日常・1

目が覚めてやっと、息をすることができた。


「……またか」


私は匂いを思い出す。私自身の肌のにおい。

 それとかすかに、植物プラントの土のにおい。

 どれだけ地球の大気を模そうとしても、ここには排ガスも動物の糞便もない。

 限りなく清潔に保たれた基地の中は、人工的に管理された無機質な空気で満たされている。


 徐々に明瞭になってくる意識の中、白い天井が像を結ぶ。

 かすかな濃淡が作り出す模様をしばらく眺めてから顔を横に向けると、ベッドのシーツと腕が見える。


 私の腕。生白い、太陽を忘れてしまった肌。


 手首につけていた腕時計と目が合う。

 あの日から変わらず時を刻み続ける時計では、こすり傷のついたプラスチックの蓋の向こうで招き猫が笑顔を浮かべている。

 針は、七時十五分前。

 そろそろ定期報告の時間だった。


 寝返りを打って、上体を起こす。

 手を伸ばして正面の液晶パネルを起動する。

 ミュートされたまま歌い続けるデヴィッド・ボウイのMVからチャンネルを切り替える。

 野外風景、カメラ1。

 液晶に、無機物の目が見る白と黒の静かな世界が映し出される。


 この基地をすっぽり覆うコンクリートに通されたケーブルを伝って四方八方に向けられている外部カメラ。

 いわばこの基地の目が見つめる、どこまでも続く白い、起伏の多い大地。

 その上を、完全なる暗黒が広がる。

 夜闇より深く底なしの宇宙の深淵に、青い球体が浮かんでいる。


 地球。


 月面から見る惑星は、地球から見た月より大きい。直径の差を考えれば当たり前なのだけど、その大きさの違いは、私に距離を実感させる。


 彼我をつなぐものはただ光と、記憶だけだ。


「……お姉ちゃん、今日も頑張ってくるね」


 腕時計に額を寄せて、ギュッと目をつぶる。瞼の裏の、印象だけになってしまった妹に告げて、私はパネルの電源を切った。


 ◯


 月が人類のフロンティアになっておよそ十年が経った。

 当時から月はヘリウム3や鉱脈資源の供給源や地球上では困難な高性能ガラスファイバーや超耐熱材料の研究開発、または低重力環境における植物栽培など、可能性の宝庫として注目されていた。


 二〇二〇年三月に花開いた第二の宇宙開発時代、その第一世代の人類は、まずそこを開発してヒトの住める環境をつくれば地球上の暮らしも大きく変わると考えた。 


 そんな中で人材の早期派遣と月面基地の早期建設を成功させたのが私の所属する企業、<月の探索者ケスター・デ・ラ・リュネ>。複数の多国籍企業が共同出資・経営している株式会社で、月面に活動する最大企業だ。


 <月の探索者>は月面を開拓期アメリカに見立て、小規模かつ役割特化型の基地を複数建設する方針と、港の建設による地球やISSへの独自の物流路の確保で大きな成果を上げている。


 港を中心としたヒトとモノとのネットワークは十年の間に成長し、今ではほとんど、地球の大都市のようになっているらしい。港は一種の観光地化していて、地球からの直通便もあるという話だ。


 とはいえ、そういった話は私には縁遠い。


 私がいるのは月の裏側に最も近く、かつ鉱脈なども期待されないほんとうの砂漠にある第八基地。


 生活はほとんどが自給自足。毎日、あるかどうかもわからない鉱脈を探査せよと指定されたルートを順番に調査し、それが終わったら基地へ戻って植物プラントの管理、低重力下の高分子研究・開発などを行う。


 外部との交流といえば毎朝の定期報告と三ヶ月に一度の補給くらい。会う相手は、同僚ただ一人。

 ようするに、住み込みで働く単純労働者。それが私の実態だ。

 ただそこにいることが重要とされる現場で、今日も一日、私は与えられたタスクをこなすことになる。


 ◯


 起床して最初にするのは柔軟体操だ。

 低重力下では体がいつも運動不足をうったえる。

 ふくらはぎのだるさはここに派遣されて以来の悩みだ。

 一年が経っても、まだ慣れない。

 最低限こうしないと、昼間の作業に支障がでた。


 ピタッとつけた爪先に額を近づけて腰を伸ばしていると、いつも母の背中を思い出す。これが意外と腰の凝りに効くのだ。


 五分かけて日課を終えて、二段ベッドのはしごを降りる。

 降りきろうとしたとき足の裏に硬いものが触れた。

 とっさに避けるように足を伸ばして、はしごから手を離す。

 転けそうになった姿勢を整えながら目を向けると、ベッドからこぼれた白い足先とともにかけ布団が垂れ下がり、その先端に青いタブレットがあった。


「ユア……また夜中までゲームしてたんでしょ」


 二段ベッドの下を覗きこむ。

 茜色の髪をした少女が眠りこけている。

 額に預けた腕をアイマスク代わりにして眠りこけているせいで、前髪が押しやられておでこは丸出し。

 半開きの口からはよだれも垂らして、枕に水たまりを作る寸前だ。


 これが、私の同僚、ユア。

 年下で、まだ二十四歳のはず。

 ここに来る前にいた訓練センターでできた最初の友達。

 一緒に暮らしてみてようやく知ったが、能力はあるのに、ひどくめんどくさがりだ。


「ああ、もう……ユア、起きなよ」

「……マイ、そっちはウインナーソーセージで丸焼きだよ……」

「どんな寝言だよ」


 溜息。これで、理数系の成績は首位だったのだからむかつく。


 これもまた床に落ちていたタオルをとって口元を拭う。

 就寝してからわずか一晩で散らかった寝室の床から目をそらしながら、諦めて寝かせてやろうかと思って毛布に手をかけたとき、ぱち、とユアのまぶたが開いた。


 黒い瞳がじっと私を見つめる。


 いっしゅん、手が止まる。なんだかいけないことをしているところを見られた気分になった。

 口を開こうとしたら、ぐっと首の後に腕を回されて抱き寄せられた。


「わ、ちょ、ユア!」

「マイ~……おはよおー……」

「おはよおーじゃないよ。離してユア、起きないと」

「ええ~? いいじゃんもうちょっと寝てたってさあ」


 布団妖怪と押し合いへし合い格闘する。

 これも、毎朝の行事。

 慣れてしまったけれども、正直、最近はストレスも多い。


「ほら顔洗う! 一緒行くよ」

「ううううううーーーー……」


 ぐいぐいとユアを引っ張ってシャワールームへ。

 この基地の居住区画はいわゆる高級ホテルから部屋の間の扉を取り払ったようなつくりになっている。

 リビング・ダイニング・キッチンが一部屋にまとまっており、そこに連なる寝室にシャワールームが併設されている。


 脱力した体を支えながらばっしゃばしゃと顔を洗いながら、メイクもなにもなしできれいな顔を鏡越しに眺める。

 壁の上半分を覆う無駄に高級そうな鏡には、だらけているのに可愛らしい猫みたいなユアと、育児に疲れたママさんみたいな姿をした、ポニーテールの女が映っている。

 こみあげるため息を呑み込んで、私はユアに水をかけた。

 

 エアロックを出るとすぐ正面に調理場があって、右手にリビングが続いている。

 リビングの壁には有機ELの大きなスクリーンがあり、液晶を見るための空間を取り囲むように大きなソファが二つ、L字型に配置されている。

 ソファと液晶の間にある腰丈のテーブルにはポテトチップスの袋が食べ散らかされた中身を晒している。

 ユアを睨むと、えへへ、と彼女は目を細めた。


「そんな顔してもゆるさないから」

「はあい……片付ければいいんでしょー」


 そういうとユアはするりと腕の中から抜け出して、言われるまでもないという様子で片付けを始める。

 はじめからそうしてくれればいいのに、という言葉をこらえつつ、私は調理台へと向かう。


 食洗機から皿を出して、壁の取っ手を掴んで保管庫を引き出す。

 並べられた保存食からシリアルと粉末牛乳を取って流しに並べ、蒸留機のスイッチを点けたところで、視界の端の時計の時刻に気がついた。


「やばい、時間だ。私報告いくから、ユアよろしく」

「はいはい、朝食ねー」


 キッチン沿いに進んでコンロの壁の裏に回る。奥には黒い扉があって、それが通信室だった。

 視線の高さにはレンズがある。ここから微弱な可視領域外の光が発せられ、網膜のパタンが読み取られる。


 目を近づけてその姿勢のまま少し待つと、次は、扉の横、腰ほどの高さにある金属のパネルに手を当てる。体温、静脈図、その他諸々が読み取られるしくみだ。

 それらを終えたらようやく最後に最終認証。

 扉が合成音声を発して、体を離してください、と言った。


『認証コードを入力してください』

「怪物は、どんな身の毛のよだつしろものでも、ひそかに私たちを魅惑する」


 ロックが外れる。

 中に入り後ろ手に締めると、扉は再び施錠された。


 通信室はとても狭い。椅子もないから、立つしかない。独房のほうがマシに思える。

 垂直に突き出たタッチパッドに触れると正面の液晶が起動する。

 ログインしてスリープを解除。

 報告タブをクリックして、用意された項目を埋めていく。

 用意された鉱脈の候補地のどこを調査したか、どのように調査したか、どのような成果が得られたか……大学生のレポートに似た形式で、用意されたフォーマットに従って報告書をまとめ上げる。


 十分くらいで書き上がった。問題ないか確認して、送信。

 ひと仕事終えたいい気持ちで扉を出ようとすると、ビープ音が部屋に響いた。

 振り向くと、画面にコールサインが浮かんでいる。


「こちらマイ。本部、どうした」


 音声入力を受け付けて画面が通話に切り替わる。

 白い壁を背にしたオペレータが、形式通りに微笑んでいた。


『こちら本部、株式会社<月の探索者ケスター・デ・ラ・リュネ>。マイ・サカキさん、今よろしいですか』

「どうぞ」

『ピートが口頭での報告を求めています。お手数ですが、先程入力した事項について繰り返していただけますか』


 ピートは直属の上司で、私たちにこの仕事を斡旋した男だ。いやな目つきのフランス人で、映画「気狂いピエロ」に出てくる小人症の悪役そっくりの顔をしている。神経質なところがあり、何かとつけて口頭報告を要求する。


 溜息をぐっとこらえる私を見てオペレータは苦笑した。おそらく似た経験をしているのだろう。彼女が浮かべた苦笑には、本心からの共感が見られた。

 私は笑い返しつつ、正確に再現はできないけれどと断りを入れて記憶を手繰り寄せる。


「探索ではS7からS12までを調査。エコー、ガンマ線、X線による分析を実施しましたが、地下水脈・鉱脈などは確認できませんでした。また、指示された実験は、三番から七番は有意差が見られませんでした。八番、九番は、結晶構造に有意な違いが見られました」

『……確認が取れました。お疲れさまです』

「そちらこそ」

『あ、……っすみません、そのままお待ちいただけますか』

「ええ」

『すみません』


 通信係が椅子を引いたところで、ビデオとマイクがミュートされた。

 机に寄りかかり、姿勢を崩す。

 数分後、ビデオが繋がった。


『地質調査の件ですが、他の調査法は実施可能でしょうか?』

「与えられている機材全部使って調査してる、と言っておいてもらえます?」

『どうも納得していないようです。組み合わせろとか、工夫しろとか……』

「むちゃくちゃだなあ」


 オペレータは左右を見ると画面に顔を近づけた。


『ホーガン氏はご存知ですか』

「ピートのライバルでしたよね。作家と同じ、J・P・ホーガン」

『彼女のチームが業績を上げているそうで……月の裏側に新たなクレーターを見つけたとか、そのクレーターに人工物らしきものを見つけて、世紀の大発見なんだとか……』

「それで焦ってるんだ、あの男」


 オペレータは頷いた。


『わたしは入社したばかりで詳しく存じ上げませんが……』

「ん。わかった。とりあえず、追加で機材を作ってみるって言っておいて。ISRUで追いつかなければ、素材を要求するとも」

『わかりました。ご安全に』



 通信が切れた。

 溜息混じりに部屋を出ると、いきなり陽気な音楽が聞こえた。

 一世紀近く昔のロック。ビートルズの、マクスウェルズ・シルバー・ハンマー。


「マイ!」


 ソファに肘を乗せて、ユアは私のほうに体を向ける。

 Tシャツにハーフパンツ。いつの間に着替えたのだろうか。眺めていると、ユアははしゃいだ笑顔を見せた。

 モニタに映ったミュージックビデオをそのままにシリアル入りのお皿をテーブルに置くと、ユアはソファを蹴倒しながら私に向かってジャンプした。


 届かないだろうと思ったのもつかのま、ユアは壁を思い切り蹴った。

 さらに加速して突っ込んでくる。

 慌てて受け止めることはできたけど、勢い余って倒れこんだ。

 床に仰向けになって倒れる。ユアは猫みたいに頬ずりすると、私の頬になんどもキスをする。


「ごはんできてるよ!」


 ニコニコと、褒めて褒めてと言わんばかりに無邪気にじゃれついてくるユアに、いっしゅん嫌な思いを抱いてしまう。

 こちらのことも慮ってくれればいいのに。

 それが顔に出てしまったのか、ユアはやわらかく弧を描いていた眉毛を下げて、心配そうに訊いてきた。


「……食べるよね?」

「……食べる」


 答えると、ユアは微笑んだ。

 それが配慮ではなく、あらわにされた弱さだと知りながら、私はユアの頭を撫でた。

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