はるかなる冥界より

岬士郎

第1話

 たとえ報酬が高額でも、非合法な仕事は断るべきだったのだ。とはいえ、理性が効かなかったのは、仲介人と昵懇の仲だったからでもある。

 悔恨の念に駆られても、もはや手遅れだ。否、生き延びようとする本能はまだ働いている。現に彼は、真夜中の都会に車を走らせ、逃避行動を取っていた。

 最寄りのインターチェンジから首都高速道路に入り、北へと向かった。西へ向かうより車の流れは円滑さが期待できるだろう。もっとも平日のこの時間ならば、よほどの事情がない限り、高速道路だろうが一般道だろうが、渋滞にはまるという不運に見舞われる確率は低いに違いない。

 首都高速道路から東北自動車道に入った。交通量はさらに減っている。前を走る車を抜くことはあっても追い上げられたり抜かれたりすることはなかった。

 気づけば、愛車のSUVを制限速度より五十キロも上回る速度で巡航させていた。ときおりドアミラーやルームミラーで後方を確認するが、街灯に照らされる路面が流れていくだけだった。

 街明かりが遠くなった。道路の外の宵闇には、その闇より濃い影として、茫漠たる山並みが横たわっている。

 進行方向の路面を照らすヘッドライトの明かりが、わずかに暗くなった――ような気がした。

 前にも後ろにも車はなかった。対向車線に目をやるが、そちらにも車は見えない。

 ひたすらにアクセルを踏み続けていると、やがて、カーナビの表示どおりに福島県の表示板が現れた。東北地方に入ったわけだが、それにしても交通量が少ない。このSUV以外に車は一台も走っていない。

 動悸が高まった。

 思わず生唾を飲み込んでしまう。

 ふと、右サイドミラーに何かが映ったような気がした。

 進行方向の安全を確認したうえで右サイドミラーに視線を移した。

 異常は何もない。

 視線を正面に戻した彼は、目を見開いて「ひっ」と声を上げてしまった。

 染みのような黒い何かがフロントガラスの上部にへばりついていた。フロントガラスの外側だ。黒い何かは全体の一部らしく、見えている部分に繫がる本体が屋根の上に乗っているはずだ。そう、それは彼の体よりも巨大であるはずなのだ。彼はそれをすでに知っている。

 もう逃げきれない――と悟った次の瞬間、フロントガラスが黒一色に覆われた。


 大手製造業の本社に採用されたときは天にも昇る気持ちだった。将来の安泰は決まったようなもの、と周囲からもてはやされたものだ。

 あれから二十年以上の月日が流れた。抱いていた自信や希望は、どこへ行ってしまったのだろう。挫折と喪失感にさいなまれる日々が繰り返されるようになったのは、いつの頃からだろう。

 どこでどうつまずいたのか、今となっては思い出せないし、思い出したところでどうにもならない。気づけば仕事でのミスが頻発するようになり、それが原因で企画部から総務部の庶務課に異動となったのは、十年も前のことだ。移動の際に係長に昇進できたのはせめてもの救いに思えたが、それ以来、毎日のように雑務を押しつけられている。

 竹中たけなかとおるは片手でつり革にしがみつきながら、車窓の景色に目を向けていた。夕日を浴びたあかね雲が、ビル街の作るスカイラインに垣間見える。金曜日とはいえ、使える社員ならば今頃は残業中であり、この空をのんびりと眺めていられるはずもない。

 電車は乗車率が八割程度だった。いつもと変わらぬ夕方の一幕だ。

 最寄りの駅で下車した徹は、雑踏に紛れて西口から駅を出た。腕時計を見ると、時刻は午後五時五十四分だった。いつもどおりだ。一分の狂いもない。

 駅前通りを自宅のある住宅地へと向かう頃には、人並みはまばらとなっていた。それでも人目は気になってしまう。だからこそ下を向いて歩くのだ。そうすれば自分の気配を消すことができる――。

 両親は徹が離婚した直後に相次いで病死した。帰宅しても家族がいるわけではないが、むしろ一人きりのほうが穏やかでいられる。ために、こうして毎日のように、バス路線から外れているこの家路を、どこも寄らずに急いでいるのだ。

 西へと延びる駅前通りは、両側に瀟洒な店が並んでいた。徹は行きも帰りも北側の歩道を歩くが、この夕方も例に漏れず、その歩道を進んだ。

 歩きながら、ふと、衣料品店のショーウィンドウに視線を移した。ビジネスリュックを背負ったスーツ姿の中年男が、そこに映っていた。やせこけて猫背気味のくたびれた男である。

 いたたまれずに目を逸らそうとしたが、不覚にも時機を逃してしまった。

 駅寄りにその衣料品店、自宅のある方向にATMがあり、それら二棟の間が、横丁の端だった。

 底知れぬ深淵が暗黒の大口を開けていた。

 意図せずに足を止めていた。

 食い入るように見続ければ、いつもの寂れた飲み屋街だった。人の姿は皆無である。暗さのあまり、横丁の奥――北側の大通りに接しているはずの辺りが窺えない。たかだか百メートル程度の距離が無限の闇に思えた。

 以前は大勢の客で賑わう繁華街だったが、世界規模の新型ウイルス感染拡大において、ほかの例に漏れず客足が遠のき、感染が収束しても客の戻りは鈍かった。しかし一年ほど前のおよそ一カ月間だけは、一時的に繁盛していたのである。それ以降はまたしても客足が減り、そればかりか各店のオーナーや家族、一部の客がこの界隈で行方をくらましたのだ。「ダイコク横丁」という正式名称があるにもかかわらず「奇妙な横丁」などと呼ばれるようになったのは、そんないきさつがあるからだ。もっとも、徹はこの横丁に足を踏み入れたことは一度もない。

 自宅の方向に視線を戻し、歩き出そうとした。

「よう、竹中じゃないか」

 横丁の奥から声をかけられた。

 もう一度顔を向けると、横丁の右の列、こちらから三軒目の店の前に、大柄で恰幅のよい一人の男が立っていた。

川和田かわわだか」

 徹はそう返したが、そもそも相手に届くような声ではなかった。聞こえたのか否か定かでないが、その相手は笑顔を浮かべると、こちらへと歩み出した。

 可能であれば立ち去りたかった。少なくとも今は、心の準備ができていない。

「久しぶりだよな」

 徹の前で足を止めた男――川和田洋造ようぞうが言った。

「ああ」

 軽く頷き、徹は川和田から目を逸らした。

「そんなにつれない態度を取るなよ……と言っても無理な話か」

 軽薄そうな声を投げかけられ、やむをえず、徹は視線を戻す。

「仕事で疲れているんだ。もう行くよ」

 会話を打ち切るつもりで伝え、歩き出そうとした。

「毎日定時なんだろう?」川和田は徹の右腕をつかんだ。「竹中のこと、いつもこの時間に見かけるんだ。疲れるほど忙しくもなさそうだけど」

 その嘲笑から逃れたかったが、力で川和田にかなうはずがなかった。血気盛んだった高校生時代にはこの男と何度か殴り合ったことがあるが、毎回、最終的には打ちのめされていた。徹に軍配が上がったことは一度もない。

 火急の用事があるなどの無難な理由をでっち上げればよかったのかもしれない。そんな策を講じる暇もなく、「疲れているんなら、なおのことだ。うちの店で休んでいけよ」とまくし立てる川和田に腕を引かれて、徹は横丁に足を踏み入れた。

 店先にのれんがかかっているのは川和田の店だけのようだった。ほかはまだ開店時間ではないのか、休業日なのかもしれない。もしくは、のれんを使用しないスナックなどの店舗もあるはずだ。とはいえ、のれんばかりか、店先看板の類いも見当たらない。

 川和田の店の名は「ようちゃんち」だ。自分の名から取った、という話を口伝えに耳にしたとがあるが、徹はそれを川和田本人に確かめていない。何しろ高校を卒業して以来、川和田とは街中でまれに行き会う程度であり、世間話をするでもなく、軽く会釈を交わす程度なのだ。

 アーケードはなく秋空が筒抜けだが、ビルに囲まれた細長い空間のためか、この時間ということも相まって薄暗かった。否、この横丁から見上げる空は、たった今まで目にしていた空よりも明らかに暗い。加えて、悪臭が鼻についた。下水のにおいだ。

 今からでも強引にこの手を振りほどいて逃げてしまおうか――などと思案しているうちに、「ようちゃんち」の店先にたどり着いてしまった。

 引き戸を開けた川和田に背中を押され、徹はのれんをくぐった。

 店内は十五坪ほどであり、オープンキッチンだった。二人がけテーブルが四卓にカウンターが十席である。

 演出なのだろうか、照明は灯されているが、薄暗い横丁――その一角であることを象徴するかのように、この店内も薄ぼんやりとした明かりに包まれていた。

 川和田は引き戸を閉ざすと、徹をカウンターの一番奥の席へと促した。

 ビジネスリュックを足元に置き、徹はカウンターチェアに腰を下ろした。

 外の空気を遮断したおかげか、少なくとも下水のにおいからは解放された。代わって、香辛料やニンニクなど、食欲をそそる香りが鼻に届いている。

「無理に誘ったんだ。ごちそうするよ。下戸っていうことはないよな? あと、料理で苦手なものはあるか?」

 川和田は問いながら厨房に入った。

「下戸ではないし、食材で苦手なものも……特にないな」

 遠慮するには手遅れだろう。とはいえ、下戸であると偽っておけばよかったかもしれない。

 悔いつつ、徹は店内を見回した。

 奥とテーブルの横の壁には手書きのメニューが隙間なく貼られ、厨房の一角には、焼酎やウイスキーなどの瓶が並んだボトルキープ棚が据えてある。

 徹の視線を探ったのか、川和田はエプロンをかけながら、好みの酒を尋ねてきた。ウイスキーのストレートであると答えると、川和田は水の入ったコップを徹の前に置き、ボトルキープ棚からウイスキーの瓶を取り出した。

「おい、それってキープしてあるやつだろう」

 焦燥の声をかけた徹を、川和田は笑いながら見返す。

「客のじゃねーよ。おれのボトルだ」

 そして、水のグラスの横に並べられたグラスには、琥珀色の液体がダブルでそそがれたいた。

 グラスを右手に取って軽く揺らすと、甘い香り――とろけるようなおとなの香りが立った。とはいえ、くつろいでいるわけではない。

「お通しだ」川和田は枝豆の小皿を徹の前に置いた。「それから、豚肉の味噌ニンニク炒めなんてどうだ? 自分でつまもうと思って、ちょうど作っていたんだ」

「任せるよ」

 料理を注文するような気分ではないのだ。相手が何を考えて自分をここに招き入れたのか、徹は訝しむが、概ねの予測はついていた。だからこそ川和田に問う。

「自分でつまもうとしていたんだから、おまえも飲むんだろう?」

「ああ、とりあえずこれを作ってからな」

 答えた川和田は徹に背中を向けると、フライパンを載せてあるレンジに火をつけた。そしてそのフライパンに、ボウルに入れてあった具材を投入する。フライパンを煽って具材を混ぜると、ニンニクの香りがさらにほとばしった。

 グラスにウイスキーをそそぐときに目を離さなかったが、何かを混入させる様子は見受けられなかった。もっとも、前もってグラスに仕組んでおいた可能性は否めない。

 川和田は背中を向けているが、念には念を入れるべきだ。徹はグラスを口に運び、ゆっくりと傾けた。無論、ウイスキーが口に届く前にグラスを元の角度に戻す。嚥下の仕草も忘れなかった。水も飲まないのが懸命だろう。

「いつも一人で切り盛りしているのか?」

 鎌をかけてみた。成り行き次第では川和田の行動を早めてしまうかもしれない。しかしこれは腹いせでもある。多少でも動揺してくれたなら、ここに来た甲斐はあるだろう。

「繁盛していた頃はかみさんの手を借りていたが、今じゃ横丁自体がこのありさまだろう。おれ一人で十分だよ」

 無難な回答だ。ともすると、こちらが探っていることに気づいたのかもしれない。少なくとも川和田の背中に動揺は見られなかった。

「そうか」

 深追いを避け、徹は枝豆を口に放り込んだ。

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