22. いつか伯剌西爾に。
午後のセミナーでは、外国で行われている最新の研究についてがテーマとして扱われた。
昔は先進国と言われたニッポンはいまチュウゴクに追い抜かされ、その他の国々からも遅れを取っているという厳しい状況にある。
他国の研究は着眼点が面白いものばかりで、とても興味深い話だった。
ヒカルは日常会話レベルのエイゴに加え、アロマに関する専門用語も一通り覚えている。
他の言語はさっぱりだが、エイゴが出来ればどこへ行ってもある程度は勉強ができるはずだ。
最近彼は海外留学とまではいかなくとも、海外での研究に参加してみようかと悩んでいた。
さらなるセラピストとしてのスキルアップには海外渡航は効果的だとヒカルは考えている。
このセミナーを通じ、ヒカルは海外への憧れが尚更強くなった。
セミナーが終わり例に漏れず居眠りをしていたミカゲに怒っていると、伯剌西爾人の講師が彼に真っ直ぐ近付いて来た。手を差し出し、なにやら伯剌西爾の言葉で話している。何を言っているかはわからないが、とりあえず握手に応じる。
慌てて後ろから付いて来た通訳が、それを日本語に訳して伝えたところによると、『いつか伯剌西爾に来て欲しい』とのことだった。
「な、なぜ僕なんでしょうか?」
有名な彼からの突然の誘いに戸惑う。
彼は微笑んで、
『貴方が珍しいセラピストだということは聞いています。君の嗅覚が研究に必要なのです』
と話した。
世界中を探しても祖父母にセラピストを持つセラピストはほとんど見つからない。さらに特殊な能力を持たないヒカルは特に珍しい存在である。
ヒカル自身、珍しいセラピストであることは自覚していたが、まさか地球の裏側の国のセラピストにまで認知されているとは思っていなかった。
ちょうど海外に行こうと考えていたことを述べ、互いに名刺がわりに自分の香りが入った小瓶を渡す。
海外への連絡の際用いられる、ワシを飛ばすための小瓶だ。
なるべく早く時間を作って行きます、と返事をし、ヒカルは彼と別れた。
彼と研究が出来るとは、あまりに魅力的すぎる話だった。
ホテルに帰り、ヒカルはすぐに風呂に入る。
着慣れないスーツはいつも以上に汗をかかせる。
その汗が流れていく風呂の時間は、夏が嫌いなヒカルが唯一好きな夏のひとときだった。
エアコンで冷やした部屋でバスローブを着て冷たい茶を飲み、その間、この1日で起きた出来事を思い返して日記をつけた。
初めて訪れるオオサカの雰囲気、昼に聞いた涙の話、ミカゲと話した歴史、講師からの伯剌西爾行きの誘い……同じ1日と思えぬほど、ぎゅっと詰まった日だったなあと振り返る。
思考しすぎた彼の脳はもう疲れ果てていた。
ヒカルは持参したパジャマに着替え、枕元の照明だけを残して他は消す。
なんだかんだ言って好きなローズの香りに導かれてか、すぐに眠りにつく。
家で使っているものよりも分厚い掛け布団が幸福感をより増した。
モモちゃんは何度もヒカルの上を走っていたが、彼は起きなかった。
ヒカルはまた、ドアの音に起こされた。
何度そのがんがんという音が鳴っても彼はまったく起きなかったが、さすがに1分間続いた頃に目を覚ます。
ミカゲか、と思ったが真夜中にホテルに入ってくるとは考えられないし、モモちゃんか、と思ったが部屋の中にいた。
なんだか嫌な予感がする。
ドアを開けると目の前にはなにもなく、目線を下にゆっくりと移していくと黒毛のモモンガが上目遣いでヒカルを見ていた。
「マコトのモモンガ……?」
クリニックとして飼っているモモちゃんはここにいる。マコト個人からの連絡か、それともモモちゃんがいない代わりのクリニックからの緊急連絡か。
手紙には走り書きされた文字が並んでいた。
『タクミくんが、母親に暴力を振るわれた。俺はオオサカまで車で迎えにいく。駐車場で待ってろ』
ヒカルの頭は真っ白になる。
ばたばたとトランクに荷物をまとめ、手持ちのバッグにモモちゃんとマコトのモモンガを入れた。そしてベッドや机の角に腰や脚をぶつけながら、走って部屋を出た。
廊下は耳鳴りがするほど静かで、今真夜中であることにはっとする。
走る足を止めてすり足でエレベーターまで進んだが、ヒカルのいる階まで来るのに大分時間がかかった。
チッと彼にしては珍しく舌打ちをして階段を駆け下りていく。最後の段で足を滑らせ、尻をひどく打つ。
しかし彼は止まらずにフロントへ駆け込み、そこにぼうっと立っていた支配人の男に断片的な事情を説明した。
まったく理解出来ておらず、「落ち着いてください」と繰り返す支配人に苛立ち、金をどんと適当に置いて制止する彼を無視してホテルを飛び出した。
ホテルの前にはマコトの見慣れた水色の車が停まっていた。
ヒカルは後部座席に荷物を載せ、自分は助手席に座る。
「行くぞ」
マコトは低い声でそう言って、ホテルから出た。
このときヒカルは過呼吸になりかけ、ヒューヒューと変な呼吸音がしていた。
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