グレートマザー 

アノマロカリス・m・カナデンシス

【僕】の物語

 夕方から雨が降り出し始めていた。


 雨は、降ったり止んだりを繰り返し徐々にその間隔を狭めながら強い風を伴って勢いを増し、台風が近づいて来てきていることを告げていた。

 彼女が寝てからも一人、ずっと眠れずに起きていた。月に何度か、そんな夜がある。感覚的にもうすぐ朝だと思ったが、まだ夜が明けきらないのか、分厚い雨雲のせいなのか、未だ真っ黒な外の世界を、カーテンをほんの僅かずらして眺め見る。部屋の灯りは付けずに、テレビから放たれる青みがかった光だけが暗いままの部屋を照らし出していた。間もなく彼女は起きてくるだろう、そんな事を考えながらまた、カーテンを戻しテレビの画面に向き合った。彼女が買い与えてくれたゲームを再開する。何もする事がなく時間を持て余していた僕に、彼女が買ってくれたものだった。何人も殺しまくって、僕自身何回も死んだ。蘇生してくれる友はいない。それでも、やり続けるしかなかった。他に、することなどなかった。無意味にも思える時間の流れは、僕に、あの時路上で野垂れ死んだ方がよかったんじゃないかと思わせた。どうして、僕は生きているんだろう……彼女に拾われてから、もう一年になる。



 一年前のあの日、台風がくる前の晩に、僕は拾われた。救われた、と言うべきだろうか。自分の犯した罪から逃げて逃げて逃げて、逃げて疲れ果て、遂には路上で生活を送るようになり、もはやアスファルトに根を張る雑草のようになりかけていた僕を、彼女は、何かを聞くでもなく、言うでもなく、どういう訳か救い上げてくれた。「家にくればいい」ただそう言って、見ず知らずどころか汚れと臭いの酷いホームレスを家に招き入れたのだ。

 それまでは、死んでもいいとさえ思っていた。それなのに──雨風が凌げる、温かなお湯で体を洗える、ご飯は出来立てで、布団は柔らかい。少し前まで当たり前だった事の全てが特別で、でも懐かしく、迷子の子どもが親を見つけた時の嬉しさのような、怯える必要のない無償の愛に包まれたような、そんな安心感を覚えて、こっそり泣きながら、初めてと思えるほど穏やかな眠りに就けた。見知らぬ人の見慣れぬこの部屋で。


 彼女は暫くの間、何も、話さなかった。それでも食事の支度はしてあって、仕事に行ってる間の昼飯代として、毎日千円テーブルの上に置かれていた。正直、何を考えているのかまるで分からなかった。名前を知ったのも、一週間も過ぎてからだった。

 「中谷 刹那 様」テーブルの上に無造作に置かれた郵便物の宛名が目に入り、聞いてみた。「せつな・・・さん?」直接名前を聞いた訳でもないのに名前を知っていた事に、驚く様子もなく「なに?」と返された。僕に興味があるわけでもないのは分かりはじめていたが、自分の事も、何も話そうとはしなかった。ただ初めから分かっていたのは、彼女は、心を失くすほどの“何か”を抱えている、ということだった。彼女の顔は教科書で見た事のある能面のようで、目は、死んでいた。──それはまるで、僕そのものだった。





 ピピ…ピピ…ピピ……ピピピ……


 アラームが仄暗い部屋の空気に緊張を走らせる。それは条件反射のように過去の傷口を抉り、一年以上前の記憶を呼び覚ました。呼吸が浅く早くなる。心臓の音がはっきりと聞こえる。ゲームのコントローラーを握る手が震え汗が噴き出す。まだ子どもだったあの頃……そうする以外他に、どうしたら良かったのかなど、知る由もなかったあの頃の、純粋な恐怖と嫌悪。それとは逆に、求める安心と穏やかな日常のため、葛藤しながら受け入れた歪んだ“母の愛”。


 眠れずに迎えた朝の儀式は、いつからか、習慣化していた。


 「起きてたの?」アラームに起こされた彼女は、乱れた髪をかき上げながらベッドから起き上がっていた。

 「うん」それ以上は言葉にならない。声も出せない。彼女が、側まで来てくれるのを、ただ待つことしか出来ない。


 僕の返事が儀式の合図となる。


 贖罪の時──僕は、床に座り込む僕に近づいて来た彼女の足元にすがり付き、その足に手を這わせ、顔を、そっと近づける。“上手には、出来ないよ”思いながら震える僕の右手を、上から優しく重ねてくれる彼女の左手、とは裏腹に僕の髪を彼女の右手が鷲掴み思い切り頭を引き上げる。足に触れていた顔は上に向けられ、彼女の顔を覗くとそこには、母さんが、居た。

 死んだ目に捕らえられ、恐怖と嫌悪が爆発する。テレビから放たれる青みがかった光が、一層恐怖を引き立てた。上手になんか、出来ないよ!!何をどうしたら良いのかなんて分からない!拒絶したいのに、僕の体を求める母さんから逃れたいのに、逃れられない。怖い。気持ち悪い。嫌だ!嫌だ!嫌だ!パニックになりそうな程の動揺を自制しながら、念仏を唱えるように謝罪の言葉を頭の中で繰り返す。彼女は無言のままゆっくりと、膝をつきつつ僕を押し倒し、馬乗りの状態になって今度は僕の首に手をかける。左と右、両の手で僕の首を押さえ込んでくる。寝起きとは思えないほどの力強さに咳き込みながら、やっとの思いで声を出す。「ごめ…ん、な、さ……」謝罪の言葉は、窓に叩きつけるほど強くなりだした雨の音にかき消されそうなほど弱く、彼女の耳までは届かなかった、かもしれない。死んだ目をした女の表情は、能面から般若に変わっていく。狂気を上回る、確固たる殺意に変わったように思えて死を覚悟する。

 雨と雷鳴が、いつもの儀式に拍車をかけているようだった。


 意識が遠く、薄れていく。こうなる事を、望んでいたのだ。自らは死ねない。だから……誰かがこうしてくれるのを待っていた。彼女は、その為に僕の前に現れた。そう、思いたい。


 “刹那、いい名前だね”いつか、言いたいと思っていた。



 母さんの、歪んだ愛。手足は鎖に繋がれて自由に動かす事は許されなかった。僕が12歳になった頃から母さんは壊れ始めた。8歳の頃に父さんが家を出てからずっと、頑張って働いていた。頑張り過ぎていたのかもしれない。けれども12歳の僕には理解出来なかった。なぜ僕に“ソレ”を求めるのか。かと言って、拒絶することも出来なかった。ただ嫌だった。その嫌悪感に耐えかねて初めて反発した19歳最後の朝。『もう止めて!』と、叫びながら母の首を……首を、締めていた。

 とっくに、体も力も、母さんを越えていたのだ。


 ただ普通に・・・愛されたかっただけなのに。



 「もう止めて!!」叫びながら起き上がった。





 ──僕は、死んではいなかった。失った意識の中で、多分、夢を見ていた。何処から夢だったのか……隣には、泣いている刹那が居た。「怖かった。怖かった。殺そうと思ってたのに……本当に死んだのかと思って、怖かった」そう言って震える刹那の目もまた“生きて”いた。


 どうして、僕は生きているんだろう。それは、僕はきっと、彼女を生かすために生きているんだ。




 まだ雨は降っていたが、空は少し、明るくなっていた。

 

 


 

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