第7話 王獣相手はさすがにビビります
バルコニーから庭に飛び降り、森の木々の中を駆け抜け……気が付けば、青い靄と黒い渦が空をうねる、奇妙な空間に紛れ込んでいた。
(ここが、魔界?)
“そう。じぃちゃんは水の王獣だから、アッチ”
スコルが鼻先で教えてくれたけど、靄が凄くて空と地面の境目も曖昧になっているから、アッチがどっちなのかサッパリわからない。
胸元のクォンはというと、ずっとポロポロと涙を溢している。慰めるように背中を撫で続けてるんだけど、ちっとも泣き止もうとしなかった。
いったい何を、そんなに不安がっているんだろう。
いつの間にか奇妙な靄は無くなり、湿った空気が辺り全体に充満している場所に出てきた。
空は暗く、濁った水色を背景に灰色の雲がたなびいている。
日の光も全く差さない灰色のゴツゴツした岩肌には、青黒い苔がびっしりと生えていた。さらに上の方へ目を向けると、シダ植物みたいな鬱蒼とした緑の葉っぱがひしめいている。
何だろう、熱帯地方のジャングルみたいな、そんな雰囲気。毒蛇とか毒蜘蛛とか気持ちの悪い生き物がいっぱいいそうで、背筋がゾクリとする。
気温は比較的高く、生温い風が首筋にかいた冷や汗をすうっと撫でていった。
あれ、そういえば?
「ハティ、隠す魔法はもういいの?」
『ここ、地上』
『じぃちゃんの峡谷』
ああ、アッシメニアの峡谷ね。リンドブロム大公国とワイズ王国のさらに向こう、大陸の西の果てにあるという……。確かリンドブロムよりずっと暑い地域だったっけ。だから冬なのにこの気温なのか。
まともに地上から行ったら、いくらハティとスコルでも丸一日以上かかるわ。だから魔界を経由したのね。
それに、確か王獣の棲み処って聖域になっていて、結界が張ってるんじゃなかったっけ? 地上からは行けないのかも。
川の源流みたいな細い水の流れに沿うように、固い石がゴロゴロ転がっている道がある。その灰色の通路を川の流れに沿って進んでいくと、一面青緑の湖……というよりドロッとした魔精力が漂う、濁った沼が現れた。
――その端の一角に、アッシメニアはいた。
沼から頭部と前足だけ出している状態。長い顎を水際に付け、頭部から突き出た目はしっかりと閉じられている。鈍く銀色に光る鱗は体中に使い古した銀貨を貼り付けたようにビカビカしている。
体長20mはある銀の大鰐……確か、目を開けたら終わりなのよね。機嫌を損なわないようにしないと。
とは言うものの、どうすればいいのかよくわからないけど。
『じぃちゃーん』
まずはハティがタタタッとアッシメニアの方に駆けてゆく。ピクリと鼻を蠢かしたアッシメニアは、ゆっくりと首をこちらに向けた。
ひええ、やっぱり大きい! すごい迫力だし、溢れる魔精力はドロッとしていてそれだけで気を失いそう。
魔獣より上の、魔獣すら支配する王獣というのが納得の存在感。
ギュウウ、と右手で太腿をつねり、どうにか正気を保つ。
『小娘を連れてきた、か。どういうつもりだ』
『じぃちゃん、ごめんなの。クォンが、泣き止まないの』
どうやらアッシメニアに甘える担当はハティらしい。
目が合ったので……といってもつねに閉じてるから、顔がちょうど向き合ったので、といった方がいいかな。
まぁとにかく視線を向けられたことが分かったので、スコルの背から降りて深々と頭を下げる。泣き続けるクォンの背中を撫でながら。
そして死神メイスを水平に構え、すっとその場に跪いた。
「アッシメニア様。マリアンセイユ・フォンティーヌと申します。人間の身で聖域に立ち入ってしまい、誠に申し訳ありません。クォン……スクォリスティミが泣き止まず、わたくしから離れようとしないので助けて頂きたく、こちらへ参りました」
とにかく、礼儀はちゃんと! これはどこの世界でも同じよね!
声が震えそうになるのを必死に押し隠し、道々考えていた口上をしっかりとした口調で述べる。
『……近う寄れ』
「は、はい!」
立ち上がり、スコルとともにゆっくりと近づいていった。
そうして目の前まで来ると、アッシメニアの迫力はもっと凄まじいものになる。
顔だけで二メートルぐらいあって、バカッと口を開けたら簡単に丸呑みされそう。
よく見ると銀の鱗は傷だらけで、魔王侵攻の際に人間と戦った痕かな、と思った。
クォンが私の胸元から飛び出し、ビョーンとアッシメニアの頭の上に飛び乗った。ポロポロと涙を溢し、キュンキュン何かを訴えている。
『……なるほどのう。マデラギガンダに、のう』
キュン、とクォンが鳴く。アッシメニアはついっと私の方に顔を向けた。
『ミーアという少女がマデラギガンダの洞窟に近づいているらしい』
「え……」
マデラギガンダ? 土の王獣の?
『一度会っている、とは聞いていたがのう。そしてどうやら、マユ……だったか。お主に悪意を漲らせての行動、のようだ』
「えっ?」
全然意味が分からない。
ミーアがマデラギガンダの洞窟に行った。私への悪意を持って。
そしてミーアは、一度マデラギガンダに会っている……?
「あの、申し訳ありません。真意を掴みかねるのですが」
『スクォリスティミは、魔獣の気配に敏感だ。そして主と認めた、お主に対する悪意にも』
「はぁ……」
『この二つが交わるとき、激しく泣く。呑気な顔をしておるが、お主はこの少女に恨まれる覚えはないのか?』
「え?」
恨まれる覚え……は、ないとは言わないけど。
だけど、悪意というほどのことかしら? どうも、アッシメニアの言ってることがピンとこない。
首を傾げていると、アッシメニアはふん、と鼻息をついた。ブオッと生臭い息が顔にかかって危うく仰け反りそうになったけど、どうにか堪える。
『少女は恐らく、マデラギガンダにお主の存在の危険性を訴え――この世界から消すように唆すのではないかのう?』
「――――ええっ!?」
ど、どういうこと!? 何でそんなことに……。ディオン様からミーアにはどんな連絡がいったのかしら。
私は「ミーアが側妃になるように協力する」とちゃんと言ったはずなのに。疎ましくも思ってないわよ。ディオン様にはちゃんと、伝わっていたと思うわよ。
でも、そうだ。ミーア・レグナンドは『リンドブロムの聖女』のヒロイン。
そのディオンルートの結末が『側妃』では、真のハッピーエンドとは言えないってこと?
そうよ! 『聖女』になり『正妃』になる。これがミーアにとっての最高のハッピーエンドじゃないの!
「え、あ……」
ゾクゾクゾクと腰から背中に悪寒が走り、思わず両腕をクロスさせて自分の身体を抱きしめる。
そうよ、いくら常識じゃ――この世界の貴族社会の常識じゃあり得ないことでも。
ヒロインにはヒロイン補正があるのよ。一発逆転の、究極の裏イベントが用意されているのよ!
脳裏に浮かんだ茶色い巻き毛の可愛らしいミーアの顔が、黒いボブカットの拗ねたような美玖の顔に変わる。
その瞬間、いつか交わした会話が蘇ってきた。
――難しいんだぁ、このゲーム。ディオン様の正妃になるには、条件がいろいろあってさあ。
――へぇ。
――ちょっと、もう少し興味を持って聞いてよ。ディオン様には婚約者がいてね、この人がいなくならないと正妃にはなれないのよね。それが難しい。
――いなくなるって、随分物騒ね。
――まぁね。でもゲームだし。
ちょ、ちょ、ちょっと、美玖!
確かにこの世界はゲームの世界よ。だけど、私にとってもあんたにとっても、実際に生きている、これからも寿命が尽きるまで生き抜いていかなければならない、現実の世界でしょ!
それは、殺人よ! 私を殺そうとしてるのよ!
そんな罪を犯してまで、正妃になりたいの!? その重荷にあんた、耐えられるの!?
「と、止めなきゃ!」
『まぁ、案ずるな。ハトとスク、スクォリスティミの面倒を見てくれたよしみじゃ。マデラギガンダには儂がとりなしてやるぞ』
「そういう問題じゃないです!」
『ふん? だいたい、マデラギガンダが少女を気に入らなければ、少女は喰われて終わりだ。一石二鳥ではないかのう?』
「んな訳ないでしょう! あの子は――友達なんです!」
とにかく、美玖がマデラギガンダに会うのを止めないと。
このイベントの発生自体を阻止しなくちゃ! 絶対に、美玖のためにならない!
「スコル! マデラギガンダの洞窟に連れて行って!」
『ええっ!? 無理だよ、オレ知らねぇもん!』
「ハティ!」
『うー、ハトも知らなーい』
「アッシメニア……様っ!」
あわゆく呼び捨てしそうになり、ドッと大量の冷や汗をかきながら付け加える。
「お願いします。今すぐに、私が美玖……いえ、ミーアの元に行く方法を教えてください!」
『はぁん?』
「友達なんです! 私を殺すとか、そう仕向けるとか、そういうことをさせる訳にはいかないんです! とにかく止めたいんです!」
『マデラギガンダに遭遇したら、二人とも喰われるかもしれんのう』
「だから、その前に止めるんです! お願いします!」
『……』
その場に正座し、地面にひれ伏すように頭をこすりつける。その上から『ふむぅ』という臭い鼻息がまたもや吹きかけられた。
「お願いします! どうか……」
『ああ、五月蠅いのう。黙れ』
いっそう増した濃い
とにかく喋らない方がいいらしい。何度でも懇願したいのを堪え、むぐぅ、と口元を強く引き締める。
そうして――沈黙がしばらく続いた。こうなったら根比べ……ああ、だけど、こうしている間にも美玖は!
ジリジリしていると、アッシメニアがようやく沈黙を破った。
「――その調子で、フェルも誑し込んだのか」
『へ?』
言われた意味がよく分からず、顔を上げる。アッシメニアの顔が私の右手の方を向いている。
ああ、フェルワンドの銀の腕輪を見てたのね。
「滅相も無いです。お願いして、食べるのをちょっと待ってもらっただけです。これは、その予約といいますか……えー……」
『ハト、ガンバルの。マユを、守るの!』
『おう! 次に戦った時は、絶対に勝とうな!』
「できれば戦わずに済めばいいんだけどね。……あっ」
意気揚々と宣言する二人にいつもの調子で思わずツッコんでしまい、慌てて居住まいを正した。
礼儀、お願いしている立場なんだから、礼儀をきちんとしないと!
相手は好々爺に見えても、まごうこと無き水の王獣!
再びガバッと、地面に顔を擦りつけるように頭を下げる。
『……無知は無敵じゃのう、確かに』
アッシメニアはそう呟くと、ブハア、と大きな息を吐いた。
『ハト、水の丑寅に小三十間、火の戌亥に中五里、土の辰巳に大六丈じゃ』
『……ウシ、トラ……ゴリ…ダイ、ロク……。ウン、わかった!』
「え?」
『マユ、行くぞ』
「え? え?」
スコルにグイグイ袖を引っ張られ、中途半端な正座になりつつキョトキョトしてしまう。
あ、足がちょっと痺れた……。
『察しが悪いのう。ほんにお主は魔獣に認められた人間なのかのう』
アッシメニアがぶふう、と不満げに息を漏らした。
『二人に洞窟への行き方を教えた。やれるもんなら、やってみることじゃな』
「あ、ありがとうございま……きゃあっ!」
お礼を言っている間にドン、とハティに突き飛ばされた。ジンジンした足では身体を支え切れず、そのままスコルの背に乗せられてしまう。
「ちょっと、あんたたち! ちゃんと挨拶……」
『いいから! マジで時間ねぇんだよ!』
『洞窟、遠いの!』
「え、ちょ、きゃあああ――!」
そのままスコルが走り出してしまったので、私は必死で背中に掴まった。
慌てて後ろを振り返ったけど、沼はもう見えなくなり――アッシメニアの魔精力も嘘のように掻き消え、辺りはもとの青黒い靄に包まれていた。
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