第4話-3 マウリツィオ ポリーニ (3) 古典派及びそれ以前

 ポリーニのメインの演奏対象はショパン・ベートーベン・そして現代音楽作曲家群(シェーンベルク以降)の三つにあると僕は考える。それにロマン派の作曲家(シューベルト、シューマン、ブラームス)の曲を選択的に加えたのが彼の主要レパートリーを構成している。

 その領域から少し外れているのがモーツアルト、バッハ、ドビュッシーの三人の作曲家であり、モーツアルトはベートーベンの前駆さきがけとして、ドビュッシーは現代音楽の前駆として考えているのではないか、というのが僕の見立てである。

 残りのバッハはピアニストにとっての一種のオブリゲーションであり、ポリーニにとってチャレンジの対象としてレパートリーの枠外にあるのではないか(これはまだ聴いたことが無いので想像でしかないが)。その意味ではグールドにとってのバッハ、カサドゥシュやピリスのモーツアルトと同じ熱量で二人の作曲家の演奏を語ることは難しいだろう。逆にその熱量で語ることが出来る古典派の作曲家は只一人、必然的にベートーベンということになる。


<バッハ>

 バッハは現在の所、平均律クラヴィアの第1集が録音されたのみで、その録音から15年を経た今でも第2集が録音された形跡はない。またこの第1集は知る限り現在単体では市販されておらず、僕はその演奏を聴くことが出来ていない。賞賛やら失望やら様々なコメントがこの演奏に寄せられているが、演奏を聴かずにコメントをすることはできないので、今後再発売されたらその際、何らかの形でその感想を記すこととしたい。

<モーツアルト>

 ポリーニの最初の協奏曲の録音(ただしショパン国際コンクール直後に録音されたショパンの第1番の協奏曲とノーノの「力と光の波のように」は除く。前者はコンクールの記念演奏であり、後者は協奏曲としてはやや特殊なものであるから)がモーツアルトの19番と23番である事は僕にとって謎である。その謎は年を経る毎に深まってきており、恐らく本人に問いただす以外には解くことは出来ないであろう。

 先ほど僕自身の見立ては記したが実際のところ、ポリーニにとってのモーツアルトという作曲家はどのような存在なのか?知る限り、ソナタや独奏曲は録音しておらず、協奏曲にしてもこの後録音したのは最初の録音の29年後、自身の指揮でウィーンフィルと録音した協奏曲12番と24番の一枚、そして同じく協奏曲17番と21番があるのみである。

 バックハウスのようなベートーベン弾きでさえもモーツアルトの独奏曲の録音はいくつか残っている。同じベートーベン弾きのゼルキンやギレリス、或いはホロビッツやリヒテルなどもモーツアルトの独奏曲の幾つかの演奏を残している。グールドに至ってはほぼ全曲を演奏している。それなのにポリーニはモーツアルトの独奏曲を一切録音していない。

 にも関わらず最初のコンチェルトの選択がモーツアルト。なぜ?と思うのは道理であろう。ポリーニの技巧をもってモーツアルトの独奏曲を演奏するのが「牛刀をもって鶏を裂く」の譬えに・・・などとは本人も思っていないに相違ないのだが。


 そしてポリーニにはもう一つの謎、というか特徴がある。彼はこのモーツアルトとベートーベンの最初の協奏曲全集、そしてブラームスの最初の協奏曲の録音を終えた後、相当の期間をイタリア人以外の演奏家としか共演していない。(最初のショパンの協奏曲もパウルクレツキの指揮なのでそれに該当するだろうがこの時点ではポリーニには共演するアーティストに関しての選択権はなかったであろう)そしてその際の相手はカール ベームとオイゲン ヨッフムのみであり。当時のグラモフォンの看板指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤンとの共演はない。

 1980年以降、彼が録音という形で共演した相手は指揮者ではクラウディオ・アバド、ジョゼッペ シノーポリ、弦楽四重奏団ではイタリアSQとほぼイタリア人に限定されている。(例外はライブレコーディングのティレーマンとのブラームスのピアノ協奏曲二曲)なのになぜ、最初の協奏曲の相手がアバドではなかったのか?既にこの頃アバドはグラモフォンにも録音を開始しており、ウィーンフィルであれ、ミラノスカラであれ、ロンドン交響楽団、ドレスデンであれ共演は可能であったはずだ。(事実ノーノについてはアバドとバイエルン放送交響楽団という組み合わせである)あまり指摘されていないが、ポリーニは共演者をかなり選ぶタイプのピアニストであることは間違えなく、その点アルゲリッチとは違うタイプのピアニストである。(まあ、アルゲリッチの「選ばない」程度も相当の物で両極端過ぎる気もするが)

 なのに・・・最初の協奏曲の共演者として彼はなぜベームを選んだのか?或いはそれは彼の本意ではなかったのか?後付けではあるが様々な疑問符を抱かせつつ、彼は19番と23番を録音した。(ちなみにポリーニ自身はベームを敬愛していると言って憚ることはない。おそらくは本心であろう。ただ共演者や演奏する作曲家、とりわけ完全に同世代の作曲家を選ぶ際には明らかにイタリアに偏っている)

 そうした幾つかの疑問に拘わらず、今聴いても、この一枚は名演である。ベームのモーツアルトの交響曲などは一般的に分厚すぎてそぐわない感じがないでもないが、この協奏曲のオーケストラは抑制的でそのタクトは端正なピアノを引き立てている。

 モーツアルトの協奏曲の多くはテクニックを重視するよりはその曲想をいかに描くかに重点があるため、従来から女流ピアニスト(リリークラウス、クララハスキル、イングリッドへブラー)の演奏が重宝されたし、男性では重厚なバックハウスや強靱なリヒテルよりも寧ろロベール カサドゥッシュとかエリック ハイドシェックなどのエレガントな演奏の方が好まれる傾向があるように思う・・・というかヴィルトゥオーゾタイプのピアニストが演奏しても「アドバンテージがない、或いは小さい」のがモーツアルトで、だからこそモーツアルトは難しいということも出来るのだ。(まるで卵料理のようなものだ)

 僕自身もカサドゥッシュやハイドシェックの演奏を好んで聴く。

 だが、圧倒的テクニックを持つポリーニの演奏は、それをみせびらかすこともなく、ベームの指揮と共にモーツアルトの本道を行く端正さを備えたものである。それでいながらモーツアルトの演奏に必要な軽妙さも併せたもので、モーツアルトのピアノ演奏集という集合写真の中にゆっくりと割って入りその中央にどっしりと腰を据える事のできる演奏である。ただポリーニの打鍵はこの段階ではモーツアルトにおいて、やや強いと思わせる部分があるのは事実で(例えば19番の第1楽章の後半のタッチ。それはベートーベンだと有効になるのだが)、後に書く2005年以降の演奏ではその点が是正されているように思う。

 モーツアルトというのは様々な演奏を許容する深さのある作曲家だが、一方で聴衆に演奏者の好き嫌いをはっきりと感じさせる作曲者である。端的に言えば、ストラビンスキーやベルクについて、その演奏家の好き嫌いは表面化しにくい(正直言って演奏家の前に作曲家の好悪の方が先行するので、と言うのが実情であろう)。それはモーツアルトという作曲家が250年という歳月をかけて様々な演奏によって磨かれ、様々な様式を提示をされているために相違ない。

 そうした数多あまたある演奏の中で、このディスクは最上でかつ完璧な物に分類される一枚だと僕は思う。(とはいいつつ一方でなぜ19番と23番なのか、例えば25番とか27番とかでも良いのではないか?とぶつぶつ僕は言い続ける。だってむしろその方がポリーニに合っているのではないかとも思えるのだもの。しかし現段階において残念ながら未だにC-durもB-durも録音されていない)


 2005年と2007年にポリーニは自ら弾き振りによって四曲の協奏曲を演奏した。ウィーンフィルとのライブ演奏である。ライナーノーツの一部にポリーニがウィーンを自ら指揮してモーツアルトを演奏するのは自明の理のような事が書かれていたが、僕にはそうは思えない。例えポリーニが指揮に興味を持っていたとしても(残念ながらピアニストが指揮に興味を持つのは世界的にみて一般的傾向であるが、たいていは良い結果をもたらさない)本来ならばこのモーツアルトも信頼する指揮者、例えばアバドの指揮にゆだねたかったのではないかと思う。しかしアバドは2000年に胃癌を発症した後、復帰はしたものの、ウィーンフィルとは疎遠になっていた。アバドとポリーニの友好関係はアバドの死去まで続いていたが、アバドとウィーンフィル、アバドとドイツグラモフォンはそこまでではなかったのは事実であろう。ポリーニにとってモーツアルトをウィーンフィルと共に演奏するというのはベームとの録音によって最も安心できる選択肢であり、その結果としての弾き振りに「なってしまった」というのが正解ではないか?その後、ポリーニが弾き振りをした録音もないようである。

 だからこの演奏においてポリーニとしてオーケストラパートの大半はウィーンの自主性に任せていると思われるし、それはウィーンだからこそできる演奏だと思われる。ポリーニのピアノはベームとの共演よりずいぶんと滑らかなものになっており、それが不足に思える人もいるだろうし、それを寧ろ評価する人間もいるだろう。僕としては評価する側にいたい。

 寧ろ、このレベルの演奏がライブである事は驚きであると言って良い。オーケストラというのはライブで多少ミスがあってもわかりにくいが、ピアノははっきりと分かる。しかしこの四つの協奏曲の演奏で明らかにミスであると思われるところはない。その上オーケストラとのバランスやテンポでも過不足はない。どれほどのリハーサルがあったのかは不明だがやはりウィーンというのはたいしたオーケストラであり、ポリーニというのは素晴らしいピアニストである。


<ベートーベン>

 ショパンと並んでポリーニの演奏の中核をなす作曲家がベートーベンであることは言をたない。二度の協奏曲の録音(全曲に加えて「ピアノ、合唱とオーケストラのための幻想曲、op80(単に「合唱幻想曲」と呼ばれていることも多い)」とソナタの全曲演奏(「ディアベリのワルツ(に基づく)33の変奏曲」を含み、幾つかの再録音がある)という、ピアノに限ってのディスコグラフィの主要な曲をポリーニが殆ど網羅もうらした作曲家はこの二人のみである。いや、敢て言えば2曲しかない協奏曲の1曲を未だに演奏していないショパンより全ての協奏曲、ソナタを演奏しきったベートーベンこそ彼の演奏の中核をなすと言っても良いだろう。

 取り分けその最初の演奏が後期ソナタ(30番と31番)の演奏であったことは象徴的シンボリックであり衝撃的アストニッシングでもあった。ベートーベンのピアノソナタといえば月光・悲愴・熱情・・・あるいは(それらの曲を通俗的だとして)ハンマークラヴィアやヴァルトシュタインを挙げるといったそれまでの一般的な概念をくつがえす、画期的な演奏である、とこの盤に聞き惚れた人は僕だけではないだろう。

 今聞き直してみてもその演奏は他のピアニスト・・・例えばバックハウスなどと比べて、「全く違う曲ではないか?」と思わせるほど抒情性じょじょうせいに満ちた、かつ鮮烈な演奏である。そして次いでリリースされたハンマークラヴィアとop101/op110の3曲を合わせ、彼のベートーベンソナタ全曲演奏の旅は始まった。それはキリスト教徒がサンティアゴ デ コンポステラを、ユダヤ教徒がメッカを、仏教徒がルンビニを目指すような「巡礼の始まり」を告げている。

 その最初の一歩・・・Op.109の出だしは清んだ水底で清冽な地下水が湧き上がるような音から始まる。なんと表現して良いのだろう、ポリーニの指が描き出す第1楽章は音楽の最も美しい部分をすくった音の配列、とでもいうべきであろうか?神がもし存在するとしたならそこに存在しているのだ、そんな感覚が呼び覚まされる。

 2楽章の冒頭に現実に呼び戻された聴き手は今度は彼のつよい指から紡ぎ出される糸に絡まれて身動きできなくなる。まるで標本箱に昆虫張りで突き刺された蝶のように・・・。やがて3楽章の優しい音の配列によって聴き手は解放されたかのように感じるが、僕らはしかしまだ麻酔に掛ったままなのだ。主題から始まる変奏に転がされるまま次から次へと聴き手はポリーニとベートーベンが作り出すおとぎ話の中に登場するお城の不思議な部屋に通されていく。やがて再び主題が静かに紡ぎ出され、その柔らかな音色が突如止んだ時に僕らは「この世の外」に連れ出されているのだ。

 その不思議な経験に呆然としていると、どこからか宝石がきらめいているような音と共にop.110が始まり僕らは現実世界に生きていることを思い知らされる。

 だが・・・実はこの曲こそ幽界へ誘い込む曲なのかもしれない。第2楽章の激しくおどろおどろしいとも言える冒頭部分は「この門を潜るものは一切の希望を捨てよ」という銘を想起させる。そして悲嘆に満ちた第3楽章は門を潜り最早現世に帰ることなく苦しみに満ちたその後を予感させる旋律が続いていく。いや・・・まだ早まるなと細かい指が再び復活の予感を告げる強い響きを奏でそのまま終曲へと突き進んでいくのだ。

 この二つの曲がカップリングされ登場したとき、それを聴き終えた僕はその先に何があるのか分からないまま取り残されたように座り尽くしていた。

 今、CDで聞き返してみるとその2曲にop.111が続いて演奏される形になっている。op.111はその前の二つの曲が「感覚的」であったのに反し「宗教的」「教義的」な形で聴き手を浄化する。2楽章の後半に現れる細かいトリルは全ての苦悩を払い落とす柔らかな羽のようである。ソナタにも拘わらず2楽章で終わるのを「時間がなかったから」と語る作者はその後5年を生きたにも拘わらずその「ない時間」を埋めることもなく、新たなソナタを作曲することもなかった。だから・・・この曲は、あのシューベルトの有名な交響曲と同じ、「2楽章の未完成」と呼ぶに相応しい曲なのかもしれない。「未完成」でありながら「完成」され、それ以上付け加える何物ももたない二つの美しい曲がそこに存在するのだ。

 そしてポリーニは幼い鮭の稚魚が産まれた川の上流から海へと下っていくのではなく、成魚が遙か遠い海で故郷の川に匂いを嗅ぎ分けたかのように、最後の三つのソナタから遡るようにして32曲のソナタの大海を越えて源流へと遡っていく。いや・・・最初の2曲の演奏イメージからすると寧ろ西マリファナ海溝の透明で静かな水底で孵ったレプトケファルスが戻ってくるかのように、という譬えの方が相応しいのであろうか?

 いずれにしろop.109から始まる後期ソナタに魅了されてしまった聴き手はその遡上に・・・いや宗教的巡礼に否が応でも同行させられるのだ。もちろんそれは楽な旅路ではない。その過程で脱落していく者も多いだろう。他の教義に魅せられて行く者もいるであろう。


 レコードで初出の発売ではハンマークラヴィアは1曲で一枚という構成であった。43分という演奏時間を考えれば妥当なところであるが、貧乏学生にはたった1曲のそれも知らないソナタに2800円(位だったと思う)を払うのは一つのかけのように思えた。(今でこそ大人買いができるようにはなったけど)だが、ポリーニはもちろん賭を裏切るようなことはしないでくれた。その世界は静寂なop.109とは違い力強さに満ちた壮年の響きであった。

 op.109の五年前に作曲された事もあって4楽章からなる巨大なソナタの構築する世界は宗教的に聞える最後の三つのソナタと全く別の、現世における壮大な建築物・・・例えばベートーベンも見たであろうあの「ケルンの大聖堂」のゴシック様式に装飾された荘厳な姿を想起させる。ピアニストはその姿を余すことなく照らし出すべくこの壮大な曲に挑むが、決して力任せではなく、梁は地平と水平に、クワイヤ(礼拝所)に施す装飾は一つも違えることなく、尖塔はあくまでも天を目指すように高く鋭く構築していくのだ。不思議なことにポリーニの紡ぎ出す音(取り分け初期のそれ)はピアノとか音楽を離れた様々な別世界を想起させる。ショパンの前奏曲の時のような小川・宝石箱・ベートーベンの時には深く静かな海、大聖堂・・・。それは詩的でもあり、プルーストの物語的でもあり、僕らの気づかぬ感受性を喚起する。

 その後、ポリーニは一旦ソナタの演奏を休み、協奏曲集の完成にとりかかる。その嚆矢に当たるのがop.58 第4番というベートーベンのピアノ協奏曲の中でもっとも優雅な曲であった。ソナタと通底する完璧さと抒情性を併せ持った演奏は今なおこの曲のベストに推されるべき素晴らしい演奏である。伴奏はモーツアルトと同じくカール ベームが指揮するウィーンフィルハーモニー管弦楽団であり、モーツアルトにおける卓越した演奏に遜色そんしょくない全く隙のない名演である。ベートーベンによる長いカデンツァ(これは長いといっても50小節バージョンだと思われる)もポリーニの手に掛ると幽玄とさえ思える光を湛えつつ聞き惚れている間に、オーケストラと再び柔らかに邂逅かいこうし、楽章を終える。短い愁いを帯びた第2楽章から一転、曇りのない晴れやかなイタリアの青空のような第3楽章へと転じポリーニの鋭い指先は何の躊躇いも狂いもなくデッサンに音を描き上げていく。その見事さに僕は暫くこれ以外の演奏(例えばクレメンスクラウスの指揮するバックハウスとかカラヤンの伴奏によるワイセンベルクの演奏とか)を受け付けることさえできなかった。

 その三年後、ポリーニは同じベームと共に第3番と第5番の録音をする。もちろんこの時点でポリーニは全曲の録音をすることを決めていた筈である。凡そ、どんな場合でも全曲録音と単発では演奏者側の心構えも違えば、聴く方の受け止め方も変わってくる。同じ作曲家の協奏曲であれ、ソナタであれ、演奏家にとって非常に弾きやすく相性の良い曲もあれば、そうでない場合もあるだろうし、聴き手にとっても様々な演奏を聴く中で曲毎に好みというのは自然にできあがってくる。だから全曲演奏というのは常に演奏側にとっては挑戦である、と僕は思っている。

 取り分けベートーベンの協奏曲に関してはその5曲全てが性格の異なる曲であり、その上ひとつひとつが易しい曲ではない。第3番と第4番は比較的間を措かずに完成した曲であるが、調性(第1楽章がト長調とハ短調)も性格もかなり異なっている。正直なところ、第3番と第4番のどちらも名演・・・というのはなかなか難しい注文であるように思える。また何人かの著名なピアニストが片方をオミットしている。

 そうした困難さを抱えた演奏であるが、ポリーニは高い次元で両立させていると僕は思う。ただ、3番に関していうと、例えばリヒテルの演奏と比べて(リヒテルは4番も5番も録音していない)どうか、と言われるとうーむ、と唸り声を上げざるを得ない。

 第4番が他の追随を許さないほどの名演であったのと比べてそういう感想を持つのはもしかしたら曲を聴く順番(どちらの演奏を先に聴いたか)にもよるのかもしれない。人間の好悪などは思ったより単純なものであり、いくら後付けの理屈をつけても、音楽は聞いた順番や回数、俳優は画面で見た回数で脳内に侵入していくものなのだ。

 そういった事を割り引いて考えるべきだとは思うのだが5番に関してもグールドやミケランジェリの複数の録音と比べると、曲のもつ性格の複雑性を鑑みたときポリーニの演奏は率直過ぎ、グールドやミケランジェリの解釈に比べて物足りないと思う人がいるのも致し方なかろう。だが5番に関していえば僕はポリーニの演奏は非常に優れたものだと思う。ミケランジェリやグールドの演奏に強く惹かれつつも、正統性という点ではポリーニに軍配が上げて少しもおかしくないからであって、演奏の質という点ではこの三人の演奏はどれも否定しがたい優れた点があると思えるのだ。ベームの伴奏も十分で聴き応えがあり、ミケランジェリの伴奏を行ったチェリビダッケやジュリーニ、グールドと共演したストコフスキーやアンチェルに優ることはあってもひけをとることはない。

 だがそのベームは、しかしこの協奏曲集の完成を待たず1981年に鬼籍に入ってしまう。1979年時点で残す協奏曲は第1番と第2番の初期の作品で、無理をすればベームの生存中に完成を見られたはずであるが(ベームは第3番と第5番の録音の翌年に来日している、但しそれが最後のウィーンフィルハーモニー管弦楽団との共演になった)現実はベームの死後2年経ってから(或いは1年後、所有しているCDが記載している年月日は録音ではなく初出の発売年月日のように思える)ベームの8年後に生まれたヨッフムによって完成を見る(ヨッフムもこの時点では既に80歳になっている)。

 ただ、この指揮者の変更は全体の演奏の質に余り影響しているとは思えない。ヨッフムもベームからの継続性をかなり意識していて、第1番など時折ベームに比べてオーケストラに対するグリップが弱いと感じさせるところはあるものの、正統的な演奏という点ではさすがのタクトテクニックである。(このヨッフムという指揮者は不思議な人で、経歴はかなり輝かしいし、ウィーンフィルやベルリンフィルなども振っていてるわりには存在感がどこか薄いような気がするのはなぜであろうか。でもって、なぜかオルフのカルミナブラーナだけは彼の演奏が常に名盤として登場するのも不思議である)協奏曲集という形で完成したために却って埋もれてしまいがちだが、数ある名盤に一歩も引けを取ることのない演奏、というか一押しの演奏の一つであることは間違えない。

 そして・・・op.80 ピアノと合唱とオーケストラのための幻想曲、通称「合唱幻想曲」を伴奏しているのは協奏曲と同じウィーンフィルハーモニー管弦楽団、指揮はクラウディオ アバドである。ベームとの共演で始まった協奏曲集の指揮はマエストロの死後、オイゲン ヨッフムに引き継がれ、1987年にヨッフムが逝去したことによってアバドに再度引き継がれることになる。

 アバドとはこの演奏の数年後、ベルリンフィルとのライブで協奏曲の録音をすることになるが、1979年に開始された協奏曲のチクルスを完了したのが9年後(それから僅か4年後に再録音することになる)、その掉尾とうびがop.80というこの事実にポリーニの本質があると僕は思う。この演奏を追加したことはポリーニが叙情的な青年ピアニストであると同時にアルヒーフを完成させたがるタイプのピアニストだということを示している。

 ピアニストの中でも例えばホロビッツとかアルゲリッチ、或いはリパッティ、コルトーなどは、どちらかというと「好きな曲しか弾かないピアニスト」であり、殆どの場合「全集」という形で完成させることがない。リヒテルもその一人であろう。

 だがポリーニは「集合体」を作るべきと考えたときは徹底する、そういうピアニストのようにみえる。ドイツ系のピアニストはそうした傾向が強い(ケンプ、バックハウス)し、意外なことに変人で知られるグールドとかもそういう系統である(彼はモーツアルト、バッハの独奏曲、ベートーベンの協奏曲で完成形を実現した。ベートーベンのソナタだけは残念ながら完結しなかったが、大凡の曲は演奏しきっている。残念ながらやはり全集という形では評価が芳しいとは言えないが、いずれの演奏も大変質の高いもので、意義のある演奏である)

 意外なところではワイセンベルクとかルービンシュタインがショパンでそういうクラスタ的な演奏をトライしており、サンソン フランソワを含めてショパン弾きは意外と「全集」を目指す人が多いようだ。ショパンにしてもベートーベンにしても、作曲家の能力が高いため、演奏する側も全てを演奏してみたいという欲望にとりつかれるのかもしれない。

 アバド/ベルリンフィルとの共演による再録音は1992年と93年にわたり、ライブ録音で全曲が完成されている。ブラームスにしてもベートーベンにしても最初の録音はスタジオ録音、再録音がライブ演奏というのは共通している。一つの理由はポリーニに限らず、全てのピアニストの傾向としてスタジオ録音よりライブ録音を好むという傾向が出てきたことだろう。

 またそれだけではなく、本来放送用として録音された音源が局の中に保存されていたのが、複雑だった著作権の壁を越えて少しずつ市場に出始めたというのが実情で、本来レコードを峻厳として拒否していたチェリビダッケやミケランジェリの録音なども彼らの死後続々と発売されている。ポリーニやアルゲリッチの場合は少し違って、もちろん本人の了承の下、発売されるわけだがスタジオ録音のように何度もセッションを経るのではなく、一期一会いちごいちえ、再テイクなしの演奏という考えがそれだけ普及してきたというのが事実であろう。スタジオ録音というのは録音・編集・製版という事業そのものがもの凄く「コストが掛っていた時代」の遺産でもある。もっともグールドのように「一回こっきり」の演奏より、録音の完成度を求めコンサートから撤退したピアニストもいるわけで、そこは「考え方」によるものでもあろう。

 それにしてもポリーニのライブ盤の演奏はスタジオ録音のものと甲乙つけがたい水準の演奏である。よく考えてみれば、精度という点でライブ演奏がスタジオのものと同レベルというのは驚くべきところである。例えばト長調(op.58) など、もしベームと録音した旧盤が存在しなければやはり画期的な演奏として賞賛されたに違いあるまい。生演奏にある、得も言われぬ緊張感を伴った迫力のあるピアノは、なおかつ明晰さを失うことはなく、アバドにしては「分厚め」に感じられるオーケストラのサポートを受け突き進んでいく。

 結局、どの曲に於いても「ライブの醸し出す緊張感」と「スタジオ録音のより精密な演奏」、「アバドとベルリンフィルのやや重厚さのある伴奏」と「ベーム、ヨッフムがウィーンフィルと作った典雅さ」のどちらを選ぶかという選択肢であり、ポリーニその人の演奏レベルはほぼ同一といっていいのではないか、と僕は感じている。

 一方で協奏曲全体を俯瞰すると、出来不出来と言うより曲との相性がやはり残っているのは変わらない。例えば4番とか1番は名演奏と言って憚ることがないし、5番も名盤の一つであると思うが、やはり3番はアバドの伴奏のものでもどこかしっくりしないものを感じる。

 それこそが曲に内在するアポロン的なものとディオニュソス的なものへの相性なのかもしれない。アポロン的なものとディオニュソス的なものという扱いはニーチェの「悲劇の誕生」に由来する一種の分類であるが、何かを二分するとか、混在をしない純粋なものであるとかを意味するものではなく、あらゆる芸術には明晰・理性さと感情・情動が不可分に存在しているのであって、例えばベートーベンの7番交響曲にディオニュソス、第8番交響曲にアポロンを割り当てるような論に僕は与しない。

 ただ、例えばポリーニの場合、同じ水準の演奏であってもop.58に与える煌めきがop.37では膨らんでいかないというのは作曲家が情動にやや傾いたとき、それを掬うよりも立て直そうとする動きが曲を窮屈に感じさせてしまう、というような事はあるかと思う。ポリーニの明晰さは第4番の協奏曲を輝かせ、第3番では少しくすむ、そういう事はあり得るだろう。


 さて、ソナタの演奏に戻ろう。1988年、op.80通称「合唱幻想曲」の録音と前後してソナタの演奏を再開したポリーニが録音したのがop.31-2通称「Der Sturm(テンペスト、嵐)」,op.53通称「ヴァルトシュタイン(人名:語意は森の石)」、次いでop.79、op.81通称「告別」の4曲でこの選曲は明らかにポリーニの意思が明確な選曲である。4曲の録音の並びがop順、(少なくともこの場合は)作曲された年代順で録音されており、またop.31に属する3曲が纏めて録音されておらずに分割されてop.31-2のみが録音されたという事実、にもかかわらずポリーニが全曲録音自体は進めたという事情からすると、晩年の5曲に続いて選ばれた「中期以降の作曲になるこの4曲」は明らかにポリーニが「好む曲」の選択であったと理解できる。

 最晩年の3曲の演奏に感じられた宗教的な諦念、静かな心情・ハンマークラヴィアに代表される荘厳さと比べると、この4曲も纏めたアルバムは全く異なった印象を聴衆に与える。難聴に苦しめられ始めたベートーベンが絶望の淵に彷徨っていた頃、op.31の3曲は作曲されたがその感情を昇華させる強い意志が感じられるのが「嵐」という曲であり、また「ヴァルトシュタイン」は既に明確に絶望を突破した強靱さが感じられる曲である。とりわけヴァルトシュタインの第1楽章の激しく強い曲調、それを受けた第2楽章の落ち着いていながら深く沈んだ感情の表出、そして第3楽章に見られる激しさを保ちながらどこか明るく突き抜けた曲想の全てがポリーニによって見事にそして鮮やかに描き出されている。このヴァルトシュタインはバックハウスのものと並んで(アプローチは全く異なるけど)僕に取ってかけがえのない名演である。面白いのはop.79で、非常に短いこのソナタ(当初はソナチネの扱いであった)のをポリーニが敢て選んだことである。子馬が跳ねるような元気の良い第1楽章はこの曲が気難しげなベートーベンが聴力をほぼ完全に失った頃に書かれたとは思えない陽気さを感じさせるが、その楽章をポリーニは巧みに強弱をつけ、単なる明るい楽曲としてではなくその底に流れる感情らしきものを描き出す。そして一転物思いに耽る表情を見せる第2楽章、気を取り直すような第3楽章と進み急に立ち止まったように弾き終え、ポリーニは素知らぬ顔で椅子から立ち上がろうかとするようだ。だが思い直してもう一つの曲を弾き始める。作曲家自身によって「告別」と名付けられた変ホ長調のソナタは名前が想起させるよりも激しい曲調である。寧ろベートーベンは何と「告別」しようとしたのか、それを考えさせるようなタイトルでもある。

 難易度が異なるこの4曲は、どちらかというとベートーベンの激しい情念を感じさせる曲を選択しているように思えるのは間違えだろうか?

 だが次のアルバムは、少し趣が異なる。attaccaで切れ目なく繰り出されるそれぞれの楽章のうち、やや激しい2楽章を除けば先のアルバムに比べずっと穏やかな、或いは明るいop.27-1でこのアルバムは幕を開ける。ベートーベンが肉体的、精神的に追い詰められるかなり前に作られたこの3曲は形式的には伝統的なもの、革新的な曲が混在しているものの、情動という意味では激情というより叙情が勝っている。(月光の特に3楽章はやや当て嵌まらないが)とりわけPastorole(田園)というタイトルが付されたop.28の醸し出す叙情性はショパンの持つ叙情性よりも、もうすこし風景的な色合いが強くだからこそ「田園」というサブタイトルが付いたのであろう。ショパンの曲、特に前奏曲や練習曲が「静物画」の趣があるとすれば、まさに「風景画」を想起させる。

 この二つのアルバムは「全集」という意識を抜いて聴けば「ヴァルトシュタイン」や「月光」など、とびきりの名演と言って差し支えないと思う。「月光」のような曲はえてして聴き手自らの感情に合致した時に聴いた演奏を懐かしむ気持ちが出る曲であり(僕の場合はホロビッツがCBSに録音した演奏がそれにあたる)、演奏自体への素直な評価と異なる事があるけど、単独でポリーニの演奏を聴けばやはりこれに匹敵する演奏はそう多くはない。また「田園」のようなオーソドックスな曲でも途切れることなく耳を聳たせる、そうした技量というのは並のピアニストではない。

 5年後、更にベートーベンのソナタの系譜を遡るようにしてポリーニはop.22とop.26という4楽章を持つ二つのソナタを録音をする。ウィーンのムジークフェラインの大ホールで1997年1月、ライブで演奏した2曲に付け加えられたのは同年2月に同じ場所でやはりライブで演奏されたヴァルトシュタインでこれが恐らく最初に「録音を二度行ったソナタ」ということになる。ポリーニのベートーベンのソナタはそれまでミュンヘンのヘラクレスザールでスタジオ録音で行うのが通例であったので、この録音はかなり例外的であり残響も他の録音と比べ長めに感じるのは場所のせいであろう。(特にop.22は曲の性質から残響が多少気になる聴き手もいるかもしれない。op.26は逆にこのくらいの残響が心地よい)

 op.26はベートーベン中期の名作の一つであり、ショパンの好んだ曲の一つである。ポリーニの演奏もそれを意識してか、ショパンを演奏するときのあの端正な表情が垣間見える。ベートーベンが付け加えた第4楽章(作曲の経緯からすると本来このソナタを構成する一部ではなかったと言われる)はショパンがピアノソナタ2番の葬送行進曲(第3楽章)に付け加えた短い4楽章の元になっているような気がしてくる。あのショパンの第4楽章はいつ聴いても少し違和感を覚えるのだけど、ベートーベンのop.26を聴いた後ではなんとなく腑に落ちるのだ。

 二度目の録音になるヴァルトシュタインは響きの違いもあって、スタジオ録音と比べやや明るく聞えるがライブとは思えぬ完成度の高さで甲乙つけがたい。精度はスタジオ録音の方が高いが1楽章の緊張度などはやはりライブの方が迫力がある、そんなありきたりの感想であるけれど、それが「事実」である。ライブ演奏では2楽章と3楽章を連続演奏(attaca) をしているので演奏時間は正確には比較できないが、第1楽章はどちらも9'59"で全曲を通しても23分程度、とほぼ同じなところはポリーニらしい、感情のブレのなさを示すものだろう。ウィーンの聴衆はこのレベルの演奏を聴いても無闇にブラボーとか叫ばないのがとても好ましい。

 この録音に次いで発表されたのが「ディアベッリのワルツ(に基づく)33の変奏曲」である。この曲は作曲家がソナタ32曲の作曲を終えた後、1823年に作曲された最後のピアノ独奏曲ということもあり、一般的には晩年の傑作と呼ばれ、またソナタの全曲を録音したり、トライした錚々たるピアニスト、例えばバックハウスやグルダ、リヒテルやアラウなども手がけた曲でもある。(但しグールドは録音していない)

 僕自身はポリーニ以外にはグルダとアファナシエフ(いつもの通り、演奏時間は通常の2割増である)の二枚を持っており、既にグルダの項でこの曲に関する感想を記したのであるが、ポリーニの演奏を聴いた後も原則、その意見は変わらない。ただ、あえて一つ加えるとしたら、この演奏の第9変奏あたりから、ふと現代音楽に繋がる微かな響きを聞き取ったことで、これはグルダの演奏でもアファナシエフの演奏でもない経験であった。それはこの作曲家の後期の弦楽四重奏曲をラサールSQが演奏した盤に感じたものと似通った響きだった、という印象を付け加えるに留めておきたい。

 ポリーニのベートーベンソナタの全曲は現在「全集」という形で購入できるのだけど、2002年に録音された「熱情」を含む4曲(残りは22/24/27番)の一枚は(従来、ライブ演奏を含めて2枚版として販売されていた)現在廃盤になっていて、残念ながら「悲愴」と「月光」との組み合わせで販売されている「熱情」しか手に入れることができていない。

 こうした販売方法は少し疑問が残る。なぜ他の全曲が一枚でも購入可能なのに、唯一この録音のみが全集でしか手に入らないのか、有名な2曲とカップリングする方法も含め、あまりにもレコード時代と同じような古いカップリングの手法には苦言を呈したい。基本、販売時と同じ形でリリースするのが演奏家にとっても購入者にとっても望ましいリリースの方法ではないのか?全集という形は結構なのだけど、変なカップリングは止めて欲しいと思うのは僕だけだろうか。

 それはともかくとして、「熱情」もまたこれを単独で聴いた場合、非常に優れた演奏であるという事実は変わらない。「月光」はホロビッツ、「熱情」はリヒテルが僕にとっての「刷り込み現象」的な演奏なのだけど、もしポリーニをそれ以前に聴いていたら取って代わられたかもしれないと思う。それほど音の粒立ちの明確な、非の打ち所のない演奏である。是非この演奏を含めたオリジナル版を再発売してもらいたい。

 作品10の3つのソナタは18世紀末に連続して作られた曲でop10に統合されているが、曲の性格はかなり違っていて、op10-3は特にベートーベンの中期に繋がる完成度の高い曲である。この中で「クラブサンまたはピアノフォルテのためのソナタ」という名称を与えられたのはこのop10-3のみだが、確かにこの曲はピアノフォルテの性格に合致している。逆に言えば、op10-1/2はポリーニの手によるかどうかに関わらず、現代のピアノフォルテ(恐らくスタインウェイ製のピアノ)で弾くには「牛刀を以て鶏を裂く」ような感触になるのを避けられない。

 その上にポリーニの技巧が乗っているので、もう軽自動車のフレームにアルミホイールを履かせて150馬力のエンジンを乗せて走らせたような演奏になってしまう。それを避けるためには曲想にあった楽器の選択という手段(おそらくポリーニにはあり得ないだろうけど)を考えた方が相応しいような気がする。

 と言うこともあって、op10とop13の計4つのソナタを収めたアルバムの評価は、前2曲と後2曲で異なるのは仕方ないし、それは作曲家、楽器、ピアニストの組み合わせの幸不幸によるものだと考えるべきである。だからこそ、繰り返しになるが「熱情」「月光」「悲愴」という(怪しからん)アルバムができあがった(この3曲はベートーベン、ポリーニ、スタインウェイという組み合わせが極めて有効な楽曲である)のかもしれない。(まあ単に三大ソナタだから、という事だろうけど)逆に言うとop10-1/2あたりを、そういう印象を回避するような形で演奏すると高い評価を得やすいという事にも繋がる、という単純な図式もあり得るわけである。

 こういうアルバムはピアニストには損で、取り分け後の2曲の名演ぶりは霞んでしまうのだけど、ポリーニは余り気にしていないのかもしれない。


 3年後ポリーニはソナタの大河を更に遡って行き、op.2の3曲を録音する。op.7を含めて4曲残っている(実際はop.22は1997年のライブ版があるので再録となる)のだが、その前に源流に辿り着いた理由は何であろうか。

 op2-2のようにハイドンやモーツアルトの残滓が強く残る少女のように可愛らしい曲、同じく残滓を抱えながら華やかさと沈痛さを兼ね備えたop-2-3、番手は1番和解にも拘わらず、後のベートーベンを思わせる雄渾さの兆しを窺わせるop2-1と性格が異なる4楽章の三つのソナタは見事に再現されていて、その前のアルバムに比べるとむしろ違和感はない。特にop2-1は上出来の演奏であり、この演奏を越えるものは少ないだろう。

 2012年、残った曲の中からポリーニが選んだのは初期の大作op.7の変ホ長調、とop.14-1/2の3楽章から構成される比較的小さな2曲、そして4楽章構成に再度戻ったop.22の4曲である。どこか先祖返りを思わせるop.14-1/2はブラウン夫人に献呈された物だが、もしかしたらアマチュア用の練習のためと言った意図があったのかもしれない。とても可憐な2曲をポリーニはかろんずる様子もなく、とても丁寧に演奏している。


 そしてポリーニはもう一度、何かを遡るようにベートーベン最後のソナタ群に挑む。それを聴くのは僕に取ってとても勇気のいることであった。

 1977年に録音されたあの目覚ましい演奏を聴いたものにとって、あれ以上の演奏があり得るのか?若き日のポリーニに対する畏怖の念と、僧侶のように40年を掛けてピアノに立ち向かっていった同じ人に対する確信との狭間で僕は半年ほど躊躇った。

 その躊躇いの中でポリーニの弾くショパンやらシューベルト、それ以外のピアニスト、例えばバックハウスやゼルキン、カサドゥシュやミケランジェリの演奏、クレンペラーの膨大な交響曲群やらミトロプーロス、ライナー、セルなどの卓越した演奏を聴きながら、ときが熟するのを待った。そしてベートーベンのピアノソナタの旅を(少し欠落しているが)ポリーニと共に済ませ、漸く彼の旅の帰結を聴くことを決心した。


 1977年版の録音場所は手持ちのCDには記載されておらず、レコードには「ミュンヘン」と記されているのみであるが、その後の録音の記載場所を見る限りヘラクレスザール(なんと懐かしい響きであろう。ミュンヘンに住んでいたときにコンサートの聴衆としてたびたび訪れた場所であり、バイエルン放送交響楽団の本拠地である)であると思われる。ただ同じ録音場所でありながら随分と異なる響きであり、それは恐らく録音方法だけではなくピアノそのものも違うのではないかと(どちらにしてもスタインウェイであることに変わりはないだろうが)推察する。

 透明さより華やかさ、沈痛より解放、そうした印象の変化に戸惑いつつ、聴けば聴くほどやはりポリーニだと思わせる随所におけり伸びやかな音に魅了される。様々なところで以前より明らかに表情をつけながらポリーニは音を刻んでいく。聴き手が意識すべきことは二つの演奏によって僕らは全く違う地平に立たされているのだ、という事実である。ロマン派・・・シューベルトやシューマンに繋がる抒情的な演奏はそこにはなく、その代わりに積み上げてきたベートーベンの結論としての「音の奔流」がそこにある。

 どちらが優れた演奏という比較を拒絶し、「1977年のポリーニ」と「2019年のポリーニ」という二人の素晴らしいピアニストが響かせたベートーベンの最後のソナタ集なのである、と言うことを聴衆は理解すべきである。どちらが素晴らしいかなどと言う烏滸がましい事を考えてはいけない。ポリーニというピアニストが40年の年月を掛けて辿り着いた場所に共にいるだけなのである。耳を澄ませれば取り分けop.111は解釈の深みが増していて素晴らしい。以前の演奏で感じた「浄化」する柔らかいタッチではなく、深く抉るような感情の放出、崩れかかる寸前で立ち直る音の流れ。僕はそこにベートーベンが辿り着いたピアノの最後の地点を、まるでアムンセンが両極点に到達した記録のさまを見ているように感じるのだ。

 op.106では更に初期の録音との差が広がっている。例えて言えば同じ字句を楷書を行書に書き換えたとでもいえばいいのだろうか、演奏の速度もそうなのであるが音の流れの質が変化しているのだ。寧ろポリーニは「全曲の録音を完成した」後に敢て「別の様式」を提示しているかのように思える。

 確かに最初の録音でのハンマークラヴィアの音は王羲之の「樂毅論」の文字のような美しい並びであり、それに魅せられた人が新しい録音に同じものを見ることが出来なかったと失望をするのもあり得るだろうが、それは同じ人の手になる「蘭亭序」を見て字の崩れが不味いという評価をしているような物である。誰かに勧めるなら先ず最初の録音を勧めるだろうが、もしその人がクラッシック音楽を聞き続けていたなら、いつかそっと2021年版を手渡してみたくなる、そんな気になるであろう。

 残念ながら現在僕の手元には幾つかのソナタの録音が欠落していて、それを手に入れるためには全集を購入するしかないのだが、僕は敢て全ての録音が(ドビュッシーの練習曲やバッハの唯一の録音と共に)元の形で再発売されるのを待とうと思っている。凡人にとってはそういう形で「待つ」ことも「秋が熟す」ということの一つの形式なのかもしれない、そんな風に思っている。


<モーツアルト>

*Wolfgang Amadeus Mozart

Konzert fur Klavier und Orchesrter Nr.23 A-dur KV488

Konzert fur Klavier und Orchesrter Nr.19 F-dur KV459 ("Kronungskonzert")

Wiener Philharmoniker KARL BOHM

        Deutsche Grammophon 429 812-2

*ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 K.414(385p)

ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491

ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

マウリツィオ ポリーニ(ピアノ&指揮)

ユニバーサル(ドイツグラモフォン) UCCG-41096

*ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453

ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467

ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

マウリツィオ ポリーニ(ピアノ&指揮)

ユニバーサル(ドイツグラモフォン) UCCG-41095


<ベートーベン>

*LUTWIG VAN BEETHOVEN<Die Spaten Klaviersonaten>

Sonate No.28 A-dur op.101/Sonate No.29 B-dur op.106<Grosse Sonate fur das Hammerklavier>

Sonate No.30 E-dur op.109/Sonate No.31 As-dur op.110/Sonate No.32 c-moll op.111

Deutsche Grammophon 449 740-2 (1975/6/7)

*Konzert fur Klavier und Orchester Nr.1 C-dur op.15

Konzert fur Klavier und Orchester Nr.2 B-dur op.19

Wiener Philharmoniker EUGEN JOCHUM

Deutsche Grammophon 447 908-2(1983)

*Konzert fur Klavier und Orchester Nr.3 C-moll op.37

Konzert fur Klavier und Orchester Nr.4 G-dur op.58

Wiener Philharmoniker KARL BOHM

Deutsche Grammophon 447 909-2(1976/79)

*Konzert fur Klavier und Orchester Nr.5 Es-dur op.73

Fantasie fur Klavier,Chor und Orchester c-moll op.80

Wiener Philharmoniker KARL BOHM(op.73) CLAUDIO ABBADO(op.80)

(op.80)

Gabriel Lechner/Gretchen Eder,(Sopran) Elisabeth Mach,(Alt)

Jorge Pita/Andreas Esders,(Tenor)Gerhard Eder,(Bass)

Konzertvereinigung Wienner Staatsopernchor

Einstudierung:Walter Hagen-Groll

Deutsche Grammophon 447 910-2(1979/88)

*LUTWIG VAN BEETHOVEN <4 KLAVIERSONATEN>

Sonate No.17 d-moll op.31 No.2 <Der Strum>

Sonate No.21 C-dur op.53 <Waldstein>

Sonate No.25 G-dur op.79

Sonate No.26 ES-dur op.81a <Les Adieux>

Deutsche Grammophon 427 642-2(1988)

*LUTWIG VAN BEETHOVEN<DIE 5 KLAVIERKONZERTE>

Konzert fur Klavier und Orchester Nr.1 C-dur op.15

Konzert fur Klavier und Orchester Nr.2 B-dur op.19

Konzert fur Klavier und Orchester Nr.3 C-moll op.37

Konzert fur Klavier und Orchester Nr.4 G-dur op.58

Konzert fur Klavier und Orchester Nr.5 Es-dur op.73

CLAUDIO ABBADO Berliner Philharmoniker

Deutsche Grammophon 439 770-2(1992/93) Live

*LUTWIG VAN BEETHOVEN

Klaviersonate Nr.13 Es-dur op.27 No.1

Klaviersonate Nr.14 cis-moll op.27 No.2 <Mondschein-Sonate>

Klaviersonate Nr.15 D-dur op.28<Pastorale>

Deutsche Grammophon 427 770-2(1992)

*LUTWIG VAN BEETHOVEN

Klaviersonate No.11 B-dur op.22

Klaviersonate No.12 As-dur op.26

Klaviersonate No.21 C-dur op.53 <Waldstein>

Deutsche Grammophon 435 472-2(1997) Live

*ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ディアベッリの主題による33の変奏曲 ハ長調 作品120

      ユニバーサル(グラモフォン) UCCG6225(1998)

*ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ピアノソナタ第5番 ハ短調 作品10の1

ピアノソナタ第6番 ヘ長調 作品10の2

ピアノソナタ第7番 ニ長調 作品10の3

ピアノソナタ第8番 ハ短調 作品13<悲愴>

      ユニバーサル(グラモフォン) UCCG-90854(2003)

*ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ピアノソナタ第1番 へ短調 作品2の1

ピアノソナタ第2番 イ長調 作品2の2

ピアノソナタ第3番 ハ長調 作品2の3

      ユニバーサル(グラモフォン) UCCG-90853(2006)

*ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ピアノソナタ第4番 変ホ長調 作品7

ピアノソナタ第9番 ホ長調 作品14の1

ピアノソナタ第10番 ト長調 作品14の2

ピアノソナタ第11番 変ロ長調 作品22

      ユニバーサル(グラモフォン) UCCG-90855(2012)

*ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109

ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110

ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111

      ユニバーサル(グラモフォン) UCCG-40096(2019)

*LUTWIG VAN BEETHOVEN

Piano Sonata in A major op.101

Piano Sonata in B flat major <Hammerklavier>op.106

Deutsche Grammophon 486 3014(2021)

*ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ピアノソナタ第23番 ヘ短調 作品57

  op.13/op27-2は前出

      ユニバーサル(グラモフォン) UCCG-70002(2002*)

 *op.57


(レコード)

<モーツアルト>

Konzert fur Klavier und Orchesrter Nr.23 A-dur KV488

Konzert fur Klavier und Orchesrter Nr.19 F-dur KV459 ("Kronungskonzert")

Wiener Philharmoniker KARL BOHM

        Deutsche Grammophon 2530 716


<ベートーベン>

ピアノソナタ 第30番 ホ長調 作品109

ピアノソナタ 第31番 変イ長調 作品110

  ドイチェグラモフォン MG1006

ピアノソナタ 第29番 変ロ長調 作品106 <ハンマークラヴィーア>

  ドイチェグラモフォン MG1104

ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 作品58

  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:カール・ベーム

  ドイチェグラモフォン MG1050

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