みらくる。いつものラーメン屋

桜野 叶う

一、ミラクル運命

 

 暑い。暑いよ……。

 七月になって数日が経った。朝からセミがうるさく鳴いている。学校の帰り、いつものように帰宅する。その前に、いつも通っているラーメン屋に行く。汗だっくだくの額をぬぐい、その手の甲は、汗の塩分でべたべたしている。それでも暑い。永遠とサウナに入っているかのようだ。そろそろ水風呂に入りたいのだが、近くに水風呂なんてものはない。またじわっと汗がにじみ出る。あぁ、暑い。暑いよぉ。

 

 暑い。その言葉があと何十回くらい出てきたあと、遂に目的のラーメン屋にたどり着いた。

 店内はクーラーがついているようで、涼しい。やっとあのサウナ地獄じごくから解放された。そして、念願の水風呂につかることができた。気持ちいい。最高だ。今まで私に取り付いていた悪魔が逃げ、私の体は一気に軽くなった。その軽くなった体で、近くにあったカウンター席に座った。店内は、二、三人のおじさんがいるだけ。まだ、夕飯には早い時間だ。人の声はほとんどない。作業の雑音くらいしか聞こえないこのお店で、私はいつものラーメンを注文した。

「はい、どうぞ」

 お店の奥さんが、できあがったラーメンを持ってきてくれた。

 私のラーメンを食べる時の鉄則。『手拭てぬぐいをするべし!』短い私の髪も、ラーメンと対面するときには、顔にかかって邪魔じゃまなのだ。何にも邪魔をされずにラーメンを堪能たんのうするため、手拭いは欠かせない。だから、常に手拭いは常備している。

 これでよし。

「いただきます」

 ラーメンに限らず、食べ物に対面するときは、これは欠かしてはいけない。朝、教室に入ったら挨拶あいさつをするように、食べ物に対面するのであれば、同じように挨拶をする。これが、物を食す者の礼儀というものだ。

 挨拶を済ましたので、割りはしを割り、めんを持ち上げる。そのとき、新たな客が現れた。珍しいな、こんな時間に。

 どうせ、ラーメンが趣味のおっちゃんだろう。私は気にせず、ラーメンを口に運ぶ。そして、スズズッと勢いよくすする。そのときも、そのあとも、違和感だった。私の隣に座った新規の客、おっちゃんではないようだ。匂いが違う。おっちゃんの例の臭いではなかった。いや、若者の香水をつけたおっちゃんだろう。いや、それでもない。

 気になって、その客の顔をのぞき込んだ。私は目を疑った。

 え⁉︎

 その人は、まさかの私が大好きな人。……いや、そっくりさんかな?

「ラーメンと餃子ぎょうざを」

 この声で確信した。本物だ。私は息を呑む。

「はい。……え⁉︎」

 お店の奥さんも、まさかの登場に、びっくりしていた。私も同じだ。

桔梗ききょうつかささんですよね」

 奥さんは、恐る恐る彼に尋ねた。

「はい、そうです」

 彼はそう答えると、奥さんは大絶叫。

「えー、やだー。お化粧、全然してない!」

 奥さんだけでなく、ご主人や他のお客さんたちもびっくり仰天。

「へぇ、桔梗司かー」

「こりゃ、すげえな」

 私もラーメンに手をつけられない。すごすぎる。

 桔梗ききょうつかささん。昨年、三十になられた。人気俳優で、私が大好きな人。世界一、いや、宇宙一好きな御方なのだ。この無邪気さを残した、甘いマスク、整った、美しい輪郭。美しい。本当に美しい。宇宙一の美少年、永遠の美少年だ。そんな彼も、もう三十路みそじを迎えてしまった。あと一月ひとつきで三十一になる。早いな、一年って。さっきから、胸が鳴りっぱなしだ。ドクンドクンと暴れている。そのまま骨をも突き破って飛び出してきそう。ヤバイ。

 でも、なかなか声をかけるのも、億劫おっくうだった。こんな私を見たら、さぞかし不快な思いをさせるだろう。私は可愛くないんだ。不細工ぶさいくなんだ。ラーメンに集中した。食べる前は、あんなに気合いを入れていたラーメンも、なんだか薄く感じた。隣に座っている彼のオーラが、この味を薄くしているのか。人気俳優は違うな。私はそのまま、味の薄まったラーメンをすする。

 

 ラーメンを食べ終わり、帰り道を歩いているときでさえ、あの時の感じが残っていた。こんなことってある? いつもの日にいつも通りにラーメンを食べていたら、隣にはなんと大好きな俳優さんが。こんなミラクルあるのかな。もっと顔を見ておくべきだったか。でも、あの時の私にそんなことはできなかった。もう、こんなことは二度と起こらないのかな。そりゃそうだよね。今日の出来事は、絶対に肝に銘じておこう。忘れるなどあってはならない。

 

 私が暮らす、高校の寮に帰ってきた。

 この春、中学まで住んでいた故郷ふるさととは別れ、東京の都会で、新たな世界に足を踏み入れたのだ。そして、早くも四ヶ月が経つ。

「あ、祐奈ゆうなちゃん、おかえり」

 そして、この寮で、新たな友達ができたのだ。彼女の名前は、笹ノ瀬ささのせ玲音れいんちゃん。漫画とかに出てきそうなかっこいい名前だ。彼女とは、気が会う。初めて会ってから一週間くらいで仲良くなった。趣味の共有をしあっている。

「ラーメン食べてきたの?」

「うん」

「そこのラーメンって、美味しいの?」

「うん、そうだよ。……ちょっといい」

「?」

 詳しい話は、私の部屋で。

 

「ええ‼︎ ホント⁉︎」

「ホント、ホント」

「マジか、いいな」

 ラーメン屋での、あのミラクルな出来事を玲音ちゃんに話した。彼女は嘘みたいな本当の話をちゃんと信じてくれた。玲音ちゃんは、心の友だ。

「あー、一言くらい話しかければよかった」

 私は、少し心残りがあった。もう、こんなことは起こらないだろうから。

「こんなミラクル、二度と起こらなそう。一生分の運を使い果たしたんだ」

 そうだ。絶対にそうだ。神様が、こんな私のために、私の一生分の運を使って、彼を導き出してくださったんだ。それなのに。

「いや、そうとも言い切れないよ」

「へ?」

 この子は何を言っているんだ。優しくて、心の友なのは間違いないが、綿菓子のようにふわふわとしていて、抜けているところもある。おかしなことを言うことも、しばしばある。

「また、来週の同じ時間帯に行ってみたら。再び会える確率は、ゼロじゃないよ」

 半信半疑だが、心の友の言うことを信じてみる。

 

 翌週の同じ時間帯に、いつものラーメン屋に足を運んだ。

 すると、なんと!

 私の目の前には、桔梗さんが立っていた。先にいたか、後からやってきたでもなく、まさかの同じタイミング。入り口の前で鉢合わせとなってしまった。

「あ、先週もいましたよね。美味しいですよね。ここのラーメン」

 彼は、そう言った。笑顔で。私に向かって。この言葉は、私に向かって言ったのだ。無邪気な笑顔で、落ち着いた涼しい声で。

 私は、固まってしまった。彼の正体はゴルゴンだったか。私はそれに、気づかなかったのか。私は石にされてしまったのか。

「……あの、もしもし」 

 ハッ!

 私は我に返った。その瞬間、恥ずかしさが込み上げてきた。桔梗さんの前で、こんな恥ずかしいことに。

「……す、すみません」

 口ごもりながらも謝った。

「いいえ、入りましょう」

 彼は、何も気にすることもなく、笑顔のまま、私を中に誘導した。


「あら! また来てくれたの?」

 桔梗さんの再びの来店に、お店の奥さんも大歓喜。なるほど、奥さんも彼の大ファンか。わかります。

「はい。ここのラーメン、すごく美味しいですから」

 とても無邪気で、純粋な声と瞳。そこには変な心など、一切ないのが感じ取れる。素敵だ。

「やだぁ、もう。いいわ、私の本気のラーメンを出してあげる」

「それはありがたいです」

 対しての桔梗さんも、笑顔で神返事。うわぁ、神だー。

 私のラーメンは、ご主人が出してくれた。いつも通り、手拭いをして、ラーメンを食べる。

「餃子追加で」

 すでに一皿目の餃子を平らげている、桔梗さんは、さらに二皿目の餃子を注文した。

「はーい。祐奈ちゃんも餃子食べる?」

 食べたい。でもなぁ。私、女の子だし。たくさん食べたら、嫌われちゃう。この世で一番、司さんには嫌われたくない。

「いいえ、大丈夫です。私、あまり多く食べないので、ラーメンだけで十分です」

「あら、そう」

 奥さんは優しい人だ。

 食べたいなあ、餃子。とても美味しそう。でもなあ。


『お前みたいな、バカみたいに食ってる女、嫌いなんだよな。下品で、虫酸むしずが走る』

 

きっと、食べたら嫌われる。司さんに、不快な思いをさせるんだ。ましてや、こんなあぶらだらけのもの。そんなのをバカバカ食べている女なんて、『こいつはいずれ太る』と、不快に思われるんだろう。嫌だ。彼だけには絶対に嫌われたくない。

 餃子のことなんて考えず、ラーメンを食べることに集中した。

 

 ラーメンを食べ終えると、お会計をし、さっさとお店を出ていく。

「あ、また来週、来ますね」

「いつもありがとう」

「はい、ごちそうさまでした」

 私が、お店を出たとき、「僕も来週きますよ」と、司さんも言ったのが聞こえた。

 

「ほらあ、やっぱり」

 寮に帰り、玲音ちゃんにラーメン屋でのことを報告した。

「きっと、つっかーは、そのお店の常連になろうとしているんだね」

 彼の愛称は『つっかー』つかさだからだ。ファンや俳優仲間、その他の芸能人からも、そう呼ばれている。だが、私はそんな風には呼ばない。

「だから、祐奈ちゃんもこの日のいつもの時間帯の常連になれば、いつも、つっかーに会えるわけ。そうすれば、もっと、もっと距離は縮まるのよ」

 なるほど。今回は微塵みじんも疑わなかった。

 

 玲音ちゃんの言う通りに、いつものラーメン屋に、同じ曜日の、いつもの同じ時間帯に行き続けた。その全ての日に、司さんと会うことができた。もはや、彼に会う確率は百パーセントだ。

 次第しだいに、私の彼の存在は、とても身近なものに感じた。私の方から彼に話しかけるのも、あまり臆さなくなった。気軽に話しかけられるようになった。

 気づけば、彼の三十一になる日まで、あとちょっとになった。

 そんなある日、私は、とあるものを彼に見せた。

「え、何これ」

「『死ぬまでにやりたいことリスト』です」

「死ぬまでに? 祐奈ちゃんはまだまだ若いのに」

 と、笑われた。

「いやいや。人間、いつ死ぬかなんてわからないんです。誰しも八十生きることができるとは限らない。もしかしたら、二十、十代のうちに、病気やら事故やらで死んでしまうことだって十分に考えられる。死ぬ間際になって大後悔はしたくないじゃないですか。だから、やりたいことをやって、素敵な人生だったと思いたいんです。そのためのリストです」

「へぇ、すごく考えているんだね。すごいなぁ」

 そして、私は禁断なことを頼んでしまう。

「あの、協力してもらえませんか」

「いいよ。面白そうだね」

 即答そくとうだった。ここから、本格的に私と司さんとの運命が、始まった。



 

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