短篇集

月並海

夏を連れてきた彼

 彼はクラスではあまり目立たない存在だった。口数は少なく、細い体型が彼の繊細な人となりを表しているようだった。

 唯一目立つ点といえば、屋上に出入りしていることだ。この学校は海を臨む高台の上にあり、屋上の柵の先には大海原が広がっている。

 危険な屋上への出入りをなぜ認められているかというと、彼が天文学同好会の部長であるからだった。同好会には名ばかりの幽霊部員が数人いるらしいが、実際に活動しているのは彼だけで鍵を持っていることに不都合はなかった。

 屋上に行きたい女子生徒や不良によく絡まれていたけど、彼はのらりくらりとした態度でそれらを断り、鍵を閉めて自分だけのオアシスを作り上げていた。

 そんな屋上へのドアが唯一開けっ放しになっている日がある。

 雨の日だ。

 なぜただのクラスメイトの私が知っているかと聞かれれば、それは全くの偶然としかいいようがない。

 

 その日は、梅雨入りしたばかりの雨の日だった。午後の授業に彼が来なかったので、クラス委員長の私が探しに行く羽目になった。

 彼は度々授業にいないことがあり、その時は体調不良で保健室にいるか彼のオアシスに引きこもっているかのどちらかだった。

 今日も屋上にいるだろう、当たりを付けて屋上へと続く階段を上った。湿気で膝にまとわりつくスカートが鬱陶しい。

 ドアノブに手をかける。予想外にドアは開き、雨粒が入ってきた。

 彼は雨空の下、ずぶぬれで立っていた。浴びている、といったほうが正しいだろうか、両手を広げて雨を体いっぱいに受けていた。

「ちょっと! なんで外に出てるの!」

 大声で呼んだからか、彼は気づいたようにこちらを向いた。叫ばないと聞こえないくらい、雨は降っていた。

 彼は逡巡した後、ゆったりとした足取りでこちらに向かってきた。

「雨の日は誰も来ないと思ったのにな、俺さ、水に濡れないとだめなんだ」

 何言ってるんだこいつは、と思ったのは事実。

「委員長は、俺が人魚だって言ったら信じる?」

 今にも消えそうな雰囲気の彼を信じてみようと思ったのも事実だった。

 

 私は雨の日の放課後、いつも屋上に向かった。彼は必ずそこにいて、雨に濡れていた。

 私はタオルと傘を持って向かった、タオルは話し終わって校舎に入る彼のために、傘は雨に当たる彼の隣で話を聞くために。

 さしあたって、彼の嘘を信じるためには証拠が必要だと伝えた。

 彼は眉を下げて、尾ひれを見せるのが一番だろうけど、人間に戻れなくなってしまうからできないと言いづらそうにしている。

 なら、と提案をした。

 人魚の暮らしを教えてよ、彼は笑ってそれなら、と頷いた。

 彼の話す人魚の暮らしは愉快なものばかりだった。海の底には人魚の里があって人間に見つからないように隠されていること、嵐の日は水面に近づいちゃいけないけど友人らと毎回見に行ったこと、海藻や魚を食べていたから地上にきてスイーツの甘さに驚いたということ、雨の日に外にいる理由は少しだけ水の中にいる気分になるからだと、そして

「人間になって地上に来たのは、罰を受けているからなんだ」

 流れ星が見たくて、水面を目指していたらダイバーに見つかりそうになった、急いで逃げてきたから捕まらなかったし里も見つからなかったけど、人魚の世界で人間に見つかることは何よりの禁忌だった。

 1人の失態が里全体を脅かすことで、自分はそれを破ったから罪を償うために地上に来たと語った。

「いつかは里に帰れるの?」

「うん、今年の夏が期限だから」

 地上に来て星が思う存分見れるようになったのは良かったかな、あと日向ぼっこも気持ちいいよね、彼はごまかすように笑った。

 この時私はこの人魚の男の子の話をすっかり信じていた。

 今年は雨が特に多くて、梅雨明けはまだ先のように感じていた。

 

 梅雨明けのニュースは思ったより早かった。お天気お姉さんが明日の梅雨明けを知らせている、明日は快晴らしい。

 不意にスマホが鳴った。彼からの連絡だった。

 明日の放課後屋上で待っている、初めて来たメッセージに胸騒ぎがした。

 

 屋上へ行くと、ドアは開いていた。いつもは暗い空ばかり見ていたから、夕焼けは新鮮だ。彼は夕日を向いて立っていた。逆光で表情は見えない。

「帰るの?」

 そんな気はしていた、わざわざ呼びだすくらいだから、期限は夏までと言っていたから。

「うん、来てくれてありがとう」

 行かないで、寂しいよ、まだ聞きたい話たくさんあるのに、夏の流星群を一緒に見ようよ、用意してきた言葉はたくさんあったのに、どれも口から出ることはなかった。

 彼がこちらに向かって歩いてくる、濡れていない髪は風に吹かれてふわふわと浮いていた。

「委員長、手かして」

 彼は握っていた拳を前に出した。いわれた通り、手のひらを広げると

「それ持ってて、また夏に来るから」

 私に口づけてそのまま振り返りもせずに、屋上の柵の向こうへ飛び込んだ。

 頭がショートしてしばらく彼が飛び込んだ先を見ていたと思う。そうしてやっと、私は手の中を見た。

 それは、屋上の鍵だった。

 彼は人魚に戻って里へ帰ったのだ、でもきっとまた流星群を見るために地上に来る。証拠のない確信だけがあった。

 雨なんて知らないみたいな夕焼けの空を後に、私は天文学同好会の入部届を出すため、職員室に向かった。

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