ひんぎゃ
かんなづき
ひんぎゃ
俺の故郷は大きな海の中にぽつりと浮かぶ小さな島だった。
一応住所は東京都だったが、都とは言いがたいほど孤立していて、南も南。緯度で言ったら九州の宮崎県とあんまり変わらないと聞いたことがある。もちろん空港はないから船で行き来しなければならない。
しかしその船ですら上陸は易しいものではないと。そういう島だった。
島の中には小学校と中学校が合わさった校舎があって、九学年あるのに生徒は全部で13人とかそこらだった。入学式や卒業式がない年もあるくらいだ。
それでも故郷の時間は輝いていた。
建物がほとんどない分、空がどこまでも高かった。
一学年一人っていうのがよくある話なんだが、俺には同い年の幼馴染がいた。人口が少なすぎて年齢が近いやつはみんな幼馴染みたいなものなんだけど、同い年のその子は俺にとって特別な存在だった。
特段可愛いというわけではないけれども、綺麗な女の子だった。
黒い髪をポニーテールにしている印象がすごく強かった。その髪型によってあらわになるうなじや首筋に胸の奥を躍らせたのをよく覚えている。
何の障壁もなく、俺と聖奈は恋人だった。お互いに小さい頃から知っていて、他に恋愛対象がいないんだから、当たり前かもしれないが。それでも恋愛対象として見始めたのは小学校高学年あたりで、付き合い始めたのも中学生になってからだった。
親には、「あ、やっと?」って言われたから、遅かったのかもしれない。でも邪魔するものがなくてどこまで行っても二人っきりの世界は窮屈さを感じさせなかった。
春はグラウンドの端っこに咲いている桜を教室から二人で見て。
夏は停泊場まで自転車を漕いで海風と空に溶けて。
秋は火山の地下熱を通した魚をお互いの家の縁側で食べて。
冬はオリオン座の下、マフラーの温もりの中で唇を重ねたりした。
弱酸性の夜を何度も二人で過ごした。
そんな時間もいつまでも続いたわけではない。中学校を卒業する頃になると、どこの高校へ進学するのかを考えなくてはならなくなった。うちの島には高等学校以上の教育機関はないから、中学を卒業したら島を出て、本州の高校へ通うのだ。
本州東京都に親戚がいた俺は、迷わずに東京の高校へ進学することになった。東京に行けばとりあえず生活に不自由はないから。
「私は広島に行くよ」
冬の銀光が黒板に反射する教室で、聖奈はそう言った。
「ひ、広島!?」
東京と広島がどれだけ離れているのかは詳しくわからないけど、今までみたいにいつでも会えるわけではないことはわかった。
「そう。会えなく、なっちゃうね……」
少し俯く彼女。何度も抱き締めたはずの彼女の身体が、俺の目の前じゃなくて、もっと手の届かない遠くにあるような気がした。
「そ、そっか……」
「恋人、終わりにする?」
「え?」
机に
その綺麗な白い肌が、光の中に吸い込まれて行ってしまうんじゃないのかと。
「高校生になったらお互い新しい生活が始まって……多分、ユウくん、モテちゃうでしょ? 私よりも可愛いシティガールと、溶けるほど甘い時間を過ごしたりして」
「そ、そんなこと、ないよ……」
俺はとりあえずそう言った。きっといろんなことを考えていて、彼女と言葉を交わすということまで手が回らなかったのだろう。ほとんど口が勝手に動いた。
「聖奈だって、俺よりも全然男らしくて頼れる男と、付き合っちゃうんじゃないの?」
俺がそう言った後に、雪を欺くような苦い沈黙が
俺が思ったことと同じことを呟いて、聖奈は沈黙を破った。
「ずっと恋人でいたい」
彼女は、とても綺麗だった。
「……俺、も」
うふ、と彼女は跳ねるように笑った。
「じゃあ、約束しよっ」
「約束?」
「うん」
彼女は俺に小指を差し出した。内容を聞く前に小指を絡ませて結ぶ。
「大人になったら、この島でもう一度会おう? それまでは、お別れ」
「戻って、来るの?」
「大人になったら、二人でどこにでも行けるから」
どこにでも……。
「……わかった」
俺は絡ませた小指に力を入れた。
船出の日。俺たちはお互いの連絡先を携帯電話から消去した。彼女に会うためにはこの島に戻ってくるしかない。その約束を忘れないために。
何もなくてもまたこの島で会えるから。大丈夫って言って。
きっと、大丈夫って言って。
広島に向かう彼女を見送るために東京駅へ行った。俺も彼女も電車すら十分に見たことがなく、多くの人が
「す、すごいね、東京……」
「そ、そうだね」
彼女の新幹線が出るまで残り二十分ほどだった。
俺は衝動的に彼女を抱き締めた。
「ちょっと、恥ずかしいよ……」
彼女はキャリーケースを片手に戸惑っていた。あの島の風の音のように耳を
二人の時間に飛び込んで、抜けかけた炭酸の泡が立つ。
「愛してるよ、聖奈」
「もぉ……いつもそんなこと言ってくれないじゃんっ……」
彼女はキャリーケースから手を離して、俺の腰に手を回した。
「私もだよ、ユウくん。浮気しないでよね?」
彼女は悪戯っぽく笑みをこぼした。
「しないよ」
俺も笑いながら彼女に言った。
「約束ね。いつかまた、こうやってハグしようね」
「うん」
俺たちは温かいお互いの間で小指を結んだ。
それから十年、その小指は
彼女との約束は、果たせなかった。
四年前、故郷である
海からの上陸が難しい青三島への救急班はそのほとんどがヘリコプターで、医療班と自衛隊によって救護活動が行われた。もちろん一般人である俺は、元島民だとしても上陸できなかった。
しばらくして俺の両親が亡くなったという知らせが届いた。
俺はそのまま東京に残って中小企業に就職し、一人暮らしを始めた。広島にいた聖奈がどうなったのか、彼女の家族は無事だったのか、何もわからなかった。
携帯電話に残っているのは、十年前、中学生の時に二人で撮った思い出だけだ。
ビールの入ったコンビニの袋を隣に置いて、公園のベンチに腰掛けた。
凍えるような寒さと東京タワーの橙光の向こう側に、あの頃よりも遥かにくすんでしまったオリオン座が見える。ベテルギウスはもうほとんど息をしていない。
コートのポケットから煙草を取り出して一本咥え、汚れた手の中で火をつけた。
「おかしいな……」
こんなはずではなかったのだ。
大学を卒業して、東京で仕事見つけて、あの島に彼女を迎えに行って。きっと今頃結婚とかも考えてたんだ。
なんでこんな生活をしている?
なんで隣に座っているのがコンビニの袋なんだよ。
俺はポケットから携帯電話を取り出した。彼女と別れた時はガラケーだったそれも、今は電子板に変わっている。
もう会えっこないのに、待ち受け画面は制服姿の彼女だ。
彼女は、天使だ。
すっかりすさんでしまってから、あの頃の時間がどれだけ澄んでいたのかを知った。あの島が俺たちの母なる大地だと知った。
もう何年も抱いていない彼女の身体。
その全部が愛おしい。
白い肌に映える黒くて艶やかなポニーテール。本人も気にしていた少し小さな胸。青い空に溶ける声色。爆笑すると顔を出す可愛い八重歯。
今は、何をしているんだろう。
どんな声で笑うんだろう。
「会いたいよ……」
彼女が今の俺を見たら、幻滅するだろう。安月給で働いて、血管が詰まりそうな日々の心のしこりを煙に吐き出してる俺の姿なんか知られたかない。
それでも、やっぱり。
心に無数のひんぎゃが浮かび上がる。
俺はとある電話番号を打った。
中学生の時の彼女の電話番号だ。今まで何度もかけようとしてはやめていたから、番号はすっかり暗記していたのだ。
もうその電話番号ではつながらないかもしれない。
寒さに負けて、ついに俺は電話をかけてしまった。どうやったところで彼女との約束なんかもう果たせない。だからせめて、ちゃんとお別れを伝えたい。
お別れをしたら、どこかでひっそり死んでやろうか。
耳に押し当てた携帯電話。数回コールが続いた。
つながらないか……。
諦めかけたその時だった。
「……もしもし?」
天使の声がした。俺は思わずベンチから腰を浮かした。
「み、聖奈……?」
「ユウ、くん?」
その声。その呼び方。
何も変わらない。あの時と。
まだ何も話してないのに、涙があふれ出た。
「なんで、電話……」
「番号、覚えてたんだ」
さよならって言うつもりで電話した。そのはずなのに、もう彼女に会いたくてたまらない。俺はなんてちゃらんぽらんなんだ。だからこんなしょうもない人生になるんだよ。
「約束、果たせなくてごめん……」
「ユウくん……」
東京タワーが溺れている。
「……卑怯だよ。覚えてるなんて」
彼女の声が震えているのが、電話越しでもわかった。
「ごめん。どうしても忘れられなかった」
「……でも、本当に卑怯なのは私の方だよっ」
え?
ツー……ツー……。
通話が切れた途端、背中に天使が宿った。
「会いに来ちゃったんだもんっ……」
ひんぎゃ かんなづき @octwright
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