念ながら、俺のワガママなんか挟む暇がねぇんだ」‬


 ワガママな女なんだよ。俺にはちょうどいいのかも知れねぇけどな。‬


 諦めたようにそう言った彼の額に手を置き、そっと髪を掻き上げる。‬

 見詰め合うのに耐えられなくなって、彼の胸に耳をつけた。静かな心地良さに、ゆっくりと目を瞑る。‬


「あの時さ、」‬


 彼の声が、耳の奥まで響いて届く。丁寧に言葉を紡ぐ彼に、知らない一面を見た気がして、また少し寂しくなった。‬


「言ってくれたじゃん。良いんじゃない? って」‬


「え?」‬


「趣味の話した時よ。良いんじゃない? つって」‬


 ゆっくりと目を開く。‬

 沈んでしまった太陽が、それでも必死に空を自分色に染めている。‬


「なんでも肯定してくれたじゃん。そのまま受け入れてくれたっつか」‬


 少しひんやりとした風が、頬を撫でる。‬

 空はもう随分藍に支配されていた。‬


「あの時ああ言ってくれたから、俺はここに立っていられるんだよ」‬


 「未だに自信はないけどな」。そう言った彼は声を立てて笑い、「怒んないでくれよ?」と身を起こす。‬


 私も身体を起こし、「怒んないよ、もう」と笑った。顔の筋肉が引きつっているのが分かる。下手くそ、もっとちゃんとやれよ。上手く笑えないなら、上手く誤魔化せよ。いくらだって上手くやる方法はあるはずじゃないか。‬


 穏やかな波の音に誘われるように、海に視線をやる。‬


「良かったね」‬


 「ちゃんと幸せそうじゃん」。‬

 彼から視線を外したまま、そう呟く。‬

 もし彼がまた私に縋ってきたら。縋って来てくれたら——そんなことを考えてしまっていた私は、やっぱり誰よりも弱いのだ。弱いからこそ、自分の力じゃ縋れない。誰も頼れない。‬


「そうだと良いんだけどな」‬


 大きく伸びをした彼の上から、隣へと腰を移す。手を着いた砂浜は、日中の太陽を受けて、まだ暖かかった。‬


「急にごめんな。ありがとう」‬


「ううん、全然。いつでも」‬


 私は所詮、都合の良い女にしかなれないから。誰かの1番を望むなんて、全く身の丈に合ってなんかいないのだ。‬


 ゆっくりと立ち上がった彼は、「もう行くわ」と私に視線を遣る。‬


 「うん、またね」と何でもない風に笑うのが私の仕事で、役割だから。‬

 軽く手を振り、彼が歩き出したのを見て、また視線を海へと戻す。‬


 私は自分が大嫌いだ。‬

 綺麗事ばかりで、自分の感情から逃げてばかりだから。‬


 失った感情は、絶対に戻ってきてはくれない。‬

 だからきっと、この感情だってすぐに——。‬


 静かに波が、寄せては返す。‬

 薄く光る三日月が、波をきらきらと輝かせていた。‬

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