冬和彩雪は隠したい

「ちょ、ちょっと待て! それはボクが許さないからな!」


 俺が意を決して彩雪に『あーん』をしようとしたその時。その男はそれを止めるために、叫んでそう言った。


 彼はブクブクと太った体に白色のTシャツを着て赤白のチェックの上着を着ている。胴体と同じくブクブクと太ったその足は茶色のジーンズをパンパンにさせている。


「……どなたですか? なぁ、彩雪はこの人知ってるか?」


 俺がそんな疑問を解消するべく聞いてみたところ彩雪は「知らない」としか言わない。ご飯を食べる前のその震えは再発しており、今はその震えとともに涙を流しているようにも見える。


「彩雪? おい彩雪! どうしたんだ?」


 彩雪はそう聞いても「何も知らない」と言うかのように首を振るだけだ。そして、先ほどから一向に顔を上げようとしない。俺が分かることと言えば、彩雪がこの男に何らかの理由で泣かされているということだ。


「お前はっ! ボクの雪ちゅんに! 勝手なことをしているんじゃない!」


「いや、何言っているんですか…… こいつの名前は『雪』ではないので人違いだと思いますよ」


 俺は彩雪を後ろに庇いながらそう言った。覚えていないのかもしれないが彩雪の声優としての芸名は『冬川雪』なのでこの男の言うことは間違ってはいない。間違ってはいないのだが……彩雪は近年アイドル化の進む声優界において、かなり珍しく顔出しをしていない。まぁ、アイドル化とか関係なしに顔出しまでしないというのは、珍しいと思うけど……


 それよりもこの人からかなりの怪しさを感じるな……


「ボクは! いつも雪ちゃんを見ていたというのに! お前は一体なんなんだよおおお!」


 あ、こいつヤバい奴だ。




 あれから数分。俺はいまだに男と言い合いをしていた。


「雪ちゃんとボクは心が通じ合っているんだ! お前こそ一体何者なんだよ!」


「え? 俺ですか? そもそも『雪』って誰なんですかねぇ~? こいつの名前とは違うんスよね~」


 あぁ。めっちゃ吐きたいんだけど…… なんなんだよこの話し方、マジでキモいわ……


 俺がそんなことを思っている中、彩雪は怯えているまま俺の後ろに隠れている。これ以上彩雪とこの男を引き合わせるわけにはいかにだろう。


「マジで知らないみたいなんでやめてくれませんか? 人違いでしょうし。これ以上関わろうとするなら出るとこ出てもらいますよ?」


「そ、そんなわけがないだろう! ボクは毎日雪ちゃんの声を聞いてきたんだ! 間違えるハズがない!」


 これ以上会話をしても無駄そうだな…… なによりも彩雪の精神的な面が心配になってくる。


 もう引き上げた方が良いのではないかと思っていた時……


「ヘイヘーイ! お客さん、困りまスよ~」


 さっきまで彩雪と2人で可愛いと言っていた店員さんだ。なんかさっきからテンションおかしくない? 別人じゃないの?


「お客様~ 先ほどからできているんですけど~ 早く食べてくれないと他のお客様の迷惑になるんですよ~ あとお静かに~」


 ふむ……


 訳:早く食って帰れや。マジで。あとお前らうっせぇからな? あぁ?


 といったところだろう。いや、この店員さん口元は笑っているんだけど、人を殺めたことのあるような目をしているんだけど……


 確かに俺が、というより俺と男がうるさくしていたのは事実なので認めたいと思う。しかしここで店員さんの援護を受けれるのは大きいと思う。


「……た……、て…………」


「「!?」」


 俺と店員さんは同時に彩雪を振り返り、いま言った言葉を理解しようとした。


 確かに今彩雪は「たすけて」と言ったはずだ。先程までは何も話そうとしなかった彩雪からの初めてのヘルプ。思ったことはずけずけということの多い彩雪。そんな彩雪が今まで何も言わずに、こんな状況になってからやっとヘルプを出してくれたのだ。よっぽどの怖い思いをしていたのに違いない。


 そんなことを思い。これからどうしようかと考えていると……


「大体の事情は聞いていたので分かっています。アタシが引き止めますので彼女さん連れて帰っちゃっていいですよ」


「彼女じゃないんですけどね…… それよりも代金はそうすればいいですか?」


「あれで彼女じゃないんですか? マジで(自主規制)よ」


 実はまじめな人なのではと思っていたがそうでもないらしい。


「お代なんかきにしないでいいですよ。だって、お兄さんってよく来てくれるじゃないですか また2人で来ていただければ十分ですから」


 いままではどうでも良かったので気にしていなかったが、確かにこの人は良くいる。その時にでも見られていたのだろう。それよりも耳元で話しかけるのはやめてほしい。なんかゾワゾワするから……


「それなら、お願いしてもいいですか?」


「えぇ、お任せ!」


 店員さんはその大きな胸を張り言い切った。いや、大きすぎない? 雨乃の数倍はあるぞ……


「じゃあ任せます。彩雪、今日は帰ろう。な?」


「う、ん」


 俺はそう言って彩雪の手を引いて店を出た。その時に男が文句を言っていたが店員さんが引き止めてくれたので、それを気にしないで帰る事が出来た。今度行ったときは店員さんにお礼を言うことにするとしよう。いや、本当にありがたい……


「あぁ!? 自分で頼んだもんくらい自分で食えや!? なぁ!?」


 だから店員さんのドスの利いた声は聞こえなかったことにしよう……




 それから俺と彩雪は駅の改札を通りホームで自宅の最寄り駅へと向かう電車を待つことになった。


 しばらく待っていても電車が来るまでは時間がかかった。彩雪にも気の利いたことを言おうと思ったが、何も思いつかない。


 すると彩雪は急に地面に座り込み声を出して泣き始めた。


「彩雪!? どうしたんだ!?」


「なんでもないわ…… ちょっと気が抜けちゃって」


 彩雪は涙を流しながら「アハハ」と笑う。


「お前な…… まじで無理して笑わなくていいから…… な?」


「そんなのできるわけないじゃない……」


 俺はそういう彩雪に目線を合わせるべく腰を屈ませた。


 そうすると彩雪は俺の胸に顔をうずめてきた。


「怖かった、怖かったよ! ずっと、誰にも言えなかった! どうすればいいのか分からなかった!」


 彩雪は心を繋ぎ止めていた物がプツりと切れたのか大声を出して泣き始めた。俺はそんな彩雪を抱きしめて泣いた子供をあやすように背中をさすりながら声をかける。


「もう大丈夫だから。明日も練習するんだろ? 早く気を取り直さなきゃ、雨乃に感づかれるぞ?」


 俺と彩雪はその後何本も電車を乗り過ごすことにした。だけどその時間は不思議と長くは感じなく、ほかの音はまるで聞こえてこなかった。

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