第5話 1887.12.25

「え…」


何処だ…ここ。


濃い灰色の霧。煤煙の臭いとドブの中に入った様な悪臭。うっすら開けた目に写ったのは、裸足で歩く女の子?


覚えのある様な無いような…似ているようで似てない光景。


うっ…頭がクラクラする。まるで、鈍器で殴られた時のような痛みが走る。瞼も重い。




寒い…指先の感覚がない。凍傷になって手首切断なんて堪ったものではない。


「…ヘンリー…助けて」


またも、視界が暗転し気絶した。








※※※※※※








「うっ…うわ」


亮輔は、今の状態に絶句する。


身体の節々が痛く、頭を上げようとすると、脳ミソを握り締められた感覚に襲われ、途端呻いてしまう。


服も濡れて気持ちが悪い。それに、海水の様な匂いはしないけどベトベトしている…また、何と言っても臭い。何とかベッドからゆっくり起き上がり、窓を見る。




「あれは…Old Bill…!?」


今で言う、スコットランドヤード。あの有名なロンドン警視庁だ。登頂部に銀色の突起と、同色のバッジが特徴的なロンドンボビーのヘルメット。それと、上下黒一色の礼装。


「映画でしか観たことないぜ」


興奮しながら外を覗き見る。今の時間帯だと、見回りかな。


なんて、どうせ映画の撮影だろう。それにしてもこんな夜中にわざわざ撮影なんかしなくてもCGで何とか出来ないのか。




そうだ、助けて貰ったんだからお礼言わないと。


「すいませーん…誰か居ますか?」




(あれ?…)


今更、気付いた…リュックと絵画が無い事に。もしかしたら、落ちた拍子で川に流れてしまったかもしれない。最悪だ…


「あぁ、君大丈夫だったかい?」


声のする方へ視線を移すと、燭台を持った男が立っていた。栗色の短髪に長身。とても綺麗な顔立ちの人だ。


…精悍では無く、柔和で色気のある感じって言うのかな。少しヘンリーに似ている。




「えぇ、助けて頂き有り難うございます」


「いいんだよ。浅瀬に投げ出されていたから死んでいるかと思ったんだが、目を覚まして安心したよ。それで、君はマッドラークなのかい?」


マッドラークとは、テムズ川で拾った物を売る少年達のことだ。でも、マッドラーク?この時代に?…今は、二十一世紀だぜ?




「…?マッドラーク……今時、そんなものは無いですよ。あっ…もしかしてあなた、俳優ですか」


「ん…私かい?…私は、芸人では無いよ?…何でそう思うんだい」


俳優じゃないのか。じゃあ、スタントマン?


いや、まさか…でも、もしかすると




「すみません。あの失礼ながら…今はいつで、此処は何処ですか?」


「…1887年12月25日、日曜日。此処は、イーストエンドロンドンだよ」


イーストエンド?…ホワイトチャペルマーダーとも言い“切り裂きザック”の…あの事件の場所じゃないか。それに、1887年の12月25 日って、コマーシャルロードで、フェアリー・フェイが殺される前日だ。正式には、1888年の8月31日から連続殺人事件が起こるが、このフェアリー・フェイも関連があるとの説もある。と言うことは、このロンドンにあの凶悪殺人鬼がいるってことじゃ…




と言うか、夢なのか?しかし、妙に現実的だ。


窓枠だって感触があるし…


俺は、試しに思い切り頬をつねって見る。


嘘、痛いぞ…


そんな…嘘だろ?




「もしかして、君…記憶を無くしたのか?」


「あ……う…わ、分かりません。でも、なんでそんな所にいたのか分からなくて…あの、何か僕の手荷物とかありませんでしたか」


「…あぁ、不思議な鞄があったよ。ちょっと待ってくれ」


そう言って奥の方からグショグショに濡れた鞄を手に持ってきた。




「どうぞ」


「あ…有り難う」


あった…


良かったぁ…ちゃんと、懐中時計が入ってる。




「君は、一体何処の子なんだい?身なりはいいし、此処じゃない東洋人の様な黄褐色の肌。その割には老人のみたいな白髪だ。その様子だと…本当の所どうなんだい」


しまったな…荷物を見て思わず安堵してしまった。それも、中まで確認して。記憶があると気付かれたかも。いや、絶対にそうだな。




「……………俺が、言ったことを誰にも話さないと約束出来ますか」


「あぁ、神に誓って。大丈夫…私は、こう見えて頑固な男だ」


それを、自分で言うかと口に出したら、笑われた。けれど、信用出来そうな男だ。もし、此処が俺の知らない世界か、夢でも目の前の男にしか助けて貰えないだろう。




かと言って、21世紀から来た流れ物とは言えない。そんな事を言えば、劣悪な精神病院にぶち込まれる。あの時代、精神障害を患った者への治療方法は最悪だった。監禁と殆ど変わらない囚人と言っても良いほど…


だから、ベトラムの王立病院には、絶対行きたくない。救貧院も駄目だ…不衛生だし逃げられない。




上手い嘘をつかないと…


思い出せ、19世紀頃何があった…?




そう言えば、日本からこの国に使節が来ていたはず。それに、この時計を使えば…




「俺は、日本から来たんだ。こっちの国の事を学ぶ為に、けれど此処に来てから病気がちで医者に診てもらっていたんだ…定期的にね。それで、医者が処方してくれた新薬を試したら、健康な状態に戻った。だけど、副作用で髪が白くなってしまった…これは、一定的なもので徐々に直ると医者は言っていたよ。見てくれ…睫毛が黒いだろ?これが元の色なんだ」


「確かに…頭のつむじ辺りも髪が黒いし、睫毛も」


「うん…それで、お礼を言いに来たんだけど…それでこんなことに」


「しかし、何で隠す必要があるんだ」


「…これだよ」


彼に、懐中時計を差し出す。




「苺の葉…もしかして、貴族の養子なのか…」


「そう…辺境で本当に田舎の方なんだけれど…これを持っていれば安全で、助けてくれた医師にも会えると思って」


「そうか…君の名前は?」


「本名は、リョウスケ・クラタ。今は…ノエル。あなたは?」


「私は、フレデリック。エジプシャン・ホールに用があって、暫く滞在している。ニューイングラッシュアートの会員なんだ。普段は、パリの方で絵の講師をしている…まぁ、と言っても君には分からないか」


知っている。RAの対抗組織だ。確か、ウェルター・シッカートがいた芸術家連盟だ。美術界からは、あまり良く思われていないけど、彼もジャック・ザ・リッパーの被疑者候補だ。




「知っています。去年開催された展覧会ですよね。美術には少し心得があるんです」


「ほう!そうなのか!私は、良いものを拾ったな…それに、日本人!是非とも、“ホクサイ”の事を教えてはくれないか。あの独特な画法について色々と知りたい」


興奮気味に前のめりで亮輔に訊ねた。




「…はは、良いですよ…うっ………気持ち悪ぃ」


川の水を飲んだ…そう、テムズ川の工場汚染や生活用水で汚れたものを。


ふっと、溜息をついた途端、吐瀉物を撒き散らしてしまった。


夢に見た舞台で、この有り様は…


何の皮肉だよ。




ヘンリー…間違いなくあの絵画は呪われていたよ。忠告を聴かなくてごめんなさい…




後悔後に立たず…そんな言葉を作った誰かを酷く恨む亮輔だった。


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