傘を差し出す人よ

ねみぃ

傘を差し出す人よ

 今日は朝から雨だ。

 水浸しの街を、ビニール傘片手に彷徨う。


 風も無いはずなのに、いつの間にか肩やズボンの裾は濡れていた。

 傘をさすのが億劫になるほどの弱い雨。

 しかし傘をささなければ、そのうちずぶ濡れになりそうなほどの雨。


 雨がコンクリートに跳ねる音と、僕が水浸しの街を歩く音。

 タイヤが水溜まりを巻き込みながら回る音。

 その他、この狭い街で騒めくすべての音が合わさって、やがてそれはもいるはずのない誰かの足音のように聞こえた。


 誰かが後ろをついてくる。一定の間隔を保って背後にいる。

 そんな奇妙な感覚に襲われる。


 知らない誰かかもしれないし、知っている誰かかもしれない。

 知っている誰かならきっと、半年前に事故で死んだ幼馴染だろう。


 幼馴染、と呼んで良いのか考えるほど仲が良かったわけではない。

 家は向かいだったが、顔を合わせても喋ることはほとんどなかった。

 嫌いだったわけじゃなくて、なんとなくタイミングが掴めなかった。

 なにを話せば良いのかも分からなかった。

 昔からそうだったのだから、当然学年が上がっても話せるわけがない。


 だから葬式会場で、初めて笑顔を向けられたような気がした。

 その遺影がいつのものなのか分からないほど、僕は彼女と話せなかった。


 ただ彼女のピアノの音は週末かすかに聞こえてきて、

 それが僕の知っている曲だと、なんとなく手を止めてぼんやり聴いた。

 今はもう、ピアノを弾く人は誰も居ない。


 彼女の席には花が置かれた。

 彼女の死んだ場所には花束が置かれた。

 彼女の家の仏壇にはあの遺影が置かれている。


 ―――彼女はどこにいるのだろう。

 

 彼女のピアノの前に、席に、事故現場に、仏壇に、

 今僕の思い当たるすべてのところにいるのだろうか。


 それとも

 今背後にいるのが、彼女なのだろうか。


 足は自然と、彼女の事故現場へと向かっていた。

 ここは昔から見通しが悪く、彼女が死んだことが決め手となって歩車分離式の信号へと変わり、新しくガードレールも設置された。


 この世はすべて、なにもかも手遅れになってから作られる。

 本当にこれが必要だった彼女は、もうどこにもいないのに。

 

 足元の花は雨に打たれ、しおれている。

 ここに供えられた花の数は日を追うごとに減っていく。

 永遠に残り続けられるものは、存在しない。


 僕はしゃがんで、靴底の形に泥の付いた花束を掬い、雨で洗った。

 悼む気持ちを文字通り踏みにじった輩のことを考えると、自然と下唇を噛みしめていた。


 彼女じゃなくて、お前のような奴が死ねば良かったのに。


 くいっと、後ろからシャツの裾を引かれた気がして、僕の喉がひゅっと鳴った。

 短く息を吐いて振り返ると、ガードレールの端が引っかかっているだけだった。

 それはまだ出来て新しい、彼女のガードレールだ。


 遠い昔が甦る、

 いつかの雨の日、

 昇降口で立ち尽くす僕の裾を引いたのは、

 傘を差しだし微笑んでくれたのは・・・・・・


 頭に登っていた血は、急速に冷えていった。

 ビニール傘は手からすべり落ちて足元に転がった。


 泥まみれの花束を抱えたまま、肩が大きく上下するほどの嗚咽をこらえながら雨の中にうずくまる。

 涙は出ない。

 それでも、唇を噛みしめ、息を吸うことも吐くこともできないほどの衝動が、僕の中で渦巻いた。


 僕の背後には誰もいない。


「結衣ちゃん」


 彼女は僕のことをなんと呼んでくれてたか。

 それはもう、霧のように霞んで思い出せない。


 人は何故、当たり前ではない日々を当たり前だと思い込んでしまうのだろう。

 会う機会は、話す機会は、あんなにあったはずなのに。


 どうして君が死んだ今、こんなに会いたいと思うのだろうか。


 雨は止みそうもない。

 水浸しの街でふたりきり。

 いつまでもいつまでも、遺影の笑顔だけが鮮明に浮かんでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

傘を差し出す人よ ねみぃ @nemui1018

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ