▣ゲーム本編[17]・『リンドブロムの聖女』は幕を閉じる
聖女は魔王への盾ではない。魔王への
そもそも、大地から魔精力を搾取し魔物を蹂躙する人間を粛正するために、この世界の女神が生み出した存在が、魔王。
人間から見れば悪である魔王、しかし魔物から見れば人間こそが悪であり、魔王こそがこの世界を救った英雄なのだ。
その腹心の配下の王獣が護り礼を尽くした聖女が、生きとし生けるものすべての安寧を願う聖女が、手段は違えど同じ志を持つ魔王に不当に扱われるはずがない。
マリアンセイユの言葉に、人々の中の凝り固まっていた認識の輪郭がじわりと崩れ、溶け出してゆく。
その様子は、大公家席からもよく見えた。
しかし――マリアンセイユがどうやってこの場を収めようとしているのか、ディオンには全く分からなかった。
不意に、マリアンセイユの瞳がディオンを真っすぐに捉える。
ディオンがハッと胸を突かれた次の瞬間には、その眼差しは隣にいたリンドブロム大公へと注がれていた。
「――大公殿下。『聖なる者』は、来たるべく魔王復活の前に、大公国自らが見つけようとした存在」
「……そ、その通りだ」
リンドブロム大公が、どうにか平静を装いながらマリアンセイユに同調する。
「しかし――こうして魔王の使者が現れ、その使者自らが『二人の聖女』と認めたのであれば……『聖なる者』は二人だった、と。そう結ばれるのではないでしょうか」
「……」
“ふん”
大公が口を開く前に、マデラギガンダが声を漏らした。
“それが、言いたかったのか”
振り返ったマリアンセイユとマデラギガンダの視線が真っすぐに絡み合う。
――さて……こたびの聖女は二人、か。
王獣マデラギガンダが地上に放った最初の台詞は、この言葉だった。
それを上手く利用されてしまったマデラギガンダが、忌々し気にマリアンセイユを見下ろす。
確かに、王獣が発した『聖女』という言葉ほど重みのある言葉はなかった。
マリアンセイユは、『聖なる者』を一人に選定することはすでに意味を為さない、と断じたのだ。
「いいえ、まだあります」
マリアンセイユはマデラギガンダに言葉を返すと、再び正面を見据えた。
「聖女シュルヴィアフェスは、一人だったが故に、人も魔物も選べなかったのです。しかし――」
言葉を切り、マリアンセイユが大公家席、貴族席、そして民衆席と全てを見回す。
「わたくしたちは、二人ですから――『人の聖女』と『魔物の聖女』を担うことができます」
マリアンセイユの言葉に、ミーアがハッとしたように大きく目を見開いた。
二人の眼差しが、その中央でしっかりと結ばれる。
マリアンセイユは、先ほどと同じようにゆっくりとミーアの元に歩み寄ると、その手を取った。
マリアンセイユの右手がミーアの左手を胸の位置まで掲げ、そっと大公家の前まで誘導する。
そして自らの左手を胸にあてると、その場に跪いた。手を繋がれたミーアも、その隣に跪く。
「フォンティーヌの森の護り神を味方につけたわたくしが、『魔物の聖女』にふさわしいかと思います」
ミーアの左手を持ったまま、右手の小指の銀の指輪を額につける。
二人の両脇に、灰色の狼が現れた。
しかし、じっと動かない。二人の聖女を護るように、静かに佇んでいる。
「大公殿下。次期大公ディオン様の正妃として――この世界の未来を担うものとして、わたくしが『魔物の聖女』となり魔王の元に赴きます」
「……!」
マリアンセイユの言葉に、観客席にどよめきが走った。しかしすぐに静寂が蘇る。
彼女の言葉を一言一句逃すまいと、観衆は全員、マリアンセイユの言葉に聞き入っていた。
「そして、ミーアを『人の聖女』に。こたびの約定の証として、彼女を――ディオン様の聖なる妃、聖妃に」
「……っ!」
隣にいたミーアすら、マリアンセイユの言葉に驚いた。思わず左を向いたミーアは、正面を向いたままのマリアンセイユの強い眼差しに気圧される。
「魔界へ行ったあと――わたくしと人間界を繋ぐのは、聖女を分け合った彼女だけ。わたくしは……彼女以外の妃を、認めません」
それは、正妃にのみ許された唯一の権利。夫が婚姻を結ぶ相手を決めること。
結婚の儀を行い、正式にディオンの妻となったマリアンセイユのその意思は、大公ですら覆すことはできない。――後継者の問題が無い限り。
ディオンが真っ先に結婚の儀を行おうと決めたのは、そこにあった。
正妃マリアンセイユさえ認めれば、上流貴族はおろかリンドブロム大公すら異を唱えることはできない。
しかし、実際には根回し無く権力を行使しようとすれば、軋轢を生む。
だからディオンはマリアンセイユの意志を確認したうえで大公に話を通し、後はこの『聖なる者』の選定という民衆が多く集まる場を利用して、上流貴族を黙らせようとしたのだが。
その権力は、ディオンが想像もしていなかった方向で振るわれることになった。
「つまり――そなたは、ディオンの正妃のまま、魔王の元へ赴く。その証として、側妃ではない、正妃でもない、こたび唯一無二の存在である『聖妃』としてミーア・レグナンドにリンドブロム大公国を――いや、人の未来を託したい、と」
「はい。彼女を――『リンドブロムの聖女』として」
マリアンセイユの言葉に、ミーアが潤みそうになる水色の瞳を伏せ、深く頭を垂れた。
リンドブロム大公が、ゆっくりとミーアへと目を向ける。
「ミーア・レグナンド。その方に、その覚悟はあるか」
「――はい」
ミーアはゆっくりと顔を上げた。
『人の聖女』――新たな二つ名を授けられたミーアの水色の瞳には、一点の曇りもなかった。
「正妃マリアンセイユ様の志に並び立ちたい。そう、考えております」
「――よかろう」
深く頷いたリンドブロム大公は、すっくと立ち上がった。
「聖女ミーア・レグナンドを、大公世子ディオンの唯一無二の聖妃と認める」
その声は、魔道具を通してリンドブロム闘技場すべてに響き渡った。
防御壁がなくなった雲一つない青空には、大きな虹がかかっている。
ミーアの『
リンドブロム闘技場の観客席に、今日一番の歓声が沸き起こった。
大公家席、貴族席の人間が全員立ち上がり、盛大な拍手を送る。
“――決まったようだな”
マデラギガンダが地を這う低い声でボソリと呟く。
さっと右手を上げると、その天翔ける虹の向こうから何かが近付いてきた。
魔王の相棒……神獣、
その水晶のような体躯を太陽の光を反射させながらうねらせ、虹を辿るようにリンドブロム闘技場に降りて来る。
「まあ……!」
これにはこの場をすべて支配していたマリアンセイユも大層驚いたようだった。
大きく目を見張り、その美しいドラゴンをまじまじと見つめる。
千年前――聖女シュルヴィアフェスが魔界に向かった時ですら、地上には降り立たなかったと言われる
魔王以外は我の背には乗せぬ、と言い放ったと伝えられる、誇り高き魔獣の頂点、唯一無二の神獣。
そんな伝説上の生き物が、いま大観衆の中央、マデラギガンダの前に舞い降りた。
美しい水晶のような輝きを持つ翼を畳み、皓々と佇んでいる。
“大義であった。――行くぞ、聖女マリアンセイユよ”
「しばし――別れの時間を頂けますか」
怯むことなく臆することなく、マリアンセイユが
“……どこまでも自由な聖女よ”
「……」
マリアンセイヌはわずかに微笑むと、大公家席に振り返った。ディオンと目が合うと、ゆっくりと頭を垂れる。
「ディオン様。わたくしを正妃にしていただき、ありがとうございます」
「…………こんなつもりでは、なかった」
ディオンの表情は、やや苦しげだった。
マリアンセイユに愛は無い。しかし、ようやく少しだけ解り合えたところだった。
リンドブロム大公国の未来を担う者として、これから協力し合えるはずだった。
まるで邪魔だと言わんばかりにこの世界から遠ざけるつもりは、全く無かった。
「わかっております。わたくしはあなたの正妃です。だからこそ、その役目を果たしに行くのです。同じ場所におらずとも、見える景色は違っていようとも、この世界が滅びを迎えないように力を尽くす。志は、ディオン様と――そして、聖女ミーアの傍にいます」
「マリアンセイユ様……」
隣にいたミーアが涙ぐむ。マリアンセイユはあらあらというように微笑むと、そっとミーアの肩に手を置いた。
「ミーア、あなたならよく分かっていると思いますわ。これは――一生の別れではないのですよ」
マリアンセイユの言葉に、ミーアは微かに頷いた。瞬きした瞬間、涙がポロリと零れ落ちる。
二人はギュッと抱きしめ合った。ミーアより背の高いマリアンセイユが、少し頭を下げてミーアの耳元に何かを囁く。
かすかに頷いたミーアも、何事かを囁いていた。
二人の聖女のやりとりは、密やかにしばらく続いていて――人々は、その美しい光景に、ただただ見惚れていた。
マリアンセイユはそっとミーアの傍から離れると、貴族席に向かった。
ガンディス子爵。そして今日だけは特別に、とアイーダ女史とヘレンも近くに控えていた。
三人は、初代フォンティーヌ公爵の日記の存在を知っていた。
マリアンセイユが聖女になって魔王の元に赴いても、これが永遠の別れとは限らないことはわかっていた。
しかし……それでも、情に厚いガンディス子爵、母オルヴィアの代わりに赤ん坊の頃から見ていたアイーダ女史、そしてフォンティーヌ邸に来てからつねに付き従い世話をしていたヘレンは、涙を堪えることはできなかった。
「お兄様、おかしいですわ。フォンティーヌ部隊の副部隊長でもあるお兄様が、民衆の前で涙を見せるなど」
「父上が……何と言うかと考えると、な」
一滴だけこぼれ出た涙を素早く拭い、ガンディス子爵がボソリと言う。
フォンティーヌ公爵は、いまだ眠ったままだった。かつてのマリアンセイユの日々と、状況が逆転している。
「いつか――父上に伝えられたら、と思います。聖女の真実を」
「……うむ」
マリアンセイユはアイーダ女史とヘレンの前に来た。アイーダ女史は眉間に皺を寄せ、どうにかそれ以上の涙が流れないようにと努力しているのが窺えた。隣のヘレンは、ハンカチが絞れるほど大量の涙を流している。
「最後まで、驚かせてばかりでごめんなさい」
「本当に、全く……」
「マ、マユ様……」
――いつか、あの場所で。
マリアンセイユの囁くような声が、風魔法に乗って二人にのみ届く。
二人が微かに頷いたのを確認し、マリアンセイユは上流貴族の面々を見回した。
ソブラッド公爵となったシャルル、次期アルバード侯爵となるクロエ。マリアンセイユと関わりのあった彼らは、まるで夢でも見ているような顔をしている。
彼らに微笑み会釈をしたあと、マリアンセイユはくるりと踵を返した。
観客席から離れ、ゆっくりと――
「お待たせいたしました」
“――ふん”
『魔物の聖女』マリアンセイユとフォンティーヌの森の護り神を乗せ、
漆黒の鎧を纏ったマデラギガンダが、付き従うようにその後をついていく。
再び青空に光の亀裂が現れ――その姿は、忽然と消えた。
それを見届けた『人の聖女』ミーアの水色の瞳には、彼らの残像が鮮やかに焼き付いていた。
* * *
『魔物の聖女』マリアンセイユが、その後、民衆の前に現れることはなかった。
しかし、『人の聖女』ミーアは言う。
――私たちは、つねに繋がっています。あの、天翔ける虹の、青い空の下で。
聖妃ミーアによって支えられたディオン・リンドブロム大公の治世は、各地に目覚ましい改革を促しながらも素晴らしく安寧で、何一つ揺らぐことは無かった。
こうして、『リンドブロムの聖女』の物語は新たな伝説を生みだし、幕を閉じた。
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