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佐藤ムニエル
1
独り身になってからというもの、老人の毎日は単調さを増した。朝は六時に目が覚めて、三十分掛けて支度をする。そこから更に三十分で質素な朝食をこしらえ、今時珍しいタブレット端末で新聞を読みながら黙って食べる。食器を片づけ、二日に一遍は洗濯機を回す。洗濯をしない日は掃除機を掛ける。全自動の掃除機も出回っているが、それでは細かい埃が取れない気がして、彼は未だに自分で掃除を行う。
家事が終わってしまうと、午前中はもうすることがない。端末の画面で指先を走らせ、ウェブニュースや有象無象の書き込みを眺めるばかりである。
何もしなくとも腹は減る。十二時になれば、昼飯を食べる。用意が面倒なので、大体インスタントで済ませる。食べに出ても良いのだが、一人では靴を履くのも億劫に感じられた。昼日中、一人でぶらぶらする己の姿を想像すると惨めになるのも原因の一つだった。
昼食の後は昼寝をする。縁側で座布団を枕にし、庭を眺めてうとうとするのである。庭といっても、子猫の額ほどの大きさしかない〈空地〉だ。花壇と隅に生えた名前もわからぬ小さな木が、窮屈そうに身を寄せ合っている。それでも老人にとっては自慢の庭だった。震災後の区画整理の際に分譲された土地は、決して安い買い物ではなかった。大して広くもないし、子供ができればすぐに手狭になるということで、妻は購入に対し、最後まで難色を示した。だが、地方出身の老人にとっては、都内に自分の城を持てるということは何よりの魅力であった。上京を渋っていた両親への〈成功の証明〉でもあった。若き日の彼は妻を強引に説き伏せ、成功の証を手にしたのだった。
目を覚ますと、日は暮れかけている。気だるさを引きずったまま、漫然と端末を手に取り、新しい社会の動きに目を通す。逐一世の中の動向をチェックしているにも関わらず、世間と繋がっている実感が一切湧かない。この一年で老人は、そんな考えを強く抱くようになった。全てはタブレットの中だけでの出来事のようだった。
夕飯も代わり映えはしない。ご飯に味噌汁、そこへ味気ないインスタント食品が主菜として加わる。それらを、NHKのニュースを見ながら無関心につつき、ニュースが終わる頃に食べ終える。食器を洗い、風呂に入って歯を磨く。寝る。そうして老人の一日は過ぎていく。昨日と一昨日が入れ替わっても気付かぬような日々である。一日ぐらい盗まれたとしても、文句はない。
電話が鳴った。木根塚老人の端末が電話としての役割を務めるのは珍しい。だが、老人は舌打ちした。電話が鳴るのは極めて稀だが、大体がセールスか間違い電話で、彼に何かしらの益をもたらすものがかかってくることはまずなかったからだ。
しかし、この時ばかりはセールスでも間違い電話でもなかった。もっとも、老人に益をもたらすかと言えば、首を捻らざるを得なかったが。
端末の画面は、長男からの着信を知らせていた。
「もしもし父さん、俺だけど」通話が始まるなり、男の声が言った。
「誰だ」老人は言った。「まずは名を名乗れ」
「嫌だな、息子の声も忘れたのかよ」
「しばらく聞かないので忘れた」
「わかった、悪かったよ」
男は長男の名前を名乗った。老人とて、自分の子供の声を忘れるほど耄碌しているつもりはない。
「毎度毎度、勘弁してくれないかな」
「昔はこんな風に年寄りを騙す詐欺が流行ったからな」
「今時、こんな回りくどい方法で金を取る詐欺師なんかいないよ」
「用件は何だ。こちらは忙しいのだ」
暇なくせに、と置いてから長男が言うには、明日の午前中、老人の家に届け物があるはずだから家にいるようにとのことであった。長男と、長女からの誕生日プレゼントだという。老人はカレンダーを見て、自分の誕生日が迫っていることを知った。
「ほら、去年は母さんのことがあって、お祝いどころじゃなかったからさ」
何もなければ、おめでとうの「お」の字もなかったくせに、とは言わなかった。
老人の身体を気遣う形ばかりの言葉を残して、長男は電話を切った。老人は端末の画面をしばし眺めてから、テーブルに置いた。
縁側へ出て伸びをする。風が冷たいが、日向は暖かい。
軽い眩暈を覚えて腕を下ろした。頭を振れば、視界の揺れは治まった。サンダルを突っ掛け、庭へと下りる。花壇では、焦げ茶色の中に、鮮やかな緑が点々と見受けられる。これから冬を迎えようという時期に咲く花は何なのか。端末で調べようと腰を上げた老人は、またも目眩に襲われた。
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