10. 初めて嗅ぐ匂い。

 2人も車を降りて後について行く。

 ヒサシのダージリンティーの香りは、彼の白髪と、今日着ている茶色のチェック柄のベストに似合う上品な香りだなとマコトは思った。

 全面ガラス張りで自然光だけで植物を育てているこの植物園はとても暑かったが、ヒカルはそれよりも熱された熱い空気とともに沸き上がっているような強い匂いのほうが不快だった。

ひとつひとつは良い匂いの植物が多いが、混ざった匂いは元の匂いとはまったく違う。


「ヒカルはここの匂いがだめだったかな?」


 ヒサシはベストの胸ポケットに挟んであったハンカチを、近くにあったミントの葉に当てた。

そしてそのハンカチをヒカルに渡す。

 ハンカチは少し湿っていて、そこからふわりとミントの爽やかな香りが漂っていた。

 それを鼻のあたりにそっと近付けて香りを嗅ぐと、たちまち胸の中にどろどろと溜まっていたような不快感が消える。

 鼻の下をハンカチで擦ると、そこにミントの香りがする液体が残った。


「これが先生の、触れたものの香りを液体として抽出できる能力……」


 ハンカチを横から少し触りながらマコトが言った。

知ってはいたものの、実際に使っているところは初めて見たのだ。

ヒサシは「便利でしょう」と得意げな顔を見せた。

 真っ直ぐ、100メートルはあろうかという道を歩いていく。

綺麗な花や、見たことのない葉が道の両端に整然と生っている。

支柱に伝うツルやひとつの花がのびのびと咲けるように植えられた植物の様子から、ヒサシが丁寧に手入れをしていることがよくわかる。

 1番奥に来たとき、ヒサシは足を止めた。


「見せたかったのは、これだよ」


 そこには、1本の太陽の光が特に降り注いでいるように見えた。

その太陽の下できらきらと光っていたのは……


「青い、バラ?」


 2人同時に言った。

 そのバラは澄んだ海の奥深くのような青色で、少し前に与えられた水が花びらの上で輝いていた。

 一般的なバラの香りに加え、爽やかな香りがかすかに含まれた初めて嗅ぐ匂い。


「ずっと試行錯誤してたんだけど、やっと咲かせられたから2人に見せたかったんだ」

「どういう症状に効く薬? まだ研究段階?」

「今のところ、がんに効くかもしれないと言われてる」


 癌に効果のある香りはまだ見つかっていない。

現在、新たな植物を開発する栽培家やセラピストらが最も力を入れて研究している分野であると言っても良く、もしそれが本当なら、この植物の開発は世紀の大発見ともいえることだ。

 ヒサシはそのバラから香りを抽出し、小さな瓶に入れた。

コルクで栓をしたそれを、ヒカルに渡す。


「そっちのクリニックでも使ってやってくれ。それと……」


 ヒサシはマコトのほうをちらりと見て、微笑んだ。


「申し訳ないが、ヒカルを借りるよ。香りを確かめて欲しいものがあるんだ」

「わかりました、車で待っています」


 マコトは、香りを確かめて欲しいもの、が実際にあるかどうか疑問に思った。

言葉の初めのほうだけが本当に彼の言いたかったことなのではないかと思ったのだ。

しかしなにも問わずに植物園から出て行った。

 ヒカルたちも少し引き返して、赤いバラのところに来た。


「この匂いはあの青いバラとは違うか?」

「うん、青い方が少し爽やかな香りだよ……じいちゃん?」


 ヒサシはヒカルの答えを聞いていなかった。

なにかを俯いてじっと考えているようで、ヒカルに見られていることに長い間気付かなかった。

 顔を上げてヒカルを真っ直ぐ見て、


「何か悩んでないか? 何か言われたとか」


 とヒサシは尋ねた。

下がった眉が心配そうな様子を表している。

 ヒカルは苦笑して、とある会議で能力のことを言われたと話した。


「慣れてるし、気にしてないから平気!」

「それならいいが」


 どうせそんなことを言っているのは杉本すぎもととか佐藤さとうとかだろう、と中学時代の同級生の名前をつぶやいたが、あまりに的確でヒカルは何も言えなかった。


 ヒサシに別れを告げ、マコトが運転する車が発進する。

もう陽は傾いていて、帰宅するころには月が綺麗に見える時間になるはずだ。

 ヒカルの頭の中には青いバラのことなど一切なく、帰り際に投げかけた質問に対するヒサシの答えが響き続けていた。


「じいちゃんは、セラピストに生まれて幸せ?」


 これはマコトに聞かれてから引っ掛かっていたことだった。

セラピストの大先輩である彼の意見を聞いてみたくなった。

 突然の質問に驚いたようだったが、あまり悩まずに答えた。

すでにその答えは彼の中で出し終わっていたのだ。


「幸せだよ。うん、幸せ」

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