第十七話 「エステルの記憶」
エステルはヴァルハイム家の長女だった。強く気高い父、優しい母、そして厳しくも妹想いの兄。とても幸せだった。あの時までは────
幼いエステルの記憶が、色鮮やかに蘇った。父エドガーの誇らしげな笑顔、母エレノアの優しい手の温もり、兄アルフレッドの頼もしい背中。彼女の世界は、愛に満ちていた。
ヴァルハイム家の屋敷は、常に活気に満ちていた。エステルは、父が村人たちと真剣に話し合う様子を、階段の陰から密かに覗き見ていた。時に厳しい表情を浮かべる父だが、エステルに向ける目は常に優しかった。
母エレノアは、エステルに刺繍を教えてくれた。不器用な指で何度も失敗を重ねるエステルだったが、母は決して叱らず、根気強く教え続けてくれた。「上手よ、エステル」その言葉は、今でも彼女の心の奥底に刻まれていた。
兄アルフレッドは、エステルの憧れだった。剣の稽古に励む兄の姿を見て、エステルも密かに木刀を振る練習をしていた。それを知った兄は、優しく基本を教えてくれた。
しかし、そんな平和な日々は、突然の悲劇によって打ち砕かれた。
あの日、空が真っ赤に染まったのをエステルは鮮明に覚えている。最初は夕焼けだと思った。しかし、次の瞬間、巨大な影が村を覆った。
ドラゴンの咆哮が、平和な村を恐怖の渦に巻き込んだ。
家々が燃え、人々の悲鳴が響き渡る。エステルは母に抱かれながら必死に逃げた。
「エドガー!アルフレッド!」母の叫び声が、耳から脳へ響きわたる。父と兄は、村人たちを守るために戦った。
しかし、ドラゴンの力は、あまりにも圧倒的。その日を乗り越えても、地獄はまた直ぐにやってくる。そんな日々だった。
ある夜。エステルは、母に連れられて森へと出向いた。その時、彼女は知らなかった。これが、家族との最後の別れになるとは。
森の中で、母エレノアが突然立ち止まった。そして、エステルの目の前にひざまずいたのだ。
「エステル、よく聞いて」母の声は震えていたが、強い意志を感じた。「これから、あなたはこのマリアおばさんと一緒に村を出るの」
「ママは?パパとお兄ちゃんは?」
母の目に涙が浮かんだ。「私たちは村に残らなければならない。でも、あなたはダメよ。幸せになりなさい」
そう言って、母はエステルを知らない女性に引き渡した。エステルは必死に母にしがみついた。「嫌だ!一緒に行く!」
しかし、母は静かに、しかし強くエステルの手を離した。「強く生きて、エステル。あなたを愛しているわ」
それが、母との最後の言葉だった。
エステルはマリアという名の女性に連れられ、さらに森の奥へと向かった。その耳には、遠くで響くドラゴンの咆哮が聞こえていた。
その日から、エステルの人生は大きく変わった。新しい村が作られ、マリアの家に引き取られたエステルの苗字はヴァルハイムから【ハートウィル】へと変わった。
それが七歳のエステルの、新たな人生の始まりだった。
マリアとの生活。数十人で作り上げた小さな山村で、二人はひっそりと暮らし始めた。エステルの心は、離された家族への想いで満ちていたが、マリアの優しさが少しずつ彼女の心を癒していった。
マリアは、エステルに様々なことを教えてくれた。料理、薬草の知識。他にも色々あったが、何より大切なのは、強く生きる術だった。
ある日、村に突然の静寂が訪れた。村の皆が一様に暗い顔をしているのが印象的だったが。その時の事を、後にエステルは知る事になる。元住んでいた村が、ドラゴンにより滅ぼされた事を。
父も、母も、兄も、村に残った全員が焼き払われ、死に絶えた。
「エステル、あなたは特別な子よ」マリアはよくそう言っていた。村の皆がエステルに優しかった。彼女だけは必ず守るという強い意思が感じられ。それが彼女を優しい女の子へと育てていった。
だが、ドラゴンに家族を殺された事を知ってからのエステルは少し変わった。
夜になると、彼女は密かに木刀を振る練習をした。兄から教わった基本の型を、何度も何度も繰り返した。既に心は遙か先を見据えていた。
いつか、ドラゴンを倒して家族の仇を取ると。
更なる年月が過ぎ、エステルは少女から若い女性へと成長していった。そして十六歳の誕生日、マリアは彼女に一つの箱を渡した。
「これは、あなたのお母様から預かっていたものよ」
箱の中には、ヴァルハイム家の家紋でもある、狼が刻まれた美しい銀のペンダントが入っていた。
裏には「我が愛しい娘へ」という言葉が刻まれていた。
エステルは、涙を流しながらそのペンダントを胸に抱いた。
その数日後、エステルは決意した。
「私……村を出て旅に出ます」
マリアは悲しそうな顔をしたが、すぐに優しく微笑んだ。「分かったわ。いつか、この日が来るんじゃないかと思ってたのよ」
そのすぐ翌日、エステルは旅立った。マリアは彼女に最後の言葉を贈った。
「強く、優しく、そして賢く生きるのよ。エステル」その言葉を胸にエステルは村を出た。
旅は過酷だった。エステルは様々な場所を巡り、多くの人々と出会い、そして戦いの技を磨いていった。時に傷つき、時に挫折しそうになったが、そのたびに家族とマリアの顔を思い出し、前に進み続けた。
ある町で、エステルは一人の老鍛冶屋と出会った。彼は、エステルの目に宿る決意を見て、一振りの剣を託してくれた。
「この剣には、使う者の魂が宿る」老人は言った。「お前には、この剣が相応しい。そんな気がする」
エステルは、その剣を大切に携えた。それは単なる武器ではなく彼女の決意の象徴となったのだ。
それからも旅を続け、剣の腕を磨いていたエステルに運命の日が訪れた。
エステルは、魔物の被害に困っていたとある村の依頼を受け、その討伐へと向かった。しかし、森の中で彼女を待っていたのは想定以上の無数の魔物たちだった。エステルは必死に戦ったが敵の数があまりにも多かった。
森の中を必死に逃げたが、エステルは徐々に追い詰められ、やがて動けなくなった。
「まだだ……まだ終われない」彼女は歯を食いしばった。
こんな所で死ぬわけにはいかない、家族の仇を討つまでは死ねない。そんな想いも虚しく彼女の体は限界を迎えており。エステルの意識は闇に包まれていた。
エステルの意識が再び戻った時、彼女は動けぬ剣となっていた。
人の形はなく、ただ冷たい金属の感覚だけが残っていた。しかし、不思議なことに彼女の意識は明確だった。周りの世界を感じ取ることができ、時の流れを知覚することもできた。
最初は混乱し、恐怖さえ感じた。しかし、やがてエステルは理解した。自分は死んでなお、その想いから解放されず、天国にも行けず、剣に宿ってしまったのだと。
時はひたすら流れた。その間、彼女には剣としての人生があった。
名匠の剣として、何人かの手に渡った。
最後の持ち主は、二百年前のエステルに似た、幼い少女だったと思うが。その頃から彼女は、徐々に剣としての意識も失っていった。
自我を失い、記憶を失い、無と化していった。それでも何処かで常に自分の使命に囚われていたのだ。
そして、あの日。一人の少年に拾われた。
その少年──レイからエステルは、ただひたすらに生きようとする強い意志を感じ取り。再び剣としての意識が目覚めた。
それは、何だか懐かしくも感じたが、その時は二百年前の決意や、記憶など、とうに忘れ去られていた。
しかし、ドラゴンとの戦いの中で再びレイの魔力を強く受けた瞬間、突如としてエステルの中の記憶が漲る力と共に蘇ったのだ。
そして最後、ドラゴンの巨大な体が地面に崩れ落ち、戦いが終わり静寂が訪れた時。エステルに、大きな達成感と共に二百年前から抱えてきた〝想い〟が溢れ出した。
「エステル...?」
レイの声が聞こえた途端。複雑な感情が涙へと変わって流れ出る。
そこには喜びと悲しみ、安堵と後悔、そして深い感謝の念が混じっていた。
彼のお陰で自分はこの時を迎えられたのだと。
「ありがとう……」そしてエステルは、一気に張り詰めていたものが切れ、崩れ落ちた。
最後に見たのは、慌てて駆け寄るレイの姿だった。エステルは静かに目を閉じた。私の長い旅は、ようやく終わりを告げたのだと……そんな風に思っていた。
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