私の夫が結婚してから冷たくなりまして

@huten

第1話

 


 私は結婚一年目にして、ひどく悩んでいました。

 それというのも、私の愛すべき夫が、結婚を境によそよそしくなったのです。

 

 最初は、生活が一新したのだし仕方ないと思っていました。彼は今まで一人暮らしで、お金も時間も自分の好きなように使えていたのですから、不満を持っても無理はありません。

 私も彼を束縛したいなどとは微塵も考えていませんし、出来るだけ自由に気楽に過ごしてほしいと思っています。

 

 ですが夫婦間で会話が無いというのは、この上なく寂しいものです。

 共働きで、しかも夫の仕事は忙しく残業が多いため、一緒に家に居られる時間が限られてしまいます。共に過ごす時間の長さは繋がりの濃さと同義。転じて、すれ違いが多いほど心の繋がりも薄くなると言えるのではないでしょうか。

 けれど、数少ない会話の中で迂遠かつ慎重にそのことを口にしてみても「そうかな」と一言返ってきただけでした。私と違い、夫は寂しいと思ってくれてはいないのでしょうか。

 私は不安に駆られました。

 

 夫と出会ったのは、お見合いの席でした。

 奥手だった私と女気のない彼を見るに見かねた互いの両親が、私たちを引き逢わせたのです。

 彼の第一印象は、誠実な人、でした。所作の一つ一つが丁寧で、口調にも聞いていて心地よい品がありました。それなのに手を見ると無骨な太い指をしており、聞けば学生時代は空手に明け暮れていたと言います。

 私は男らしい手と、優雅な振る舞いのギャップに、みごと心を奪われてしまいました。大和男児とは彼のような人のことを指すのでしょう。

 その後は、私が積極的に押したこともあり、数回会ってすぐに婚約に漕ぎ着け、私たちは式を挙げました。

 夫の希望で、近しい親族のみの小さな神前式でしたが、この上なく幸せに感じたことを今でも昨日のことのように思い出せます。お酒が入って赤ら顔で微笑む彼を見ながら、私はこの人と添い遂げるのだな、と心に刻んだものです。

 それから早くも数ヶ月、私は「これが新婚生活なのかしら」と疑問を抱くようになってしまいました。

 

 夫は無口です。

 さらに無表情です。

 元々あまり感情を表に出す人ではありませんでしたが、一緒に暮らすようになると、それが顕著になったようでした。無骨な所を男らしく思い慕っていたはずなのですが、いざ結婚してみるとそれが不安の種になっていることに気付きました。

 日頃の挨拶は交わしてくれるし、私を無視するなようなこともありません。私が「手伝って」と言えば文句も言わず家事をしてくれますし、休みの日には率先して料理も作ってくれます。悔しいことに、夫の方が煮物に熟達していたりします。

 ただ、夫から喋りかけてくれることは少なく、時たま倦怠期という言葉が頭を過ります。結婚して日も浅いのに、いったい何に気怠さを覚えるというのでしょう。少なくとも私は、夫を側に感じると未だに胸が高鳴るのですけど。

 そもそも夫は、私を見てくれているのでしょうか。ひょっとしたら私などに興味が無いのかもしれません。亭主関白な他所の主人の話を聞くと、家事手伝いに文句を言われないことが逆に恐ろしく感じてしまうのです。

 思い返してみると、夫から直接「愛している」と言われたことが無いではありませんか。

 一大事です。

 愛のない結婚生活に何の意味がありましょう。それはまさに、夫婦関係の破綻です。

 

 私は夫を愛しています。不満程度で揺らぐような愛ではありません。日頃作るお弁当にも愛情を注いでいます。だからこその愛妻弁当です。

 しかしそれが一方通行だというなら、虚しく感じてしまうものです。

 愛、愛、愛。

 考え出すとキリがなく、思考が堂々巡りの果てに隘路あいろに陥り、頭がクラクラしてきます。愛とはなんぞや。

 新婚生活とはもっと、甘々なものであるべきではないのでしょうか。もっとこう、美しいものだけに満ちた春麗かなお花畑のような生活を、夢に見てしまうのです。

 堂々と「私は幸せです」と言いたいものです。

 

 

 

 

 冬の寒さが一層厳しくなってきた頃のことです。街には寒気団が到来したとニュースでやっていました。

 私の心にも寂しさという名の冷気が染み込んでくるようで、ついに私は音を上げて、長い付き合いの親友に相談に乗ってもらうことに踏み切ったのです。

 

 ファミレスの隅っこの席で友人と対面し、私は夫との関係を打ち明けました。

 切羽詰まった私とは反対に、友人はのんびりした様子で、注文したステーキを切り分けています。

 

「良い旦那さんじゃない。家事もやってくれるし嫌味も言わないんでしょ」

 

「そうだけど」

 

 私が口ごもると「困ったちゃんだねえ」と呆れられてしまいます。

 

「まあ、アタシも女だし、気持ちは分からんでもないけど」

 

「あなたが女……?」

 

「しばくぞコラ」

 

 友人が冗談で折り畳み傘を振り上げたので、私は頭を守るようにメニュー表を掲げます。

 再び腰を据えた友人は「なんだ余裕あるじゃん」とステーキを大きく頬張りました。

 

「ううん。困ってるのは本当なの。ねえ、どうしたら良いかな」

 

「さあねえ、アタシは結婚してないし何とも言えないけど。あんたは旦那が休みの日、何してるか知ってるの」

 

「知ってる、ような、知らないような」

 

 私が自信なく答えると、紙ナプキンで口元の油を拭き取り、友人は続けてこう言いました。

 

「浮気ってことはないよね」

 

「まさか!」

 

 私は思わず叫んで、机をバンっと叩きました。

 

「あの人は真面目な人よ。絶対にそんなこと、あるわけ無い」

 

「悪い悪い、もしもの話」

 

 友人は私の剣幕に顎を引きながら苦笑してみせます。

 冗談じゃありません。浮気だなんて、とんでもない。

 けど仮に、億や兆の確率でそうなったら、私はどうすればいいのでしょう。世間では真面目な人ほど軟派な誘惑に弱いと聞くこともあります。人の業は図り知れません。

 嫌な想像ばかりが働き戦々恐々とする私の前で、友人はしばらく、腕を組んでウンウンと唸っています。彼女が真面目に考えている時の癖です。

 ドリンクバーの温かいポタージュを飲みながらソワソワとして答えを待っていると、ようやく友人は口を開きました。

 

「そんだけ不安ならさ、監視しちゃえば良いんじゃない」

 

 監視。穏やかな言葉ではありません。

 詳しく聞くに、友人の意見はこうでした。

 

「旦那さんの内面が分からないのが不安なんでしょ。だったら普段、あんたがいない時に何をしているのか見るのが手っ取り早いって」

 

「それは……どうかなあ。さすがに悪いよ。プライバシーの侵害とか、個人情報保護とか」

 

 かつて学校で習ったよく知りもしない知識をうだうだと垂れ流す私に、友人が「まあまあ」と宥めてきます。

 

「別に、監視カメラを仕掛けろ、とか言ってるわけじゃないよ。例えば寝ているフリをして様子をうかがってみたりさ。それからあんた、旦那さんの会社の社宅住まいでしょ。同僚の人に旦那さんが仕事や飲み会でどんな風か聞くと良いよ」

 

「なるほど」

 

「まずは相手の些細な所をよく観察したら、また違うものが見えてくるかもよ」

 

 淡々と説明されると妙案に聞こえてきます。大がかりな仕掛けが要らないのは、罪悪感にも財布的にも優しく助かりますし。

 私は悩んだ末、友人の策を決行することにしました。持つべきものは頼れる親友です。

 

 そう思った矢先に、相談のお礼と称して彼女の分の代金も支払わされたことが何処か不服でした。

 

 

 

 

 家に帰っても、夫はまだいません。今日も残業で遅くなるようです。昼間に届いた簡素な文のメールには「夕飯も風呂も先に済ませて寝ておくように」という主旨のことが書かれていました。

 

 一人でちゃんとした食事をしても寂しさが募るので、私は夫の言いつけを破って待つことにしました。

 作り置きが何品かあるので、おかずはメインになる肉じゃがだけ作り、大根の味噌汁を用意し、米を夫が帰ってくるであろう時間に炊けるよう予約します。たぶん夜の十時くらい。

 こうしたことは日常茶飯事です。

 夫は「気にするな」と言いますが、私がしたいからしているのです。夫は倹約家の側面があり、一人で外食をして来ません。お腹を空かして帰ってきて、冷えたご飯しかないのは可哀想ではありませんか。

 あまりに帰りが遅いと待ち切れず寝てしまうこともありますが、夫婦揃って食事をすることは、円満な家庭に不可欠であるに違いないと思うのです。

 問題としては、やはりお腹が空くので、ついつい間食をしてしまうことでしょう。ダイエットには優しくありません。

 

 風呂も済ませ、居間のソファーで待ち続けていましたが、夫が帰ってくる気配は一向にありません。十時頃に携帯が鳴り、またメールで「零時過ぎに帰る」と知らされました。あと二時間。

 待たねば、待たねば。

 ウトウトしてきても根性で瞼を開けていましたが、やがて私の克己心はポッキリ折れて、いつの間にか意識を落としてしまったのでした。

 

 

 遠くの方から物音が聞こえてきて、私は目を開きました。寝惚けた頭が覚めてくると、私は自分が寝てしまっていたことを知りました。

 玄関が閉まり鍵がかかる音が鳴ります。夫が帰ってきたのです。

 ヒタヒタと廊下を歩く気配があり、居間の引き戸が開きました。

 私は反射的に起きようとしましたが、親友から賜った策を思い出し、ソファーの上で寝たフリをしました。気付かれないか心配です。高校時代は演劇部だったので、それなりに自信はあるのですが。

 薄目で確認すると、夫は居間に入ったまま私を見ています。ソファーで寝こけている私のだらしない姿を見て何を思っているのでしょう。

 夫はこちらに歩み寄り、私の肩を揺すりました。

 

「おい、こんなところで寝るんじゃない」

 

 夫の声に、目を固く瞑ります。

 いつもなら起きるところですが、すでに目が覚めている私は寝たフリを続けます。やけにワクワクしてしまうのは、今まで堅実な妻を目指してきた反動でしょうか。

 すると夫は諦めたのか、私から離れます。そして机の上から照明のリモコンを取り、灯りを一番ほの暗く設定しました。

 何故そのようなことをするのか、一瞬分かりませんでしたが、夫はどうやら寝ている私に気を使ったみたいです。明るいと寝辛いし、真っ暗だと起きた時に困りますものね。

 

 作戦を実行してから早くも気遣われた嬉しさに心のなかで悶えていると、夫は寝室の方に去って行きました。密着して監視したいところですが、起きていることがバレてはいけません。きっと着替えにでも行ったのでしょう。

 ドキドキしながら待っていると、私の身体に何かがフワリと触れました。

 私が声を抑えることができたのは奇跡的でした。肩も跳ねそうになりましたが、何とか堪えました。

 手触りを確認すると、それは毛布でした。

 たまに私がこうしてソファーで寝てしまうと、起きたときに毛布が掛けられていことがあります。夏場だと薄いブランケットになりますが、この辺りの夫の気配りには、いつもじんわりと心が温まります。私の寝相が悪く、せっかくの毛布が床に落ちていることも、よくあるのですが。

 しかし夫は、毛布を掛けてくれただけではありませんでした。

 私の肩にそっと、毛布の端を持ってきてくれたのです。私を起こさぬように、そっと。

 その優しい手つきは、お見合いで一目惚れした彼の所作そのものでした。

 遅くまで仕事をしてきて疲れているでしょうに、休日だった私にここまで優しくしてくれるなんて。

 感極まり、少しでも気を緩めると、ニヤニヤと頬が緩んでしまいそうでした。

 

 その後、夫は食卓や台所で何やら作業をした後に風呂場の方に行き、やがてまた寝室に入って行きました。今度はしばらく待っても出てきません。きっともう寝たのでしょう。

 私もちゃんと寝室で眠ろうかと思ったのですが、どうにも夫が掛けてくれた毛布を手放したくありません。

 暖房も効いているし、風邪を引くこともない。そう考え、私はもう今日はここで寝てしまおうと思いました。

 しかし落ち着かず、なかなか寝付けません。たっぷり二時間近く寝たのが災いしているのでしょうが、そればかりではないはずです。

 夫の何気ない優しさがこんなに嬉しいものだとは、予想外でした。ほんの少しでも冷たい人かも、と思った自分を叩いてやりたい気分です。

 喜びによる胸のときめきは治まらず、寝たフリの果てに、私は眠れぬ夜を過ごすこととなりました。

 

 

 翌朝、見事に寝坊しかけた私を夫が起こしてくれました。今日はいつもより早く出社しなくてはいけなかったので、助かります。

 しかし時間はありません。

 私が「ごめんなさい、お昼は外で食べて」とお弁当が作れないことを告げて慌てて家を出ようとすると、夫が玄関まで追ってきて、私に包みを渡しました。

 風呂敷で包まれたそれは、私用のお弁当でした。

 昨晩、台所の方でしていた作業は、万が一に備えてのお弁当作りだったようなのです。洗い物にしては水音が少ないとは思っていましたが、今になって謎が解けました。

 私はお礼を言って、飛び出すようにして会社へ向かいました。恥ずかしさと嬉しさで、小走りになってしまいます。

 愛です。これこそ愛。

 私は年甲斐もなく、子供のようにスキップを踏んで喜びを表現したくなります。

 実際に会社で人目を盗んでスキップしたところ、同僚に見つかってしまいました。

 

 

 

 

 それから私は、夫の素敵なところを次々に発見していきました。

 大抵、それは些細なことです。

 私の好みの味付けを覚えていてくれたり、「いってらっしゃい」や「おかえりなさい」を言うときはいつも私の方を向いてくれたり。

 二人で出掛ける際には、私と歩調を合わせてくれます。そして歩道では自然と車道側を歩いてくれているんです。

 私がソファーで居眠りしている時に、起こすかどうかの基準もだんだんと掴めてきました。

 例えば私が「疲れていて何がなんでも眠りたい」と思っている時には起こそうとしません。逆に、明日の予定が詰まっていて「疲れを取らなきゃ」という場合は、尻を叩いてでも布団で寝るよう促してきます。

 そんなことを何度繰り返しても私に怒鳴ったり呆れたりしないのは、夫の優しさに違いありません。

 

 夫の思いやりの深さは、彼の行動を注視していれば一目瞭然でした。

 私は自分を恥ずかしく思いました。夫がよそよそしくなったなどと、勘違いも甚だしかったのです。変わったのはむしろ、私の方でした。新婚生活というものに憧れるあまり、夫のことを見ていなかったのです。新婚とはこうあるべき、夫婦ならああするべき。そんなことばかり考えて何になりましょう。

 夫はいつも自然体で私に接し、私を気遣ってくれていたのです。私はつくづく、自分がのぼせ上がっていたことを思い知りました。

 

 

 ある日のこと、買い物に行ったところ夫の会社の後輩さんに出会しました。

 

「奥さん。お久しぶりっす」

 

「どうも。ええ、久しぶりですね」

 

 挨拶を交わしてから、私たちの話は自然と、うちの夫の話題になりました。

 後輩さん曰く、この前の飲み会で少しばかり騒動があったらしいのです。なんとその渦中にいた人物が、私の夫だと言うではありませんか。

 

「中途採用された人がいてね。結婚なんて下らない、人生の墓場だー、ってなことを飲み会で延々と叫びまくっていたんですよ。面倒臭いから僕らは皆避けてたんですけどね。そしたらその人、大人しくしていた先輩に絡みに来たんです」

 

「ええっ、大丈夫だったんですか」

 

「喧嘩とかは起きなかったっすから。そんで既婚者の先輩に、奥さんにどんだけイビられてるかってことを聞いたんです。でね、先輩はなんて言ったと思います?」

 

 私が悩んでいるうちに、後輩さんはいたずらっ子のような笑顔を浮かべて「実はね」と勝手に答えを教えてくれました。

 

「俺は結婚して幸せです、って言ったんすよ。めっちゃ大真面目な顔して」

 

 顔に手をあて「かあっー、恥ずかしー」と後輩さん。

 いえ、聞いてる私の方が恥ずかしいです。

 

「そいつは先輩にしつこく、可哀想だの金がかかるだけだのって垂れ流してたんですけどね。それでも先輩は決まって、俺は幸せです、だけで貫き通してましたよ」

 

「あの人が、そんなこと」

 

「まあ先輩も顔赤かったし、酔っ払ってたんでしょうけどね。絡んだ奴は根負けして、捨て台詞吐いて帰っちゃいまして。最後に先輩はその背中に向かって、俺は妻と結婚して幸せだ、って叫んだんですよ」

 

 今じゃ夫は、社内では有名な愛妻家として知られているそうです。

 私は顔から火が出るような思いでした。まさかそこまで夫から想われていたなんて、考えてもみませんでした。きっと今の私は、飲み会での夫より顔を赤くしていることでしょう。頬に手を当てると熱を感じます。

 後輩さんは「アツアツっすね。羨ましいっす」と残して行ってしまいました。

 まったくです。

 冬だというに暑くてたまらないのは、どうしたことでしょう。

 

 

 

 

 夕食の席で、私は夫に話しかけました。

 

「ねえ、あなた、この前飲み会に行ったでしょ」

 

「ああ」

 

「そこでさ、私のこと、何か話した?」

 

 夫は食べる手を止めて私を見つめました。

 相変わらずの無表情ですが、彼が返事をすぐに返さないときは言葉を吟味しているのです。

 

「確かに、話したな。結婚生活について聞かれたから」

 

「なんて答えたの?」

 

 私は答えを知っているくせに、意地悪にもそう聞きました。だって直接、彼の口から聞きたいではないですか。

 夫はまた考え込み、私の目をじっと見据えます。こちらの意図を読むような、泰然とした眼差しです。

 しかし今回は私も負けるわけにはいきません。目尻にぎゅっと力を込めて、瞬きもせずに夫を見つめ返します。『ナマケモノから覇気を取り除いた顔』と友人から評されている顔の私ですが、できる限り真剣な表情で挑みます。

 やがて、私が目を開け続けるのに辛くなってきた頃、夫は白状しました。

 

「幸せだと言った」

 

 出ました。私の勝ちです。

 きっと私にもう少し節操が欠けていたら「ヤッター」と叫んで万歳でもしていたことでしょう。

 夫の顔がいつもよりほんのり赤く見えます。今夜はお酒は飲んでいないはずですが。

 

 一方的に彼の内面ばかり話題に出すのも公平でないと思い、私はこれまでの新婚生活への思いを話し始めました。

 友人に相談したことや、眠ったフリをしていたこと。自分の至らなさと、夫への感謝を述べました。

 話している内に感極まってきて、涙を堪えるために鼻をすすってしまいます。勝手に疑いをかけ、勝手に一人で舞い上がって、勝手に話して泣き始める。どこまでも子供くさい自分が嫌になります。

 それでも夫は黙ってちり紙を取ってくれて、急かすことなく私の話を聞いてくれました。

 そして話終えた私に、夫は言いました。

 

「すまん。俺が、口下手だったな」

 

 彼は優しすぎます。「謝るべきなのはこっち」という私に彼はこう続けました。

 

「ただ一つ信じて欲しいことがある。俺は君に嘘をつかない。だから約束は、必ず守る」

 

 私は涙を拭いてきょとんとしました。夫と何か約束をしていたかしら。ここ最近でした約束と言えば、新しい棚を購入するために古いのを処分しよう、というものくらいです。それもつい先日無事に果たされたし、他に何かあったでしょうか。

 頭を捻っている私に、夫は観念したように嘆息しました。

 

「結婚式でのことだ」

 

「え、結婚式?」

 

 私がオウム返しに聞くと、夫はこくりと頷きます。

 

「病めるときも、健やかなときも、真心を尽くして君に寄り添い、人生を共にすると、そう誓った」

 

 私は「ああっ」と手を打ちました。夫に言われて今まさに、式場で大々的に誓い合った言葉を思い出したのです。

 あれを形だけのものだと言う人は少なからずいることでしょう。私もその一人でした。

 しかし夫は本気だったのです。あの宣誓を心の底から言っていたのだと、真剣な瞳が語っています。

 

「だから……」

 

 と夫は

 

「だから?」

 

 気になるあまり、私は前のめりになって追求しました。

 

「だから、愛しているよ」

 

 夫は真っ赤になりながら、面と向かって私に告げました。

 私は雷に打たれたような衝撃を受けました。

 それはなんと、重みのある言葉でしょう。散々言って欲しいと願っていたにも関わらず、いざ現実になると、果てしない幸福に心が麻痺してしまうようです。

 止まりかけていた涙が、また溢れ出てきました。今度は抑えようとしても、まったく止まってくれません。

 私は泣きじゃくりながら、何度も言いました。

 

「愛してる。私も、愛してます」

 

 夫は立ち上がると、私を抱き寄せました。女性に不馴れなたどたどしい仕草です。

 そしてゴツゴツとした大きな手が、慰めるように私の頭を撫でました。もう一方の手は、私の手を優しく握っています。

 今なら誰憚ることなく言えます。

 私は最高に幸せです。今も、これまでも、これからも。

 

 

 

 

 あの頃のことが、まるで昨日のように思い出せます。

 私はすっかり年を取り、しわくちゃのお婆さんになってしまいました。子供も無事に育ち、孫もずいぶんと大きくなり、私は今も幸せを噛みしめて生きています。この分ならひ孫も拝むことが出来るやもしれません。

 私はまだまだ元気です。夫直伝の料理の腕は未だに健在ですし、若い頃からの趣味も失うことなく、友人たちとファミレスで集ってはお喋りに花を咲かせています。

 老人となり、新しいことを覚えるのは大変になってしまいましたが、昔のことはよく覚えています。特に幸せだった時間は、私の中で強い輝きを持ち、心にいつでも温かみをくれるのです。

 

 

 今日はお日様が照っていて、澄んだ青空が見える気持ちの良い日です。

 私は夫と二人きりで、自宅の居間にいます。私は畳の上で座布団を敷いて座り、その隣で夫は心地好さそうに横になっています。

 先ほど気を利かせてか、お医者さんや子どもたちは部屋から出て行ってしまいました。ですから今は、夫と二人きり。

 

 夫は安らかな顔で目を瞑っています。その自然さはまるで、寝息が聞こえてきそうなほどです。

 私はそっと、生涯を共にしてきた夫の手に、自分の手のひらを重ねました。

 おじいさんになっても変わらぬ無骨な手です。病めるときも、健やかなときも、私と一緒にいてくれると約束した人の、優しい手です。ひんやりとした感触は嫌ではありません。

 握り返してくれないことが、少し寂しくはありますけれど。

 

「ねえ、私は幸せですよ」

 

 呟いて、今度は両手で彼の手を包み込むようにしました。

 そうしていると際限なく愛情が胸の内から湧き出てくるような気がします。それと同時に、枯れたと思った涙腺から、ほろりと涙が一滴流れました。

 

 冷たくなった夫の手を握り、私はただひたすらに、この人と結婚して良かったなあ、と、そう思ったのでした。

 

 

 

 

おしまい

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