第47話 異変
グルモア。
それは大陸北部に広大な領土を持つ大国の名である。
その国の国王が今、狂気に飲み込まれようとしていた。
「へ、陛下!どうかお気を確かに!」
「黙れ!」
黒衣のローブを身に纏った男が、手にした剣で、目の前に立つ禿げあがった男を袈裟切りにする。
男の体は真っ二つに切り裂かれ、声を上げる間もなく絶命してしまう。
その光景を目の当たりにし、周囲に居たメイド達が小さく悲鳴を漏らす。
中には尻もちを搗き、床を濡らす物迄いた。
「キュレル!キュレルは何処だ!」
黒衣を纏った男は、狂った様にキュレルという名を叫ぶ。
彼の名はラグズ・グルモア。
北の大国であるグルモア王国の王であった。
「何処だ……何処にいるんだ……」
狂った様に名を叫び続けていたラグズであったが、やがて落ち着いて来たのかその場に膝を付き、強く握りしめた拳と頭を床につけて
その姿は、まるで泣きじゃ来る小さな子供の様に見えた。
「何をしておる!早く陛下にお薬を!」
部屋の隅で固まっていた恰幅の良い老人が、ヒステリックに叫ぶ。
だが目の前で人を切り殺した王に近づこうとする者はいない。
周りのメイド達は只々怯えるばかりだ。
この場には兵士もいるが、そもそも彼らは薬の在り処を知らない為、動く事が出来なかった。
「誰か早くせぬか!褒美は幾らでもくれてやる!」
老人の報酬という言葉に、一人のメイドが動いた。
命は惜しいが、褒美は欲しい。
それを天秤にかけた結果、彼女は褒美を選んだのだ。
それは王の様子が先程までよりましになっているからこその、賭けだった。
そして彼女はその賭けに勝利する。
王は震えるメイドが持って来た薬を受け取り、コップに入った水で胃の中に流し込んだ。
やがて荒い息は治まり、苦悩の表情で彼は立ち上がる。
「すまない……ヤグン」
王のその眼には、今しがた自分が殺してしまった配下の姿が映る。
ラグズは膝を付き、羽織ったマントが血で汚れるのも気にせず、自らが手に駆けた男に対して首を垂れた。
先程の凶行は彼の本意ではなかったのだろう。
「皆も、すまなかった」
立ち上がり、今度は周囲の者にも頭を下げた。
絶大な権力を持つ大国の王が、配下に頭を下げる事など本来ならば有り得ない事だが、事が事だ。
ラグズ王は自分の失態を配下に素直に
「その様な事、どうかお気になさらずに。ヤグンもきっとわかってくれるはずです」
壁に張り付いていた老人は、王が正気を取り戻したと判断してすぐさま駆け寄る。
そして兵士達に死体を片付ける様、指示を下した。
「ゲジュよ。私にはもう……政務が務まりそうもない」
「何をおっしゃいます!この国にを治められるのは陛下しかおられません!どうかお気を確かに!」
その弱気な発言に、ゲジュと呼ばれた老人は王を叱咤激励する。
部下を発作で切り殺す。
そんな状態で国王など務まる筈も無い。
本来ならば退位して、別の王を立てるべきだろう。
だがラグズには子が居なかった。
正確には世継ぎとなる子ではあるが。
この国では、基本的に直系の子孫にしか王位継承権がなかった。
不慮の事故や病気で王が亡くなった際、直系の継承者が存在しなかった場合のみはその限りではないが、それはあくまでも王が亡くなった時の保険でしかない。
精神疾患を患っているとはいえ王が健在である以上、継承者のいない現時点で誰かに王位を引き渡す事は、残念ながら出来なかった。
「そうだな……私とした事が、弱気になってしまった。すまない」
「私目らも精一杯サポートいたしますので!」
怯えて壁に張り付き騒いでいた男の言葉ではあるが、その言葉にラグズは「頼む」と返した。
頼もしいとは言い難い相手であっても、精神的に弱っている彼にとっては、それでも有難い存在だったからだ。
「薬の量を増やし、神官によるヒーリングの回数を増やす手筈を頼む。それとヤグンの手厚い埋葬と、遺族に対する保証も十分な物を用意してやってくれ」
本来ならば、ラグズ自ら遺族に頭を下げに行きたい所だっただろう。
だが王と言う立場である以上、それは許されなかった。
この場にいる傍仕えの者達が相手ならまだしも、その遺族の前で一国の王が頭を下げる事は、権威の失墜に繋がりかねない。
手厚い埋葬と保証。
それが、彼が手にかけてしまった配下に対する精一杯の行動だった。
「畏まりました。神官に関しては常に陛下の御側に控える様、神殿に要請しておきます」
「ああ、その様にしてくれ」
精神的な不安はあっても、自分は王としてやっていかなければならない。
その重荷が彼を更に追い詰めていく。
やがてラグズの心が壊れ。
それがグルモアや周辺の国に、大きな影を落とす事を彼はまだしらない。
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