第10話 ルドルフ ゼルキン

 今の時代、ルドルフ ゼルキンのような「求道的ピアニスト」は殆どいなくなった。

 先般、レコード店の店頭でラフマニノフのピアノ協奏曲の第2番が流れていた。音質は素晴らしいのだがやけに派手な演奏で、眉をひそめつつ店員に誰の演奏かと聞いたら、ある女性ピアニストのプロモーションのためのものであった。ムードミュージックのような演奏だなぁと、演奏と同じくらい派手なCDのジャケットを横目で見ながら僕はクレンペラーのモーツアルトの交響曲全集を購入したのである。

 それきり忘れていたのだが、ある日実家の整理に向かう電車の中で、NHKFMの「クラッシック音楽の聞き逃し」をイヤフォンで聴いていたら、似たような演奏が流れてきた。テクニックを躊躇ためらいもなくひけらかすような演奏というのは、ネタがやたら大きな鮨に似ている。最近はこういうタイプの演奏が主流なのか、と半ば感心し、半ばがっかりしながら聴き続けていたら、演奏終わりの紹介で、それがレコード店で聞いたのと同じピアニストの演奏であることが分った。ただ指揮者がアバドであった。レコード店で見たときは違う指揮者だったので、そちらの方は再録音されたものであったのだろう。クラウディオ アバドという指揮者は、実に柔軟にピアニストに合わせる指揮者で、従って協奏曲の演奏はダントツに多く、ある意味感心させられる。これほどコミュニケーション能力にけた指揮者というのも少ないのだろう。音楽家には珍しいタイプである。

 そのアバドがルドルフ ゼルキンとモーツアルトの協奏曲を別々のオーケストラで振っているCDがある。ゼルキンはモーツアルトを演奏するとき、ベートーベンを弾くとき、シューベルトを披露するとき、確実に弾き分けていて、このモーツアルトでは「軽やかに運指すること」を注意深く実行している。

 ポピュラーなK.466より演奏頻度の少ないK.451の方は取り分け丁寧に、かつリズムを正確に、愛おしむように演奏していて、共演者であるアバドもその意図を良く汲んで響きの良い滑らかな伴奏を心がけている。そんなこともありK.451を聴くときは、僕はこの演奏を標準として聴いている。ちなみにK.466はK.451と違ってスタジオ録音のようなのだが、1楽章でピアノもオーケストラも、時々崩れるのが不思議である。逆なら分かるのだけど・・・。


 モーツアルトの後はベートーベンを聴いてみる。ゼルキンも周囲から熱望されながら、この作曲家の多様なソナタの全曲録音をなし得なかったピアニストの一人。このとてつもない実力を備えたピアニストのベートーベンのソナタを、だが僕は僅か2枚しか持ちあわせていない。

 そのうちの一枚は(正確な録音のデータがないので良く分らないが)ゼルキンが還暦を迎えた頃にレコーディングした「月光」「悲愴」「熱情」の三大ソナタである。そしてもう一枚は88歳で死去した彼の最晩年、84歳の時にORF(オーストリア放送協会)がライブ録音した三つの(偉大な)ソナタである。たった二枚だけではあるがこのベートーベンのソナタを聴くと、ゼルキンというピアニストの人となりが良く分るような気がする。

 最初の一枚の三つの曲、多くのピアニストがそれぞれの曲に感情を調整して弾いていく。熱情のリヒテル、月光のホロビッツ、悲愴のグールド(グールド自体がこの曲を好きだったのかはかなり疑問だけど)など、ピアニストたちは銘々の個性に合わせて曲に感情を注入して演奏していく。

 だが、ゼルキンはそうではない。楽譜だけを見つめ、楽譜に書かれている音を忠実に、かつ淡々と演奏していく。だから、僕らはこの3曲が同じようなトーンで弾かれるという希有な(決して最初はそうは感じず、退屈だと思うかもしれないが)体験をするのだ。そしてリスナーは何度か繰り返して聴いている内に、ふとこの演奏こそが実は「本筋」なのではないか、と感じ始めるのではないか?

 最初から楽譜のタイトルにあった「悲愴」を除いては、「月光」も「熱情」も実は聴衆や出版社が「勝手に」つけたタイトルであり、必ずしも作曲家の意図とシンクロはしていないのだと。そして、このCDがそれを気づかせてくれるような演奏であり、実はこれこそは平凡なようで非凡な演奏だと。

 こうした演奏こそが真に深く難しい演奏なのだ。アパッショネータの終楽章、感情を黒鍵にぶつけていくピアニストが多い中、ゼルキンは冷静に、巧みに、そして意図的に淡々と音を重ねていく。それを物足りない、と思う人はアパッショネータという(本来の作曲家の意図とは別にある、出版社が編曲された連弾用の楽譜に付した)タイトルにからみ取られている。

 そしてベートーベンの後期の三つの素晴らしいソナタ、僕はポリーニの演奏(旧盤:新盤は購入してはいるのだがまだ聴いていない)を高く買ってい数多あまたのピアニストはこの三つの美しいソナタを「乾物」のような味に仕上げていたのだが、ポリーニはそこに瑞々しさをふんだんに加えることによって、この曲たちを生き返らせてくれた。(32番についてだけはデッカで発売されたミケランジェリの演奏が先鞭せんべんをつけていると言って良いかもしれない)

 だからこそ、この曲の演奏はpost-Polliniかどうかで全く違う。

 ポリーニの演奏は世間のピアニストに、それだけの衝撃を与える演奏であったのだと思う。もちろん、そんな告白をするとは思えないが、ゼルキンも恐らく何らかの影響を受けたに違いあるまい。

 ただ、ゼルキンはその演奏に更に何かを付け加えようとして、成功している。E-durのvariationsの最後の左手で奏でる鐘のような音・・・。As-durの出足の軽さ、とても84歳とは思えない瑞々しさと規律。規律を大切にしながら右手と左手のバランスがこれほど良い演奏というのはなかなかできるものではない。それにこの演奏はライブなのだ。どこも乱れずに淡々とそれでいながら活き活きと瑞々しいこの演奏。

 そんなゼルキンもc-mollではさすがに手子摺てこずったのか、ミスタッチも気になるほどに多発しているが、全体としての演奏のレベルの高さと規律の確保はとても80歳を越した人間のものとは思えない。ここにも彼の深く広汎な経験の積み重ねを感じる。

 次にシューベルトの遺作、二つのソナタは残念ながら今回聞き直す事ができなかった。レコードの保存状態が悪かったのか、それとも安物のプレーヤーの質のせいなのか、音飛びが酷くて聴くに堪えない状態だったのである。しかし音飛びの中で僅かに聞えてきたフレーズは酷い条件を飛び越して40年前の記憶を微かに、だが鮮やかに呼び覚ましてくれた。僕のゼルキンとの出会いはこのシューベルトであり、その演奏はモーツアルトやベートーベンの名演を飛び越えて、貧しい音質でも僕の記憶の中に見事に蘇ったのである。もちろんシューベルトのピアノ曲にはリヒテルやポリーニといった名演がある。だが、こと遺作のD959/960に関してはゼルキンの右に出る演奏はない、と今回聞きそびれても尚、僕はそう思っている。

 彼のピアノ タッチは例えば、抒情性に満ちたルプーなどと対極にある演奏だけど、取り分け死を直前にした遺作に関しては、単なる美しさや寂寥感だけではなく、死を見つめる強い眼差しが曲に深みを与える。シューベルトほど、死を予感させる作曲家はなくて、それはDer Tod und das Mädchen (弦楽四重奏曲「死と乙女」)やWinterreise(歌曲集「冬の旅」)、いやもっと遙かに若い時に作曲したErlkönig(魔王)でさえ色濃く感じられる。この天才は18歳にして或いは死神に魅入られていたかもしれないが、常に視線を高く強い心で立ち向かっていった作曲家にゼルキンは誠に相応ふさわしい演奏家である。


 若い頃はポリーニやアルゲリッチ、或いはゼルキンより主張の明確なグールドやホロビッツなどのスタイルに惹かれ、余り手に取ることの少なかったゼルキンであるが、この歳になると彼の強い精神性に満ちたピアノがしっくりとくる。

 ゼルキンという人の演奏はお手本になる演奏なのだ。お手本というのは演奏方法であり、曲の選択であり、生き方であり、年の取り方であり、子供の育て方であり、様々なことである。それをどう評価するかは人それぞれで、彼の演奏をつまらないと思う人は居るのだろうし、それで一向に構わない。だが僕自身は指揮者のクレンペラーと違った意味で、65歳という年相応にこの演奏家のアルヒーフを尋ね歩いて行きそうな予感を感じている。残念ながら活きの良いネタが大きいだけの鮨を食べる方には行きそうに無い。

 ネタの大きな鮨を出す店は本場と呼ばれる築地でも見かけるし、若者に受けが良いのだろう。ご飯に刺身を乗っけただけのような気がするが、赤酢の酢飯に工夫を凝らしたネタを合わせるような鮨より見栄えのする方を好むのがあっても、鮨全体に様々なものがあって栄えればそれはそれで良いのかもしれない。まあ、ともかく、個人的には時間をおいたらすぐにパサパサになるような鮨や演奏は勘弁して貰いたい気持ちがあり、年寄りにはその点、旨いツメの掛かった穴子やさっぱりと酢で締めた小鰭などは好ましい。いずれにしろ、鮨というのは伝統の中で一通りの「作法」で作られているものであり、海外で「何とかロール」みたいなものが受けていても日本ではその「作法」は崩されていない。

 しかし、日本の料理であるにも拘わらずラーメンのように自由が過ぎてももとの形や本質さえ分らなくなり、出す側の単なる主張で素人の作ったような料理を出されるのは勘弁して欲しい。僕には興味は無いが、そうした料理を好む人がいても一向に構わない。構わないのだが一言だけ言わせていただく。

 昔ながらのラーメンは好きだが、わざわざラーメン屋に行っても正直、「まるちゃんの生ラーメン」を超えるラーメンというのは殆どない。野菜クズみたいなものをやたら積み上げたり、人間が食べる限度を超えた辛いラーメンだったり、どうして人気があるのか全く分らない(どっちも食べたことはあるが、二度と行かない)。渋谷と神保町に二軒だけ、旨いと感じたラーメンはあるが、ラーメンの外れ確率はとんでもなく高い、というのが正直な感想だ。

 旨いなら千円を超えても構わないが、千円を超えるならまともな物を作って欲しい。とにかく、ラーメンは料理人の夏休みの自由研究みたいなもので、そんな試作品崩れに金を払うつもりはない。

 そんな思いを抱きながら聞くゼルキンのシューベルトは確実に伝統のある、そして重厚なソースのかかったイエガーシュニッツエルの香りと味がするのである。



(レコード)

*シューベルト

ピアノ・ソナタ イ長調 D.959「遺作」

CBS・ソニー 18AC754

*シューベルト

ピアノ・ソナタ 変ロ長調 遺作(D960)

CBS・ソニー 18AC753



(CD)


*WOLFGANG AMADEUS MOZART

Concertos for Piano and Orchestra

No.20 in D minor, K466

No.16 in D major, K451*

London Symphony Orchestra, Chamber Orchestra of Europe (*)

CLAUDIO ABADDO

Deutsche Grammophon 445 597-2


*BEETHOVEN

Piano Sonata No.14 in C-Sharp Minor "Moonlight"

Piano Sonata No.8 in C Minor "Parthetique"

Piano Sonata No.23 in F Minor "Appassionata"

CBS MYK 42539


*LUDWIG VAN BEETHOVEN

Klaviersonate Nr.30 E-dur op.109

Klaviersonate Nr.31 As-dur op.110

Klaviersonate Nr.32 c-moll op.111

Deutsche Grammophon 427 498-2


*ヨハネス ブラームス

チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 作品38

チェロ・ソナタ 第2番 ヘ長調 作品99

ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)

ユニバーサル(Deutsche Grammophon) UCCG-5129

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る