第16話 ディヌ リパッティ(Dinu Lipatti)

 ディヌ リパッティというピアニストを知る人もだんだんと少なくなっていくのだろう。僕が学生の頃は「グリーグとシューマンの協奏曲」の名盤と言えば必ず名前の挙がっていたピアニストだけど、昔よくあったこの二曲の組み合わせ自体、今では古めかしいカップリングとなってしまったような気がする。そういえば以前はチャイコフスキーとメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲なんかも定番のカップリングであったけど、今はそうしたカップリングにこだわるレコード会社も少なくなった。確かに以前はお仕着せのカップリングには多少うんざりさせられることもあったが、が逆に言えば分かりやすいし、買いやすいと言う長所もあった。今はそうした必要がだんだんと少なくなってきているようだ。

 例えばポリーニはシューマンのピアノ協奏曲をシェーンベルクのピアノ協奏曲とカップリングして録音したがこれは単なる組み合わせの変化ではなくカップリング自体にメッセージ性が生まれてくる組み合わせであった。従ってこの盤について言えば、シューマンとシェーンベルクをそれぞれ取り出して語っても全ての意味を把握することが出来ない。「なぜシューマンとシェーンベルクを組み合わせたのか」という意味が新たに生じているのだ。とすれば、以前のようにレコード会社が組み合わせを勝手に変えて発売するとそのメッセージ性が視聴者に届かなくなるという事態も発生することになるのだろう。

 リパッティのこの全集では、シューマンとグリーグはペアとなっておらず、シューマンはモーツアルトの21番と、そしてグリーグはショパンの1番とカップリングされている。シューマンとモーツアルトは若き日のカラヤンによる伴奏である。


 アルフレッド コルトーが絶賛したルーマニア生れのピアニストは僅か33歳でこの世を去った。31歳でこの世を去ってしまったウィリアム カペルと共に「早世して惜しまれる」と言う意味では双璧の天才的なピアニストは、しかしカペルとは全く異なる方向を向いていたと思う。だがEMIに残された極めて少ない(僅か5枚)の演奏はその少なさに関わらず、必ず聴く人の耳をそばだてるであろう。


 残念ながら一般にピアニストは、指揮者と違って歳を取れば取るほど自らの身体的機能の衰えにさらされ、とはいえ指揮者のように楽団にその技術やエネルギーを補完して貰うことは出来ない。従って多くのピアニストが最後に”老醜ろうしゅう”をさらした、というようなことを言われてしまう。ケンプだって、あのホロビッツさえそういう道を歩んできた。

 その意味では絶頂期に世を去ってしまったピアニストはそうした陳腐ちんぷな非難に晒されることもなく聴衆から惜しまれるだけである。鬼籍きせきに入った以上、それまでに得た名声は下がることは基本的にはあり得ない。その意味ではカペルとリパッティは共通しているが、航空事故で突然目の前のキャリアを奪われてしまったカペルと違い、リパッティは1950年に亡くなる3年前に悪性リンパ腫の診断を受けていた。

 その事実を前にリパッティは強くたじろいだに違いない。しかし、彼は演奏し続け、録音をし続け、医者に止められても演奏会をキャンセルしなかった。確かに歳と共に腕が衰え老醜を晒すのは恐ろしいことなのだろう。しかし芸術家にとってそれ以上に恐ろしいのは忘れ去られることなのかもしれない。よく人は「記憶に残っていることで生き続け、その記憶が忘れ去られることによって二度目の死を迎える」というが、そうしたセンチメンタルなコメントはこのピアニストによく似合う。今残っているEMIのこの録音の殆どは病を告げられた1947年以降のものであり、病魔にも関わらずリパッティが意欲的に演奏をしていたことを示す物である。そしてその演奏に死の刻印が強く押されているのはごく自然なことである。


 この全集に入っている曲目を見ると分るとおり、リパッティが弾く「作曲家」のレパートリーは決して狭いものではない。バッハ、モーツアルト、ショパン、シューベルト、ブラームスからエネスコに至るまで幅広い演奏をしている。ただそれらの作曲家の中からいくつかの曲を選んで演奏しているという感じはある。例えばショパンでいえばワルツをシューベルトならばアンプロンプチュをと言う風に。限られた命の中で限られた曲を演奏することを彼は密かに心のうちで決めていたのであろうか?

 その中で唯一ベートーベンだけは演奏されていない。あの時代は不思議な時代でとりわけベートーベンに関しては「不文律」みたいなものがあり、あのバックハウスでさえ苦しめられていたらしい。端的に言えばベートーベンを「気兼ねなく」演奏できるピアニストはシュナーベルとかエドウィン・フィッシャーとかに限られていた。とりわけコンチェルトなどは伴奏してくれる指揮者やオーケストラという問題もあったはずだ。

 リパッティには唯一チェロソナタの録音が残されていると聞くが、ピアノソナタでもなく、ましてピアノ協奏曲でもなくチェロソナタの伴奏だということがそうした背景に裏付けられているのだと思う。ちなみに師匠のコルトーもカザルスやティボーと残した大公トリオの録音以外では唯一協奏曲の1番を(戦後に更に音楽会の中心とパリをも追われた形で)録音しているだけである。この時代では今のように演奏家が好き勝手(?)に演奏できる状況ではなく何らかの不文律が支配していたのであろう。逆にだからこそ、ショパンやリスト、ブラームスなどに逃げる演奏家が独自にそこで花を咲かせると言った効果もあったと言えるかも知れない。とはいえ、もし彼がベートーベンの30番のソナタや4番のコンチェルトを演奏していたらどのような美しい調べを奏でたであろうか、とつい想像してしまう。

 もっとも彼が将来いつかの録音に備えて練習していたのはワルトシュタイン・ソナタと5番のコンチェルトであったらしいけれど。


 さて、少しずつ彼の演奏を聴いていくこととしよう。

 まず1枚目のディスク。バッハのパルティータやコラールはピアニストにとって特に難曲というものではないのだろうが、彼の演奏から立ちのぼる得も言われぬ香気はなんであろう。特にBMW147は初心者でも弾ける曲であるが、彼の指先からつま弾かれる音からは敬虔けいけんさとそこはかとない悲しみが溢れだし、心を打つ。

 それはスカルラッティやモーツアルトにも引き継がれる。こうした古典派以前の音楽にリパッティはテクニックを使うことなく音符をそのまま重ねていく。スカルラッティのL.23のソナタなどよく耳にする曲であるが、その高貴さは聴き手に背中をぴしりと伸ばさせる最も美しい演奏の一つである。

 Disk2には二つの協奏曲が収められている。シューマンのピアノ協奏曲は出だしの悲愴感が甚だしい。誰が弾いても突き刺すような悲愴感のある曲想であるが、リパッティのそれに勝るものはない。ロマン派の演奏におけるリパッティの指使いは古典派以前のものとは違って個性的な主張が露わでロマンティックな彼の心情がそのままピアノの音に乗っていく。

 前のめりのピアノの切迫感はオーケストラを引っ張るように前に進んでいく。楽章が進むほどにその緊張感は高まり3楽章でリパッティの紡ぐ強い和音は押し寄せる波のような強い迫力を生みだすが、その音は大洋のしぶき一つない青い海の波のように濁り一つない。カラヤンの指揮もフィルハーモニアもソリストに引っ張られ、次第に呼応するように高揚感を増していく。ピアノもオーケストラも残響を振りきるようにざっざと音の雪をかき分けていく。(カラヤンはテンポの設定をソリストに許さないのでピアニストは不満を抱くケースが多いらしいし、リパッティもそうした不満を漏らしたと聞くが演奏からはそんなことは感じない)

  ルツェルン祝祭管弦楽団(旧:別名スイス祝祭)とのモーツアルトはライブと言うこともあって音は籠もりがちで余り良くない。とはいえ1950年8月という死去の直前の録音であるにも関わらず、ピアノの音色は全くそれを感じさせない澄明なものであるが、正直言ってオーケストラの質はそれほど高くない。今のルツェルンは良くなったのかも知れないがこの頃のルツェルン祝祭管弦楽団はやはり「寄せ集め」のオーケストラの感を拭えない。そのためやや聴き手も集中力が途切れがちになるだろう。聴くべきは1楽章の終盤のカデンツァでリパッティ自身の手によるカデンツァは明るいかと思うと突然日差しをさえぎる雲が出てきたかのように仄暗ほのくらくなり、心が揺れるさまを明示している。

 グリーグのピアノ協奏曲は曲そのものをどうとらえるか、議論の余地のある曲である。多分にロマンチックな曲で、初夏のノルウェイの海辺で夕暮れに焚き火をしながら若い女の子と語らうような趣があっていささか恥ずかしい。だが、そのてらいのないロマンティシズムやリリシズムがリパッティの心を強く捉えていたことは疑うべくもなく、そこに命や恋やあらゆる肯定的なものの躍動を見ていたのだろう。至って楽しげに演奏をするピアニストの姿がそこにある。

 ショパンの協奏曲も何の衒いもなく感じたままの抒情性を発揮して演奏をしていく。1楽章の3分過ぎのパッセージなどは天国から流れてくる音楽に聞える。ルパートを多用しようともペダリングの少ないピアノは音の切れが極めて良く、それは彼の全ての演奏を特徴付けているのだけど、ショパンにおいてはその効果が最も発揮されるのかも知れない。ただこの二曲に関してはやはりオーケストラパートが必ずしも万全ではなく(特にショパン:ただし、ショパンのピアノコンチェルトでオーケストラパートが万全というのは稀だし、下手に万全だとやたらと重くなる傾向がある)他にも指揮者はいたのではあるまいか、と思う。同じルーマニア出身のチェリビダッケは指揮活動を始めていたし(ベルリンでそれどころではなかったかもしれないけど)コルトーを指揮したフリッチャイとか、クリュイタンスだってサンソンフランソワの伴奏をしたわけでEMIももう少し人選の余地があったのではないか、Walter Leggeさん?と問いたくもなる。

 ショパンの3番のソナタとリストは1947年の録音でこの年、リパッティはDisk2に含まれているスカルラッティのL.413を皮切りに精力的に録音を開始する。その4年前ナチドイツの占領下であったルーマニアを脱出し、ジュネーブ音楽院で職を得て(この際、エドウィン・フィッシャーの援助があったらしい)からしばらくの間リパッティは録音をしていない。既に病状が顕在化していたこともあろうが、その病気が悪性リンパ腫だと診断されたのが1947年の事である。

 その年の2月の20日にスカルラッティを3月にショパンを9月にリストを(その前にグリーグのコンチェルトを挟んで)録音している。病気の診断がその年のいつ伝えられたのかは分らないが、急激に録音が増えたのと無関係とは思えない。全般的に1947年に録音された曲は音色が暗く、翌1948年に録音されたものの方が感情が豊かに感じられるのは健康状態の悪化にも関わらず共にジュネーブに逃げてきたマドレーヌと結婚したからであろうか。(1948年と1950年は健康状態に関わらず、リパッティのレコーディングという意味では豊穣ほうじょうの年である)

その1948年に録音されたショパンのワルツを聴くと、モノクロの戦前のパリの映画を鑑賞しているような時代を超越した懐かしさを覚える。切ない、なんとも言いようのない感覚が呼び起こされ涙腺を刺激するのだ。単に古びた音でなくそこになんとも言えぬ艶めいた響きを感じるのは僕だけであろうか?それはショパンのワルツというよりは「リパッティのワルツ」であり、他のピアニストと比較するような種類のものではないのである。

 エチュードの二曲は1950年2月、死の10ヶ月前にチューリッヒのトーンハレでライブで録音されたもので(ショパンの協奏曲と一緒に録音されたと記録されている)やはり録音の質は今一つであるが、聴衆はop25.5の暗い音調に死の予感をop10.5の明るい音調に彼は死後も音楽の天使として生き続けるのだろうと直感したに違いない。ブザンソンでコンサートの前にすでにその指は死の予感を拾って音にしてしまっているのだ。

 そして聴衆は彼のその先の運命を見通すことができたのであろう。そんな彼のつま弾く音を愛する人々はとりわけヴィルトゥオーゾと呼ばれる人々(リパッティをヴィルトゥオ-ゾと主張する向きもあろうが)やその息子達が鍵盤から生み出す音に聴覚が耐えられない感じを受けることがあるに違いない。それは幸福であり、不幸である。幸福という意味は、ピアノという楽器の本義は「弱音」を表すからで、ピアノフォルテをピアノと略した意味からするとリヒテルやゼルキン、あるいはポリーニやアルゲリッチの音色でさえ、聴くに堪えない強さであり大きさであるとも言えるから。そしてリパッティやコルトーがコンチェルトでどんなに鍵盤を強く叩いてもそれは「正しく強い」のだという感覚の範囲内に収まるからだ。

 とはいえ、だからそれが全てだと主張すればもしかして「不幸」に繋がるのかもしれない。リパッティを敬愛する余りその他のピアノを否定するというのはどこか違う、とそう思っている。ただ一つ言えることは、様々なピアニストが彼の死後にも生まれているにも関わらず、彼の後継者たるピアニストは一人として見当たらないことであろう。



*DINU LIPATTI

<Disk 1 >

JOHANN SEBASTIAN BACH

Partita Nr.1 B-dur,BMW 825/Choralvorspiel "Nun komm' der Heiden Heiland " BMW,599 arr. Bussoni/Choralvorspiel "Ich ruf' zu dir, Herr Jesu Christ" " BMW,639 arr. Bussoni/Choral "Jesu bleibt meine Freude" arr. Hess(aus BMW 147) Siciliana arr.Kempf(aus BMW 1031)

DOMENICO SCARLATTI

Sonata E-dur L.23(KK 380)/Sonata d-moll, L413(KK 9)

WOLFGANG AMADEUS MOZART

Klaviersonate Nr.8 a-moll,KV310

FRANZ SCHUBERT

Impromptu Nr.3 Ges-dur, D899.3/Impromptu Nr.2 Es-dur, D899.2


<Disk 2 >

ROBERT SCHUMANN

Konzert fur Klavier und Orchester a-moll op.54

WOLFGANG AMADEUS MOZART

Konzert fur Klavier und Orchester Nr.21 C-dur, KV467

Philharmonia Orchestra(SCHUMANN)/Festival Orchestra Luzern(MOZART)

Dirigent:Herbert von Karajan


<Disk 3>

EDVARD GRIEG

Konzert fur Klavier und Orchester a-moll,op.16

FREDERIC CHOPIN

Konzert fur Klavier und Orchester Nr.1 e-moll,op.11

Philharmonia Orchestra /Dirigent: Alceo Galliera(GRIEG)

Tonhalle-Orchester Zurich / Dirigent: Otto Ackermann(CHOPIN)


<Disk 4>

FREDERIC CHOPIN

Sonata fur Klavier Nr.3 h-moll,op.58

FRANZ LISZT

Petrarca-Sonett Nr.104 Nr.5 aus Annees de Pelerinage II

MAURICE RAVEL

Alborada del gracioso Nr.4 aus Miroirs

JOHANNES BRAHMS

Walzer fur Klavier zu vier Handen op.39 *

Nr.1 H-dur/Nr.2 E-dur/Nr.5 E-dur/ Nr.6 Cis-dur/Nr.10 G-dur/Nr.14 a-moll/Nr.15 A-dur

GEORGE ENESCU

Sonata fur Klavier Nr.3 D-dur, op.25

* mit Nadia Boulanger(Klavier)


<Disk 5>

FREDERIC CHOPIN

Walzer Nr.1-14

Etude e-moll op.25,5

Etude Ges-dur op10,5

Bracarole fis-dur op.60

Nocturne Nr.8 Des-dur, op.27,2

Mazurka Nr.32 cis-moll op50,3

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