第13話「無邪気な少年」
「あっ」
「フェデリコ!」
クリスタンテ夫妻がその少年を止めようとするが、フェデリコと呼ばれた少年は迷うことなく、イブキとレベッカの元に駆け寄ってくる。
身長はさほど高くなく、百四十センチくらいといったところである。寝癖が目立つ黒髪と首を傾げながら興味だけで目移りする様子からは、無邪気さを感じる。
レベッカを上目遣いで見つめており、レベッカは何の違和感もなく少年の頭を撫でる。
「申し訳ございません。息子の、フェデリコです。以前は雑務人を務めておりましたが、今は訳あって家におります」
チーロが額から大量の汗を流し、ハンカチで拭き取りながら弁明する。
「ままー、お腹すい……あ、痛!」
レベッカが頭を撫で終わると、フェデリコは別の欲求を満たそうと走り出す。
途端に両足がもつれだし転んでしまう。心配したブリジッタがフェデリコの傍に行き、足を撫でる。
「フェデリコ、大丈夫?」
「足痛いよー。それでね、ママ、僕さっき……何だっけ? それよりそこにいる人達は誰?」
前半は痛がる素振りを見せるが、後半はイブキとレベッカへの興味しか残っていないようである。
「重ね重ね申し訳ございません。我が家のお見苦しい所を見せてしまいまして」
チーロが先程よりも、更に大量の汗を流しながら断りを入れる。
「いいえ、お邪魔をしたのはこちらですから。ところでフェデリコ君は、何歳ですか?」
「本来であれば、十四歳です」
イブキの質問に対してのチーロの答え方に引っ掛かりを感じながらも、フェデリコの様子を観察する。
レベッカを余程気に入ったのか、フェデリコはレベッカに纏わりついている。
「フェデリコだよー。お姉さん、すごい綺麗だねー。お姉さんの髪……」
「フェデリコ君、私はレベッカっていうのよ。分かるかな? それにしても、私の髪がどうかしたの?」
そう言うと、フェデリコは神妙な面持ちになる。しかしすぐに無邪気な表情を取り戻した。
「ううん、お姉さん、何か変な感じなの。うーんと、なんだっけ……忘れた! それよりも、お姉さん、おっぱいすっごいおっきいねー。揉んでいい? 僕おっきいおっぱい大好きなんだー」
「こら、フェデリコ!」
好奇心に溢れた少年のように、フェデリコは自然な動作でレベッカの胸元へと両手を伸ばす。
ブリジッタは注意しながら、息子の手を急いで払い除けた。
「ところでレベッカちゃんは、今日はどこに旅人様を泊めるの?」
「本日は、メノッティ家へ宿泊する予定です」
払い除けるついでに、ブリジッタがレベッカへ予定確認をする。
それを見ていたフェデリコが、首を斜めにし神妙な面持ちで悩み始める。
「めのってぃ……うーん。うーん……」
「フェデリコ君、メノッティが何かあったの?」
「うーんと、頭痛いから、考えるのやーめたー。そうだ!」
何かを思い付いたフェデリコは、走りながらどこかの部屋へと行ったようである。
しばらくするとフェデリコは走りながら戻ってくる。手には不思議な形をしたお面を持っている。
「これねー、お祭りの時に使うお面! こうやってつけると声が変わって面白――」
「こら、フェデリコ! それはお祭りの時以外で人前に出すものじゃありません!」
ブリジッタは再度怒るとお面を取り上げる。フェデリコは不服そうに自身の母親を見つめている。
これまでの様子を見ていると、どうも年相応には思えない。イブキも同じ感想を抱いたのか、チーロへと質問する。
「失礼を承知でお聞きしますが、フェデリコ君は頭の病気とかをされたことはあるんですか?」
「五年前のある日、祈りの後に強く頭を打ってしまったようで、それからは……」
「そうでしたか。嫌な記憶を思い出させてしまったようで、申し訳ありません」
チーロが依然として汗を拭き取りながら、苦い表情をしている。
イブキは顎に手をあて考えながら、そのまま思考を心の中に移してくる。
『高次脳機能障害か。久々に見るな』
『こうじの……長いのう。なんじゃそれは?』
『お前は本当に理を司っているのか? まあいい。病気や怪我で脳に損傷を負うと、様々な症状が出ることがある。その一つが高次脳機能障害だ』
明らかに私に対し呆れた口調で説明してはいるものの、内容は確かにフェデリコの状況と一致する。
『フェデリコの場合には、五年前に強く頭を打ったことで脳挫傷か何かになり、それが引き金で起きていると推測する。特にフェデリコは記憶障害と注意障害が顕著に出ている。新規の記憶が入らない、何かを思い出しながら別の動作を行えない、というのは典型的な症状だ。理性のトリガーが作用しにくいのも症状に入る』
『なんじゃ、随分詳しいのう。お主もしや、転生前は医術に優れた職業でもやっとったのか?』
『そんな大層なモンじゃない。もっと欲深くて薄汚れたことをしてた時に身に付けたことだ』
自身を卑下した後、イブキは表の世界の会話へと復帰する。
「チーロさん、更に失礼を承知でお尋ねしますが、マジーアで治すこともできたのではないですか?」
「そんなマジーアがあるならお目にかかりたいですよ。五年前の時にマジーアで頭の怪我を治すことはできましたが、ご覧の通り中まで治すことはできませんでした。旅人でお越しになられたマーゴの方にも見てもらいましたが、どうも原因が分からないと」
チーロは目を瞑りながら、苦しそうに答える。
「マジーアでは駄目となると、天使様のお力であればどうにかなるのではないですか?」
「確かに。天使様であればすぐにでも、治して下さるかもしれません。ですが――」
チーロが言いかけた、その時であった。
「天使は、悪い奴だ」
突如フェデリコの目付きと口調が豹変した。
「あの子……ああ、誰だろ。あの子が、あの子が、悪い奴だって、言ってた。殺した、殺した、殺した……?」
語尾は疑問系であるが、間違いなく天使に対する冒涜である。
「フェデリコ君、殺したって誰をだい?」
「あの女の人だ。すっごい綺麗で……」
イブキの質問に対し、錯乱した目でレベッカを指差したかと思うと、「うぅ」と唸り苦痛を悶えながら独り言を始める。
「嫌だ、嫌だ……あの子も死んじゃう! もうしません! 言いません! 秘密にします! だから、だからぁ!」
「フェデリコ!」
癇癪を起こしもんどり打って倒れ、その場でジタバタと暴れ始める。ブリジッタが名前を呼び慌てて駆け寄る。そこからは冒頭に見せたような無邪気さはない。
やがて涙と鼻水が溢れだし、顔面が紅潮し嗚咽する。恐怖のあまり、嗚咽の感覚が狭まっていく。
明らかに異常である。その苦しみの正体は、現実か空想か。
「フェデリコ! 大丈夫!?」
ブリジッタがフェデリコを抱き抱え、背中をさする。
レベッカは落ち着いた様子で、フェデリコの介抱に加わる。
チーロは汗まみれのままあたふたしており、ブリジッタに「水を持ってきなさい」と言われ急いで水を用意していた。
「くそっ、過呼吸か」
イブキはというと、頭に手を当て聞こえない程度に舌打ちをしながら、独りごちる。
しばらくしてようやくフェデリコの様子が落ち着いたが、話しの続きを聞けそうな状況ではなくなってしまった。
「旅人様、お話しの途中で大変申し訳ありませんが、本日のところはこれにてお引き取りください。私どもでも協力できることがありましたら、後日でお願いいたします」
チーロがそう言うと、クリスタンテ夫妻揃って礼をする。行為そのものは丁寧ではあるが、意味は柔らかな拒絶である。
見方によっては、息子を半狂乱状態に追い込んだのはイブキの訪問のせいであり、そのような対応になるのも無理はない。
「勿論です。フェデリコ君に辛い思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした」
イブキは軽く一礼をすると、レベッカと共に足早にクリスタンテ家を去っていった。
クリスタンテ夫妻は顔を上げ、見送ったことを確認する。
互いに表情は固く浮かないまま、しばらく経つと家を出る。その足取りは、イブキ達とは違う方向へと向かっていった。
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