第三章 その三
翌朝、日の出と共に目を覚ましたフォグル。幼い頃からの習慣は形を変えて今でも続いている。リードを起こさない様にそっと部屋を出ると、昨日の内に見つけておいた広い訓練場へと足を運ぶ。途中ですれ違うのは朝の仕込みを始める料理人達や夜勤の兵士達。「おはようございます」と挨拶を交わしながら中庭に出ると、早速準備運動を始める。誰も居ない訓練場で軽く汗をかくまで走り込むと、持って来た幾つかのねじ込み式の棒を二つ繋ぎ合わせ、片手剣程の長さにして素振りを始める。それが終われば更に棒を継ぎ足して
かれこれ二時間程度体を動かしたフォグルは、起き出して来たメイドや執事達、夜勤明けの兵士達と交代の兵士達で賑やかになって来た所で切り上げ部屋に戻る。部屋に戻ると流石にリードも起きていた。
「ふぁ~あ……。朝も早よから精が出るな」
ホレと、リードは水で濡らした布を手渡す。
「有難うございます」
汗で濡れた服を脱ぎ、リードが用意してくれていた布で汗を拭く。心地よい冷たさに浸りながらも、フォグルはささっと着替えを済ませる。
「洗い物は部屋番号の付いたその篭に入れて置け。メイド達が回収して洗っておいてくれる」
フォグルは言われた通り脱いだ服を篭に入れておく。
「うっし。それじゃ朝飯にすんぞ」
リードの案内で二人は朝の食堂へと向かって行った。
朝の食堂は夜勤明けの兵士とこれから勤務に就く兵士達とでごった返していた。リードはいつもの事と慣れた様子で料理を受け取って行く。流石の混雑にフォグルは戸惑いながらも、リードの見よう見まねで料理を受け取って行く。注文せずに料理が出て来るあたり、朝のメニューは選べない様だった。効率優先である。
人は多いが用意されている席はそれ以上に多く、座る所に困る事は無かった。二人はさっさと食事を済ませると、一旦部屋に戻った。通常ならリードは朝を済ませたらそのまま仕事場である北西門へと向かうのだが、今日は同室の新人の初勤務。迎えが来るというので見送ってから行く事にしていた。
待っている間、リードはフォグルの兵士姿を隅々までチェック。自分の様な門番ならそこまで気にする事もないが、フォグルは仮にも姫付きの近衛だ。姫の傍にいる兵士がだらしのない恰好では示しが付かないというものだ。
姫にもフォグル自身にも恥を掻かせる事にもなりかねない。それに同室のリードは後輩の面倒も見られない薄情者かと思われるのは
「渡された制服はこれで全部か?」
「のハズですけど……」
着慣れない白を基調とした豪奢な制服に、フォグルは着心地が悪そうだった。
リードの目から見ても、どうにも
「よし。まあ何だ……明らかに浮いてるが、その内馴染んで来るだろ……タブン」
「だと良いんですけど……」
そうこうしていると、コンコンコンと戸をノックする音がする。
「どうぞ」
フォグルが返事をすると戸を開け、フォグルと同じ制服を着た男が入って来る。近衛隊の兵士だ。こちらはフォグルと違い、ビシっと着こなしている。
「お前がフォグルだな? 隊長からの指示でお前の案内役を務めるブリーズ=カームだ。
既に大変な粗相を働いたフォグルに、ブリーズは先輩風を吹かせながら忠告する。
「リードさん。それじゃ行って来ます」
「おう。あんまり気張り過ぎんなよ」
ブリーズに従ってフォグルが部屋を出て行くのを見送ると、フロストリードも自分の持ち場へと向かって行った。
兵員宿舎とは違い、華美ではないが明らかに上質な扉、壁、絨毯! まだクラウディアの部屋の外だと言うのに、この差である。当然と言えば当然の事である。
ブリーズはやや緊張した面持ちでクラウディアの部屋の隣、
「おーい姫様朝ですよー。ちゃんと起きてますかー?」
ノックもなしに無造作に扉を開けてクラウディアの部屋に無断で入って行く。
「ちょっ! おまっ! 馬鹿っ!」
余りに非常識な行動に、メイドも目を丸くして唖然としている。
男性がクラウディアの部屋を訪れる際は、必ず傍付のメイドに取り次いでもらう事になっている。例外は父である公爵と、近衛隊長のクリアードくらいのものだ。表向きは。
(だと言うのにあの馬鹿はっ! 不敬罪で死罪になってもおかしくないぞ!)
直ぐに摘まみ出そうとブリーズもフォグルの後を追って部屋に入る。
「申し訳ございません! 新人が御無礼を…………を?」
ブリーズの目に飛び込んで来たのは、予想を大きく超える光景だった。
「あなたの新人近衛が初勤務の挨拶に来ましたよ。起きて下さーい」
ベッドで寝ているクラウディアをフォグルがユサユサと揺すって起こそうとしていた。
(終わった……。死んだわ、あいつ)
初めての後輩で実は浮かれていたブリーズは、目の前が真っ暗になる思いだった。
「う……ん……? フォグル……か? うーん、あとごふ……ん…………ん? フォグル?」
「はい。お早うございます」
ニコっと笑い掛けるフォグル。
「きゃああああああああああああああああああああああああ!」
部屋に姫の大絶叫が轟く。
「なん……何で居んのよ! 出てけ! 今直ぐ出てけ!」
「何だ。起きれるじゃないですか。じゃあ次は着替えましょうね」
クラウディアの言う事などどこ吹く風。フォグルは淡々と「着替えはここかな?」と勝手にクローゼットを漁り始める。が思った様な服が出て来ないので、扉の所で彫像と化しているメイドさんに訊ねる。
「あ、すみません! 姫の着替えは何処でしょう?」
「え……あっ、はい! 姫様の着替えは
思考停止しているメイドはフォグルに訊ねられるまま、予定していたクラウディアの着替えを……フォグルに手渡す。
「ちょっと! 何でそいつに渡すの! 分かったわ。着替えるから、それを渡してさっさと部屋から出てけ!」
ズビシ! とクラウディアがフォグルを指さして一番真面な事を言う。
が、フォグルは次の瞬間──スポーンとクラウディアの寝間着を脱がしてしまう。
何が起こったか理解していたが、頭が真面に働かず、いや、今起きて居る事を理解したくない姫の心か。相反する感情と羞恥で体が固まっていた。
「な、な、な、な…………」
クラウディアが言葉にならない言葉を漏らしている間に、フォグルは何故か手慣れた様子で用意された女物の服をクラウディアに着せて行く。実の所、ヘイリアの寝起きが悪く、泊まりに来ると必ず朝はフォグルが起こして着替えさせていたのだった。フォグルにとって寝起きの悪い女を起こして着替えさせるというのは、至って当然の行為でありやらなければ行けない儀式なのだ。
ヘイリアが単にフォグルに甘えていただけだという事実を知らず、繰り返す内にそれがフォグルの常識になってしまっていたのだった。
「はい。出来ましたよ姫様」
なので、我ながら完璧な仕上がりにうんうんと満足しているフォグルの顔面に、クラウディア渾身の枕の一撃が炸裂するまで、否、炸裂しても何が問題だったのかフォグルが気付く事は無かった。
その後大暴れするクラウディアを何故かフォグルが
「ううう……」と顔を真っ赤にしながら唸るクラウディアだったが、そんな反応もヘイリアの時に散々経験済みのフォグルは気にもしない。自分でやらせておいて、時々忘れて羞恥から暴れるのもヘイリアの寝起きの良くあるパターンだった。かと言ってそれを理由にしなければ一日中不機嫌極まりないのだから、フォグルにはやらないという選択肢はないのだった。
「挨拶も済みましたし、次の予定は?」
フォグルはブリーズに指示を仰ぐ。
「……あ、ああ……。次は関係者への挨拶回りと城内の案内だ」
二人がクラウディアの部屋を辞そうとすると、「待てい」とクラウディアが呼び止める。
「予定は変更! 今からそいつには私の護衛をして貰うわ!」
「えっ……!? いえ、しかしそれは……」
クラウディアの突然の予定変更に戸惑うブリーズ。
「私の命令よ! クリアード様にもそう伝えておきなさい」
「はっ。承知しました」
命令とあれば従うしかないブリーズは、フォグルをその場に残し部屋を辞す。クラウディアに言われた通りクリアードに予定が変更になった旨を報告に行く。
「どういった風の吹き回しで?」
「別に。あんたもあの先輩が居ない方がやり易いでしょ?」
「とは言っても、まだ何も聞かされていないんですが」
「別に難しい事なんかないわよ。私の傍に居ればそれでいいのよ、それで。城の案内くらい私がしてあげるし。その方が色んな所を見られるわよ。……それにしても今気付いたけど、あんたのその恰好……ぷっ」
余りにもお仕着せなフォグルの姿に、クラウディアは駄目だと分かって居ながらも笑いが漏れてしまう。
「似合って無くてすいませんね」
笑われた事に怒るでもなく、似合っていない自覚のあるフォグルは苦笑する。
「それで、今日の姫様のご予定は如何様で?」
「そうね……取り敢えず……お腹が減ったわ!」
「では朝食に致しましょう」
クラウディアは朝食を済ませると早速フォグルを連れて城内を案内する。クラウディアが先立って歩くので、何処に行っても顔パスである。
とは言えフォグルはディザステルが床に伏してからは、この州都ヴァルムの近郊に移り住んで居たので、街には頻繁に訪れては隅々まで散策し、フォグルの知らない場所など無いと言っても過言ではない。
城を出て街の食堂でフォグルとクラウディアの二人は昼食を取る。姫と近衛が同じテーブルで食事をするという奇異な光景に周囲はザワザワとしていたが、当の二人はそれが当然とばかりに、全然気にして居なかった。
その食事中にフォグルはクラウディアに提案する。
「姫。折角ですので、街の外に行って見ませんか?」
「ええっ? 流石にそれはマズくない?」
と言いながらも、興味津々のクラウディア。顔にはハッキリと「行きたい」と書いてある。
「確かに。以前の様に姫一人では外に出るのは危ないでしょう。ですが、今はどうです?」
「なるほど……。フォグル、あなたと言う頼もしい近衛が居ますね」
「でしょう?」
外に連れ出したいフォグルと外に行って見たいクラウディア。言い訳を用意してやれば
昼食を済ませると大人しく人に慣れた馬を一頭借り受け外壁の北門へ。門番に「夕刻の鐘には戻る」と告げ街の外へと繰り出した。引き止められたらどうやって言い
街の外に出たフォグルは、前に乗せたクラウディアを気遣いながら少しずつペースを上げて行く。大分クラウディアが馬に慣れた所で、
一時間ほど馬を飛ばしてヴァルムの北にある小高い丘の頂上へと辿り着く。そこには小さな小屋がポツンと一つ。
「ようこそ姫様!」
大仰にお辞儀して見せるフォグルに、クラウディアもハッと気付く。
「もしかして……これ、フォグルの家?」
「狭くて汚い家ですが、幸い屋根と壁は御座いますので。馬での遠出は疲れたでしょう? 休憩するくらいは十分に出来ますよ」
疲労よりもどちらかと言えばお尻が痛いのが気になっていたクラウディアだが、直ぐには小屋に入らず頂上から辺りをぐるりと眺めて見る。南には陽の光を反射してキラキラと光る水田が、北には
丘は丁度その中間地点にある様で、水田と麦畑の比率が徐々に移り変わって行く様子もまた、クラウディアには美しく映った。そしてそれはフォグルも同じ思いであり、居を構えた理由でもあった。
「綺麗でしょう?」
「ええ。本当に……」
「これが、ルーイヒエーベネです。姫が将来、生涯を掛けて守って行くべき物です。この豊かな恵みを……そしてそれを生み出すルーイヒエーベネの人々を」
「
クラウディアは大きな声でそう宣言すると、くるりと振り返ってフォグルの顔を覗き込む。
「あなたはそんな私を守って下さるかしら?」
悪戯な笑みを浮かべるクラウディアに、フォグルは片膝を付いてクラウディアの手を取る。
「力の及ぶ限り、姫を守るとお約束します」
「あら? 口付けはしてくれないのね」
「私の唇は妻に捧げましたので。正義の神は裏切れません」
「なら仕方ないわね」
ちょっと残念そうにクラウディアは零す。
「はあーぁ……。気が抜けたら疲れて来ちゃったわ。休憩しましょ!」
そう言ってクラウディアは足早に家の中に入って行く。フォグルも後に続いて勝手知ったる我が家へと足を踏み入れる。小屋の中は簡素な作りで、土間と居間のみである。クラウディアは物珍しそうに家の中をキョロキョロと見回していた。その間にフォグルは出来るだけ柔らかい綿詰めの敷物を押し入れから引っ張り出して来る。念の為にとそれを二枚重ねにして敷いていると、「とう!」という掛け声と共にクラウディアが飛び乗って来た。
ボフっと見事にクラウディアを受け止めた敷物に埋もれながら、クラウディアはフォグルに緊張した声音で訊ねる。こうでもしておかないと、足が
「あんな約束をしてくれた後で何なんだけど……、フォグル、あなた……」
「フリーレンの事でしょうか?」
フォグルはクラウディアに背を向ける様にして居間の端に腰掛け、言い淀むクラウディアの質問の先を促す。
「……ええ……。私は──私達は、あなた達に恨まれこそすれ、守ってもらえる様な立場じゃないわ。だって、私達は…………あの村を、見捨てたんだから……」
「…………仕方のない事です」
「でもっ!」
ガバッと起き上がるクラウディアに反応して振り返ったフォグルの顔には、悲しそうな、泣きそうな、でも笑っていようとする、そんな笑みが浮かんでいた。
フォグルはクラウディアの言葉に、首をフルフルと横に振る。
「仕方のない事だと理解しています。僭越ながら僕が領主様の立場だったとしても、同じ様にしていたでしょう。飢えたホーホエーベネの脅威は今の比ではありませんでした。今より兵が少なかった当時、北の小さな村の為に兵を回す様な余裕は無かったでしょう」
フォグルは当時を思い出す様にそっと目を閉じる。
「勿論当時の僕は『何で助けに来てくれなかったのか』と怒りを覚える事もありましたが、それ以上に『僕が弱かったせいだ』という思いの方が強かったですから。それに、それを言うなら悪いのは勝手な都合で攻め込んで来たベルクヴェルクの連中でしょう? 彼らの事情も調べは付いていますが、だからと言って僕は、彼らを許す気はありません。必ず妻を取り返します」
「その為に軍に?」
「ええ。そうです。軍に対抗するには軍をもってするより他にありませんから」
「だったら私の護衛なんかに回されちゃって──」
フォグルはクラウディアの言葉を遮る様に、
「──なんか、じゃありません。それならそれでやり様もきっとある筈です。例えばこんな風に──」
クラウディアの、まだ未成熟な体に手を伸ばす。
何をされるか察したクラウディアは、目を閉じギュッと身を固くする。こうなるかも知れない事は、此処に来る前から覚悟していた。それでもいざそうなると、やはり緊張するものだった。
しかしフォグルの手はいつまで経ってもクラウディアの体に触れる事は無かった。
「とまあ、姫を手籠めにして出世して軍の指揮権を得ると言うのも一つの道ではないかと。まあ、僕には神に誓った妻が居ますのでそんな事は致しませんが」
クラウディアが恐る恐る目を開けると、ケロッとした顔でフォグルが笑っていた。
「うぅ~…………もうっ!」
ドンとフォグルの体を突き飛ばす。
「はっはっ。……もう、お相手は決まっているのでしょう?」
「……良く知ってるわね。近衛隊長のクリアード様よ」
「成る程。いや、だからあの若さで近衛隊長なのですね」
「父様がお決めになった事よ。よっぽど一人娘の事が心配なんでしょうね。まあ、政略結婚は貴族の娘なら当然の事。別に不満はないわ。それに……」
フフっとクラウディアは不敵な笑みを浮かべる。
「浮気は貴族の
クラウディアはスッとフォグルに手を伸ばすが、サラリと躱されてしまう。
「僕は平民ですので。妻以外の女性と関係を持つ気はありません」
「村が襲われて、その後どうなったかも分からないのに?」
「生きてますよ。妻は」
確信を持ってフォグルはそう答える。
「彼女を殺せる人間なんてこの地上にも、天上にも存在しません。それ程に、彼女は強い。そんな彼女を牢屋で腐らせておく馬鹿は居ませんよ。必ず戦場に出てきます」
「そんな強いなら一人で逃げて来られるんじゃないの?」
「彼女は
「つまり、奥様を助けようと思ったら村人丸ごと助けなきゃ行けないって訳ね」
「それが出来れば一番ですね。僕は最悪村人を見捨ててでも妻を助ける積りですが。妻の
そう言って笑うフォグルの瞳に、昏い物を見るクラウディア。
「ここでの話はどうぞ御内密にお願いしますね」
「明日からもちゃんとフォグルが私の傍に居るなら、考えてあげるわ!」
「お易い御用です」
フォグルの言葉で安心したのか、クラウディアは眠気を催して来た。
「ふわぁ~あ……。何だかドッと疲れたわ。ちょっとお昼寝するわね……」
「はい。お休みなさいませ」
スヤスヤと眠るクラウディアから視線を外し、フォグルは天井を見上げる。その先の空を見つめる様に。州という見えない壁で隔絶されたこの同じ空の下でヘイリアは今どうしているだろうかと。
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