わすれもの
ナロミメエ
玄関を出て、思いっきり背伸びをする。
疲れも何もかも抜け落ちていく感じがした。
広い空には雲一つない。
気分爽快、本日は快晴なり。
平日は派遣の事務、土日はホテルの清掃を掛け持ちしている私は、久々の休みで思いっきり羽を伸ばすことにした。
あまり予定も決めずに家を出たけど、とりあえず二駅隣のショッピングモールへ向かった。
すると、母の知人のおばあさんに出くわした。
「あら、おめかししてお買い物? お母さんはお元気?」
軽く会釈して、その場を後にした。母は一ヵ月前に亡くなった。昔からケンカも多かったけど、最後は穏やかだった。
ともあれ、久々の街はぶらぶらしているだけでも楽しくて、でもふとした時、ドキドキ、不安。いつもの癖だ。
ドアの鍵、掛けたかな……。
玄関出て、ドア閉めて、日光が気持ちよくて、伸びをして、振り向いて、ドア……掛けた。鍵、掛けた、よし、よし、よーし!
元来、私は几帳面の完璧主義者。
だから、今までも大きな失敗をした経験なんてない。
でもそのせいか、何かを忘れているという不安によく駆られる。よく駆られるが、実際に忘れていたことなどはなかった。
ダメだダメだ! 今日は楽しまないと!
せっかくだから、繁華街まで出てみることにした。
車窓からの風景も新鮮で、あっという間の到着。
プラットホームに降りると、昼間だというのに多くの人がいた。人混みに流される感覚には少し不安を覚えたけど、それよりも都会に戻ってきた興奮が勝って、不安はすぐに消えた。
改札を出ると、辺りは記憶とずいぶん違っていた。でも、犬のモニュメントだけは昔のままで、なんだかうれしかった。
記憶の風景に寂しさもあったけど、新しい煌びやかな街並みに入ると、なんだか生まれ変わるような気がして、久しぶりの都会はやっぱり楽しい。
そんな中、本当に偶然。ばったりと旧友に出くわした。
「うそ、絵理! 久しぶりー、元気ー」
自分が出した若い声に思わず赤面したけど、絵理は同じ温度で返してくれた。
絵理は高校時代の同級生で、いつも一緒だった一番の友達。
でも、お互い別の道に進んでからは、忙しくて会う事はなくなっていた。
おしゃれなカフェに入り、近況や思い出を話し合った。
絵理はカジュアルなスーツを着こなして、デキるキャリアウーマンって感じ。
でもぜんぜん飾らない笑顔が、昔のままだった。
日が暮れると、居酒屋巡りもした。
さらに高校時代の友達二人を呼び、四人ではしご酒。
最近は全く飲んでいなかったせいもあって、酔いは早かった。
深夜まで飲み歩きたかったけど、みんなも私も明日の仕事があった。
タクシーを呼び、みんなに別れを告げる。
ドアが閉まると、楽しかった世界の音が消え、言い知れぬ孤独を感じた。
そう言えば、今日はほとんど不安を感じなかった。
もしかしたら、私は楽しむという大事なことを忘れていたのかもしれない。
車内のラジオからは、高校時代、文化祭で絵理と一緒に踊ったアイドルの歌が流れていて、もう戻れない懐かしさが涙となって溢れる。
いつもの不安が湧き上がってくるのを感じた。
少しウトウトしていると「あのう、お客さん」と運転手さん。
タクシーは家から少し離れたところで止まっていた。
いつも派遣先から自転車で帰る道は、灯りも人も少ない。
でも今日は違った。
タクシーを降りると、臭いがした。
赤いランプが辺りを明滅し、人々のざわめきで夜とは思えないほどにぎやか。
途端に酔いが醒め、体が震え出す。
鍵、掛けたよね?
コンロ、消したよね?
でも、朝、タバコを吸って、窓を開けたら突風が入って灰皿がひっくり返った。灰皿は拾ってタバコもしっかり火を消したけど、畳に落ちた灰は、灰は……どうしたっけ? 大丈夫よね、でも、どうしよ、どうしよ……。
体中が心臓になったようにドキドキして、呼吸が、できない。
野次馬を押しのけて非常線に近づくと、同じアパートの、隣のおせっかいなおばさんがいて、私を見つけて近づいてきた。
その顔は、私に死を宣告する死神のよう。
雑踏のざわめき。おばさんが何かを言っている、でも怖くて耳に入らない。自分の魂だか何かが、空の方へ引っ張られていく感じがする。
そんな中、ある言葉が耳に入ってきた。
「……で本当によかったわねぇ」
よかった? 何がよかったの?
戻ってくる意識の中、私の脚に何かがしがみついている。
見ると、小さな人間が二人。
私の脚に顔をこすりつけ、泣いている。
二人はひどく汚れている。
どうやら怪我はしていない。
二人は靴も履かずに裸足だ。
早く抱き上げないと。
すると、後ろから声がして、肩をつかまれた。
「お客さん」
振り返ると、タクシーの運転手さんだった。
「ほら、忘れ物。大事なものでしょ」
「……はい、本当に」
わすれもの ナロミメエ @naromime
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