第2話

 小鉢に盛りつけられた料理が出された。豚肉の味噌ニンニク炒めだ。食欲を駆り立てる香りには違いないが、箸をつける気にはなれない。

 豚肉の味噌ニンニク炒めの二つ目が、徹の右に置かれた。そしてウイスキーのボトルと空のグラスが、それに並べられる。

 川和田は厨房から出ると、徹の右の席に腰かけた。

「ほかの客が来るとしても、だいぶ遅くなってから、数少ない常連が来るだけだからな」

 自嘲気味に独りごちた川和田は、自分のグラスにウイスキーをそそいだ。

「数少ないだなんて、そんなことはないだろう」

 気の利いた言葉が浮かばなかったが、社交辞令としては悪くないはずだ。

「まあ、いいさ」川和田はうっすらと笑みを浮かべ、グラスを右手に掲げた。「久しぶりの再開に、乾杯だ」

 徹は無言で自分のグラスを低く掲げた。

 逡巡を見せてはならない。グラスを右手に持ったまま、わずかなタイムラグを作るために左手でネクタイを緩める。

 川和田がグラスの中身を一気に飲み干してから、徹は自分のグラスに口をつけた。琥珀色の液体が甘い香りを伴いながら唇を濡らすが、そこで押しとどめた。

「さあ、食ってくれ。人気メニューなんだ」

 川和田は言うと、自分のグラスに二杯目のウイスキーをそそいだ。

 勧められるまま、徹は箸を手にして小鉢の料理をつまんだ。

 川和田の視線が徹の箸を追う。

 逃げ道はない。箸でとらえた肉を、徹は口に入れた。

 目の前の顔は自信にあふれていた。単に料理の味を誇りたいのか、策略の効果を見たいのか。

 咀嚼し、味と香りを確かめた。確かに悪くはない。もっとも、これが豚肉であるとは、まだ断定できない。牛肉や鶏肉でないのはわかるのだが。

「どうだ?」

 問われたと同時に、得体の知れない肉を飲み込んでしまった。

「ああ、うまいよ」徹はどうにか笑みを作った。「人気メニューであるのも頷ける」

「なあ、そうだよな」

 破顔した川和田は、自分の小鉢の肉を頬張った。彼の様子からして、おそらく、ただの豚肉なのだろう。

 とはいえ、このメニューが人気を博していたのは、一年ほど前の一カ月間、もしくは新型ウイル感染拡大以前である。このささやかな宴の席になんの策略もないのなら、川和田はむなしさに打ちひしがれて当然であるはずだ。

 徹はウイスキーの香りだけで、わずかな酔い心地を覚えた。注意力が散漫になっている。

 裕美ゆうみの名を口にしたかった。彼女の名を口にして、川和田を強くののしりたかった。しかし、今の自分の心に火が点いてしまえば、ふれてはならない領域までこの宴の席に引き出してしまいそうである。

 かろうじて徹は自分を律することができた。それでも、この場を盛り上げられるような話題を呈することができない。

「気にならないのか?」

 不意にそう問われ、徹は「何が?」と問い返した。

「裕美のことだよ」

 川和田は答えた。禁断の領域にほうり込まれたようだった。

「別に。二十年も前のことだ」

 虚勢を張るつもりはなかった。自分の本音は、今は出せない。だが川和田をおとしめたいと思っているのは確かだ。

「正確には十八年前だな」

 グラスを持ったまま、川和田は徹の言葉を訂正した。

「いちいち細かいんだな」

 徹はそうこぼすと、箸を置いて川和田を横目で見た。

「細かいのはこの稼業に足を突っ込んだからかもな。まるで、高校生の頃のおれたち二人が、いい大人になってから入れ替わっちまったようだ」

 自嘲気味の笑顔で川和田は言った。

 そう、いつの頃からか、徹は無頓着な男になっていた。職場の仲間から「幽霊社員」と揶揄されたこともあったほどだ。

「おれのせいだろうな」

 その一言を耳にし、徹は眉を寄せた。

「今さら謝罪するとか?」

 まだ酔ってはいない。それでも抑えきれずに訊いてしまった。

「謝罪してほしいか?」

 問い返される筋合いはないはずだ。徹は川和田に顔を向け、正面から睨んだ。

「さっきの話によると最近の裕美……さんは、店に出ていないようだが、元気でいるのか?」

 川和田の問いに答えず、徹は詰問した。ここから徒歩で十分ほどの距離にある川和田の自宅には、誰もいないはずだ。それを徹は知っている。

「ふっ」川和田は失笑した。「せっかく来たんだもんな。やっぱり会いたいわけだ」

「はぐらかしてばかりだな。ちゃんと答えろよ」

 優位でいるためにも、可能な限り声を抑えた。

「家を出ていったよ。娘と一緒にな」

 簡素な答えだった。無論、出任せであるのは承知している。

「へえ、けんかでもしたのか?」

 じらされた腹いせというわけでもなかったが、皮肉っぽい口調で返してやった。もっとも、驚愕を表したほうが流れとしては正当だったろう。

「まあ、そんなところだ」

 頷いた川和田はグラスの中身を一気に飲み干すと、空のグラスをカウンターに置いた。

「しかし」徹は笑うのをこらえた。「娘も出ていってしまうとな」

 娘の名前が「鈴菜すずな」ということも、徹は知っている。無論、この場でそれを口にしてはならない。

「裕美に似て、かわいい顔をしているんだ。まだ彼氏はいないみたいだったが」

 落ち込んでいるばかりと思いきや、さりげなく自慢話を垂れ流すではないか。徹は小さく舌打ちした。

「ダイコク横丁でときどき人が行方をくらます……っていう噂があるけど、川和田の家庭のような……そういう事情が多いのかな?」

 わざとらしく独りごちてみた。

 沈黙があった。川和田の顔から笑みが消えている。彼は遠くを見るような目を厨房に向けていた。活気に満ちた過去の幻影がそこにあるのかもしれない――そうとしか、思えなかった。

 耐えきれず、徹は立ち上がった。

「帰るよ」

 そう告げて見下ろせば、川和田のふぬけた顔が徹を見上げていた。

「まだいいじゃないか。すぐに次の料理を出すよ」

 笑顔を取り戻した川和田が、訴えながら立ち上がった。徹と店の出入り口とを塞いでいるようでもある。帰ってほしくない、というより帰すつもりはないのだろう。

 不意に店のドアが開いた。

「あら珍しい。こんな時間にお客さんだなんて」

 のれんをくぐるなり立ち止まった女が、目を丸くしてこちらを見ていた。

 女へと顔を向けた川和田が、肩を落とす仕草を見せる。

「なんだ、かなえちゃんか。今日はお客が多いな、って喜ぶところだった」

「何それ? まるであたしが客じゃないみたいじゃない」

 口を尖らせた女が、後ろ手にドアを閉じた。見かけは明らかに徹たちより若い。とはいえ、こんな店に一人で入っても違和感のない風貌だ。後ろで結った髪、小脇に抱えたレザーハンドバッグ、レースのカーディガン、パンツルックスなど、シックな装いだが、化粧は派手目である。

「悪かったよ。そう怒るなって」

 軽い調子で詫びた川和田は、自分のグラスと小鉢を厨房側に移し、徹に向き直った。

「話し好きな人なんだ。彼女も常連以外の客を見て喜んでいるんだし、気を利かせてくれよ」

 言うなり、川和田は徹の両肩に手を置くと、強引に椅子に座らせた。

 もとより、この女が来店した時点で、徹の帰る気は失せていた。否、帰る必要がなくなったのだ。

 厨房に戻った川和田が自分の座っていた席に目配せすると、女はそこに腰を下ろし、ハンドバッグをカウンターの下の小棚に入れた。自ずと徹の隣に並ぶ形となる。

 森林を想起させる香りが漂っていた。その女の香水だ。ニンニクのにおいはもとより表の異臭さえ忘れさせてくれる香りだった。

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