第2話 ケモノとおじさん②




「そうかい……」



 白髪の老人が悲しそうな表情で呟いた。


 奴隷である獣人に名前が与えられることはない。だが、数多くいる獣人の中で個体を区別するためには便宜上の名前は必要であり、獣人の持つ耳や尻尾の特徴によって「ネコ」や「オオカミ」などと呼ばれる。

 ケモノよりも何十年と長く生きてきた白髪の老人は当然そのことを理解しており、だからこそ、ケモノと言う名前から彼女がいかに獣人の中でも下の身分であるかを瞬時に理解できた。



「お嬢さん、あんたはまだ若いんじゃ、これからいろいろな経験をするといい。例えばじゃな……世界を見て回るなんてどうじゃ?」



「世界を?」



 俯いていたケモノが不思議そうに白髪の老人を見つめる。



「そう、世界じゃ。ワシはこのバールバラ大陸から出たこともないが、海の外はもっと大きな大陸がいくつもある。もしかしたらお嬢さんが幸せに暮らせる場所もあるやもしれん」



「幸せに……暮らせる場所……」



 ケモノは自分に言い聞かせるように、小さな声で老人の言葉を繰り返した。



「それじゃあお嬢さん、ワシはそろそろ行くとしよう。こんなおいぼれの言葉じゃ、あまり気にせず好きに生きておくれ」



 そう言って白髪の老人が馬の手綱に手をかけた。



「そうそう、そういえば最近巷でおかしな薬の密輸のうわさが流れとるらしい。お嬢さんも気を付けなされ」



「う、うん。ありがとうおじいさん」



「それではの」



 その言葉と共に白髪の老人が手に握っていた手綱を一度だけ小さく鞭打った。それを合図に、暇そうにしていた馬が高々と前足を太陽に掲げ、老人と藁を乗せた荷馬車をゆっくりと運んでいく。

 一人残されたケモノは少しずつ遠ざかる老人を見つめ、その跡を追うようにグラーコの町へ向けて歩き出した。




 10分ほど砂利道を歩き、グラーコの町の入り口に辿り着こうとしたころ、街の大通りを行き交う人の影がケモノの視界を覆った。その見たことのない人の数と賑やかさに、ケモノが思わず足を止める。それは驚きと、ほんの少しの恐怖心からであることをケモノ自身も理解していた。


 いつもは鮮明に聞こえる固唾を飲んだその音は、まるで何事もなかったかのようにその賑やかさにかき消される。街から吹く風が運ぶ潮の匂いは新鮮で、しかしその煽動に浸っているほどの余裕はなかった。

 ケモノは何かを確認するようにゆっくりと後ろを振り返り、草原と砂利道しか見えない景色にホッと肩を撫で下ろした。


 大きな呼吸を一つ、ケモノがその足を街へと踏み出す。

 街の入り口から町全体を見回してみるが、ケモノの背丈から見えるのはほんの小さな世界。騒がしくも行き交う人間たちを前に、老人を乗せた荷馬車がケモノの視界に映るはずもなかった。

 ただ、視界に映る人間はケモノの知っている人間とはほんの少し違い、どこか楽しそうな表情をしていた。




 グラーコの町に入ったケモノは思うように身動きも取れないまま、道行く人の流れに流されていく。

 幸いにもケモノの耳は小さく、帽子を被っていると目立つことはなかった。加えて、本来獣人にあるはずの尻尾もケモノにはなく、そのおかげか誰一人としてケモノが獣人であると気づく者はいなかった。


 時折目に映る数々の品物に目を輝かせながら波に揉まれて十分程度、街の果ての港に着いたケモノはそこでようやく足を止めた。町の果てと言えど、港に浮かぶ船の存在感は一線を画していた。

 大通りほどではないものの、船から荷物を運ぶ人、船に乗り込んでいく人、船を見てはしゃぐ子ども、その数はこれまでケモノが住んでいた小さな町とは比べ物にならないくらいだった。


 そしてケモノもまた、広い海と目の前に浮かぶ自分の何百倍もあろう大きな船を見上げて呆然と立ち尽くすほかなかった。




 ぼぉー。っと一回、大きな大きな音が空気を揺るがした。それは目の前の大きな船から発せられたもので、まるでケモノに何かを告げるかのように響き渡る。


 ふと、ケモノは白髪の老人の言葉を思い出した。

 海も、船も見たことがない。海の外の世界も本でしか見たことのないケモノだったが、不思議にも目の前の船に乗ればどこか遠くの大陸へ行けるような気がした。白髪の老人が言っていた、幸せに暮らせる場所にも……。


 鳴り響く汽笛とともに、船へと掛かる橋に向かって人々が集まっていく。

 その姿を見たケモノもその流れに乗じて船へと足を動かした。



「お嬢ちゃん、乗船状を見せてくるかい?」



 人間に続いて船に乗り込もうとした手前、一人の男の声にケモノは足を止めた。



「乗船状。持ってないのかい?」



「えっと……」



 ケモノを獣人だとは微塵も感じていない様子の青年は、ケモノに優しく問いかける。

 ケモノが青年から視線を外すと、その様子に何かを悟った青年がさらに口を開いた。



「すまないねお嬢ちゃん、乗船状がないと船には乗れねぇんだ」



「その乗船状はどこで貰えるの?」



「乗船状かい?役所で売ってるさ……5000ジル程度だ」



「そうなんだ……」



 男の言葉にケモノが肩を落とす。

 空腹を満たすのは愚か1ジルすら持っていない今のケモノにとって、真っ赤なリンゴ100個分の乗船状を買うお金なんてどうやっても手に入れる手段はなかった。



「おう、どうした新入り」



 ケモノが項垂れていると、後ろから別の男の声が聞こえてくる。木箱を抱えた腕は太く、いかにも船乗りというような腕っぷしの強そうな男だった。

 そして新入りと呼ばれた、ケモノと話していた青年がその男のほうへ駆け寄り、ケモノのほうを指さしながら何かを話し始めた。



「なるほどな……見たところまだガキじゃねぇか」



「そうなんすよ。親もいなそうでどうします船長」



 船長と呼ばれた男はほんの少しだけ考える素振りを見せ、ゆっくりとケモノのほうへ近づいていく。



「おい嬢ちゃん、乗船状がないんだってな?見たところ乗船状を買う金もないってとこか」



「うん……」



「しょうがねぇ、特別に船に乗せてやってもいいぜ?」



「ホントに!?」



 パァっと晴れるケモノの表情に船長が小さく笑う。

 しかしその顔は優しそうではあるものの、ニタリとした少し不気味な笑みだ。



「ああ、ただし条件がある」



「条件?」



 船長の言葉にケモノがほんの少し首を傾げた。

 そんなケモノを横目に、船長は抱えていた木箱を地面に置き、その上に手をかけた。


「なに、難しいことじゃない。ちょこっと町の隅までこの荷物を届けてくれりゃあいいだけさ」



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