9. ようこそ。

 翌日ヒカルが目覚めたとき、なにかがジュージューと弾けるような音が鼓膜を揺らし、食欲をそそられる香りが部屋中に漂っていた。

いつもと違う天井をぼんやり見つめているうちに、今自分がマコトの家にいることを思い出す。

 そして自分が頭を預けている枕からマコトのローズの香りがとても強くしていることに気が付くと同時に、目覚めの良さに驚いた。

 ヒカルはマコトのベッドで寝ていた。

近くにある黒い革張りのソファにふわふわしたブランケットが置いてあるのでマコトがそこで一夜を明かしたことはすぐにわかる。

 しかしどうしてその位置になったのか、その経緯がまったく思い出せなかった。

思い出そうとすると頭がぐるぐると絡んだように動かなくなる。

 マコトのベッド、適度な反発とフィット感があって良いなあ。

たぶん高級ベッドなんだろうなあ。

 そう思いながらとりあえず起き上がって音と香りがする方へ行くと、そこにはベーコンを焼くマコトがいた。

朝だからかいつもはコンタクトを着けている彼が黒縁の眼鏡を掛けている。

 ヒカルと目が合うと、微笑んでベーコンを指差した。


「おはよう。朝はベーコンと卵を乗せたトーストでいい?」


 ヒカルは「うん」と頷いて、おずおずとなぜ自分がベッドに寝ていたのかを尋ねた。


「お前飲みすぎたんだよ、風呂出てきたらもう真っ赤だしまともに歩けてなかった。酔っ払いはベッドに寝かせてあげたいだろ」


 だからベッドで寝ていた経緯を思い出せなかったのか、と合点した。

 ベッドで寝かせてもらい、朝には食事を作ってもらい、挙句これからマコトの運転でヒサシの元へ送ってもらう。

ヒカルは自分の不甲斐なさを感じずにはいられず、頭を垂れた。


「ありがとう、何から何まで……」

「いいから出掛ける準備して来い、その髪とか」


 たしかにヒカルの癖っ毛はいつもよりもひどく絡まって彼の頭は綿毛のようになっていた。

 洗面所で顔を洗い、髪をかしたり、髭を剃ったりしているうちに、洗面所にまでベーコンやトーストの匂いが漂ってきた。

ちょうど着替えが終わり、支度が整ったときにマコトの「ご飯!」という声がした。

返事をする前に腹の音が返事の代わりをして、ヒカルはすぐにリビングに戻る。


 朝食が済み、2人は家を出た。

エンジンの音とともに、ここから1時間くらいの場所にあるヒサシの植物園へと出発する。

 やはり“先生”であるヒサシに会うからか、マコトは青いシャツに夏用の薄手で七分袖のブラウンのセットアップという少々堅めの服装をしていた。

 それに対しヒカルは半袖の白いTシャツに黒いスキニージーンズというラフな格好である。

首にはリングがひとつついたネックレスまでかけてある。

その格好を見てマコトは、本当にヒカルはあの著名なセラピストの孫なのだと実感していた。

 車内にはマコトが好きな、洒落たジャズ調の音楽がかけられていた。

ヒカルはあまり音楽には詳しくないが、マコトの選ぶ曲はどれも好きだった。

 2人が昨夜の議論をもう一度することはなかった。

その代わり、ヒカルの父の話をしていた。


「父さんはじいちゃんの息子ってだけでセラピストだろうって勝手に期待されてた。それで違うって分かった途端、妙に会いに来ていた客人たちがぱたりと来なくなったらしいんだ。それで父さんはセラピストって言葉に良いイメージがないんだろうね、自分はその言葉のせいで辛い思いをしたんだから」

「セラピストに生まれつくかどうかなんて運でしかないのにな」


 ほんとだよね、と言いながらヒカルは鼻をひくひくさせた。


「そろそろ植物園だ。匂いがする」


 マコトは自分も匂いに集中してみたが、やはり何も感じ取れなかった。


「この国唯一の2親等以内にセラピストを持つセラピスト……か」


 それはヒカルのことだった。

少なくともこのニッポンでは彼だけ、らしい。

確率的にもそうそう生まれるものではない。


「はは、そのせいかこの国唯一の能力なしになっちゃったけど」

「でもお前の嗅覚は鋭すぎる、それが能力って言っても良いんじゃないか?」

「まあそうなんだけど、ね。ははは」


 マコトはなんだかきまりの悪い返事に引っ掛かった。

以前ヒカルが面と向かって、一部のセラピスト……主に高齢で地位の高い人物らに特殊能力がないことを揶揄やゆされたと聞く。

これは彼本人ではなくセラピスト仲間から伝え聞いた噂話であったが、あながち否定はできない。

マコトは実際にヒカルの異端さを良く思っていない一派がいることは知っていた。

 そのことについてまず真偽を問おうとしたのだが、今度はマコトにもわかるくらい植物の香りが強くなり、あっという間に到着してしまった。

 彼らが車から降りるより先にヒサシは植物園の前で待っていた。

ヒサシは車にゆっくりと近寄ると、


「2人の匂いが懐かしいよ。ようこそ」


 としわがれた声で言って、植物園の中へ進んでいった。

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