【短編】Che meraviglia(ケ メラヴィッリャ)

@kikuchihayato

【短編】Che meraviglia(ケ メラヴィッリャ) 本文



 ぼくにはヴァレンタインデーにお菓子を贈ってくれる女性たちがいる。

 母、母方の伯母、10歳近く年上のいとこの姉、妹(散らかし魔)。

 ……以上。ぼくに恋愛経験はない。

 ただ、親族以外にもお菓子を作ってくれる大切な人がいる。

ぼくの家から西に歩いて数分のご近所に住んでいる、お隣の老婦人だ。



 3月の雨はクローゼットにしまっていた白いコートを前線に戻した。

クッキーの紙箱とちょっとお高めな紅茶のティーバッグを紙袋に入れて、ぼくはお気に入りの傘とブーツで家を出た。

アスファルトの道を西に歩く。祖父が昨年末に落花生を収穫した畑が、雨に濡れてかぐわしい。

お隣さんの敷地に入ると、倉庫の方から猫の鳴き声が聞こえてきた。オレンジのスカートをそよ風になびかせるかわいらしい女の子を連想させる鳴き声だけれど、倉庫から出てきたのは、四角い顔立ちをした大きなオスのとら猫だ。

「こんにちは、どらちゃん」

 どらちゃんはぼくの足下で横になって、おなかを見せた。濡れた毛並みをなでてみる。キャンバス地のようにごわごわとしていた。

「あらまぁ、ドラ。お兄ちゃんが来てくれて、うれしいのね」

 平屋の日本家屋の玄関を開けて、老婦人がいらっしゃった。小柄なぼくよりさらに背の低い細身にサンドベージュのカーディガンとグレーのズボンをつけている。額にかかる髪は銀色で、上品なこの人によく似合う。

「おひさしぶりです」

「雨が降ってるのに、今日はどうしたの?」

「ホワイトデーですから、クッキーを持ってきました」

「あら、申し訳ない」

「いえ、ヴァレンタインデーにいただいたブラウニーケーキ、おいしかったです」

「失敗作よ」

「ぼくにはぜいたくな一品でした」

「あらあら、うれしいこと」

 老婦人が微笑んで、どらちゃんが倉庫へ入っていく。動物は外で飼うのがお隣さんのしきたりなのだ。

「お父さんもいますから、お紅茶を淹れましょう。おあがりなさって」

 


 玄関に傘を置かせてもらうと、右奥の食堂に入った。

 旦那さんは、ガラス戸の前にあるソファーで新聞を読んでいた。三月になってから雨天が続いているというのに、いつものように肌は赤く焼けたままだ。小さなころからあいさつをしていたからあんまり感じなかったけど、こうして見るといかめしい雰囲気のある人だ。

「あなた、お客さんが来てくれましたよ」

 老婦人は旦那さんの耳元でそう言った。最近、耳が遠くなってしまったらしい。けど、お顔を上げた旦那さんの眼差しは冴えていた。

「おめぇ、よく来たな」

「はい。お元気そうでなによりです」

「元気さ。だって、雨が降ってちゃ動きようがないからな」

 しゃがれた声でそう言うと、旦那さんは新聞紙に目を落とした。ぼくよりずっと勉強家なのだ。

 ぼくは、持参した紅茶のティーバッグを老婦人に渡して、勧められた椅子に座り、お菓子の紙箱を開けた。

「紅茶が好きなんて、おめぇ、しゃれてるなー」

「そうでもありませんよ」

「ごめんなさいねぇ、うち、お紅茶なんてあんまりいただかないものですから、ティーカップにほこりが被ってるわ」

「お気づかいなく」

 窓の外で桜の花が咲いている。花びらと共に風に乗っているのは晩冬の雪だろうか?

「妹さんはどう?」

「同棲中の彼氏とうまくいっているそうです」

「いいわねぇ。その人とはもう会ったの?」

「父と母は会いました。ぼくはまだです」

 老婦人が紅茶を出してくださった。素朴な白いティーカップがうれしい。ここから覗けるキャビネットに入っているようなブランド品だったら、神経質なぼくには紅茶の味がわからなくなってしまっていただろう。

「甘いのお好きなんでしたっけ?」

「はい。とっても」

「じゃあ、お砂糖、お出ししておきますね」

 角砂糖の入った小さな壺をダイニングテーブルに置いて、老婦人はぼくの向かいの席に座った。

「何か、お話が聴きたいんでしたっけ」

「思い出話を聴いてみたいんです」

「あなたは昔から本が好きでしたからね」

「そうでもないですよ。読める人はぼくの三倍読むそうですから」

 角砂糖を二個紅茶に入れる。普段はタッパーに入れた粉砂糖を適当にスプーンで入れているから新鮮だ。

「驚くかなと思って、そこに座ってもらったの」

 老婦人はぼくの後ろを見て。

「あなたの後ろに男の人がいらっしゃるでしょう?」

 ぼくは座ったまま振り向いた。

真後ろに左右一組の白いふすまがあって、左のふすまに、横笛を吹くお兄さんが描かれていた。少ない線で描かれたそのお姿には、正座をして鑑賞したい荘厳さと、今にもウインクをしてくれそうな親しみやすさが同居している。

「いい絵でしょ? 気取ってなくて、生活スペースに溶け込めるような」

「はい」

 素直な気持ちでうなずいて、ぼくは右側のふすまの下にあるサインに気づいた。

「これ、どうしたんですか?」

「わたしのお父さん、学校の先生をしていたでしょう? ですからね、大学にお友だちがいて、その大学の先生がイタリア人の夫婦を連れてきたことがあるんです」

「芸術家さんだったんですね」

「ええ。向こうではたくさんワインを飲むそうですが、あの夜は日本酒をいっぱい召し上がりましてね。ふと気づくと、芸術家の先生がポケットから木炭を取り出して、大きな紙を探していたんです。閃きがあったんですって。でも、このお家にはちょうどいい大きさの紙がなくて、夜のことでしたからお店も開いてなくて、困っていたら、お父さんが、このふすまを使えばいいって言ってくれたんです」

 ソファーに座る旦那さんは、新聞紙を畳んで膝に置いて、ガラス戸の外を見つめていた。芯まで日に焼けた赤い肌から、旦那さんという人の歴史を読み取ろうとしたけれど、ぼくにそんな力はなかった。

「あのときの芸術家の先生はね、それはもう、鬼気迫る勢いでしたよ。お酒で赤くなってたお顔を、ほおずきの実みたいに真っ赤にして、その絵を描いたんです。フレスコ画って知っていらっしゃる?」

「壁に描く絵ですか?」

「そう。あの先生はフレスコ画が得意だったんです。フレスコはイタリア語で新鮮って意味でしてね、壁に塗った漆喰が乾かないうちに描かなければならないそうなんです。日ごろからそんな絵を描いていたから、あんなに集中できたんですね。その絵は一筆描きでしたよ」

「このお兄さんのお顔も?」

「はい。描き終わったとき、絵描きの先生はこう言ったんです」

 老婦人はお兄さんを仰いで。

「天使が降りてきたって」

「天使……」

 ぼくは体の向きを天使様に合わせさせてもらった。

ピーターパンが被っているような羽飾りつきの三角帽子の下から、前髪が覗いている。きっと、黄金の巻き髪なんだろう。天使の輪と翼はないけど、着ている服は羽衣みたいに軽そうだ。古代ローマ人が着ていたトゥニカという服かもしれない。

 ふすまは左右一組みで、右側のふすまにも絵が描かれていた。

かわいらしい目と鼻をつけられた三日月のお月様の下で、女性がお琴を引いている。天使様と比べればたいぶ小柄だ。背にかかる長い髪はストレートで、穏やかなお顔は眠れるものたちが良い夢を観られるようお祈りをしてくださっているように見える。

 そう、あの人は……

「女神様なんですね?」

「え?」

 老婦人は、ティーカップの中の紅茶を波立たせた。

「どういう意味?」

「右下にいるあの女性、女神様なのかなって」

「女神様……」

 老婦人は、なぜか恥ずかしそうにクッキーをつまみ、旦那さんが小さく笑った気がした。



「いいなー、わたしもその絵、見たーい」

 携帯電話の向こうにいる妹の笑顔が見えたような気がした。

 その日の午後8時、パジャマに着がえたぼくは、自室に入って妹にお隣さんのことを報告していた。

 ぼくの住んでいる家はお隣さんより少し大きい日本家屋で、玄関から2番目に近い広間がぼくのお部屋だった。火鉢の似合う和室を暖めるのはファンヒーターで、こだわりを持って購入した羽毛ぶとんとマットレスの上で灰色猫が眠っている。

 少し障子を開いてみる。

東の空を十六夜のお月様が昇り始めていた。

「Che meraviglia(ケ メラヴィッリア)」

「ん?」

「イタリア語で、すばらしいって意味みたいだよ」

「お兄ちゃん、昔からイタリア行きたがってたからね」

「覚えててくれたんだ」

「もしかして、お隣さん、イタリアに行ったこともあったの?」

「うん。絵を描いてもらったお礼に、芸術家の先生のお家を尋ねてみたらしくてね。そのときの写真を見せてもらったんだ」

「いいねー」

「今度、家に帰ってくるんでしょ? その……」

 言い慣れていない言葉を口にする。

「彼氏といっしょに」

「うん」

妹はあっけらかんと笑った。ぼくにはわからないけど、愛さえあればご親族とのごあいさつなんて軽いものなのかもしれない。

「おみやげの月餅、よろしくね」

「わかったー」

「おやすみなさい」

「うん、おやすみー」

 通話が切れたところで、今年は妹からヴァレンタインデーのお菓子をもらってないことを思い出した。昨年はおしゃれなカフェで使えるクーポン券をくれたのに。同棲している彼氏に専念しているから、今年は何もないかもしれないな。

毛布の上でまるまっている灰色猫をなでる。ごはんをきちんとお皿で食べる淑女のような猫は、もちろん、ヴァレンタインデーのお菓子を持ってきてはくれない。いや、少し前にくわえてきたスズメがそうなのかもしれない。

あの絵の女神様はどうだろう? リンゴや洋なしの香りのしそうな、ごきげんようとお声をかけてくださりそうな女神様は、やっぱり天使様にパライゾのチョコレートを差し上げたりするのだろうか? 

いい子にしていれば、ぼくもちょっとぐらいはいただけるかな……?

ふとんに入ろうとしたところで、玄関のチャイムが鳴った。

「はーい」

上着を羽織って玄関の明かりをつけると、猫が出入りできるよう少しだけ開けてある引き戸の先に、作業用のウィンドブレーカーを着た老婦人が見えた。

表情に苦いものがあった。

「夜分遅くにごめんなさい」

「どうしたんですか?」

「黒之助(くろのすけ)くん、知りませんか?」

 名前を聞いて、ぼくは一匹の黒猫を思い出した。幼いはずなのに木彫りの毘沙門天様のようなキリッとした顔立ちをしている美しい黒猫を。たしか、お胸とお腹の毛が白くて、長いしっぽの先が折れ曲がっていたはず。幸運を引っかける鉤しっぽだ。

「東のお隣さんの子猫くんですね」

 老婦人と旦那さんは西のお隣さんで、東にも仲良くしてくださるお隣さんがいる。トラクターも運転できる元気なおばあさんと、その人の娘さんとお婿さん、お孫さんになる小さな女の子と、拾われ猫の黒之助くんの、四人一匹のご家族だ。

「それがですね、黒之助くん、今度、去勢手術になるんですけど……悟られたんでしょうね、お昼間にお家から出ていったきり、戻らないんですよ」

「それは……」

 東に住む小さな女の子の姿が思い浮かんできた。ぼくが拾った四つ葉のクローバーを嬉しそうにもらってくれたあの子は、不安な気持ちに憑かれてしまっているだろう。

「見つけたら、ご連絡くださいね」

 ぼくは老婦人に頷いた。

「わかりました」



 ぼくの家の周りに街灯は少なくて、夜になると大きな懐中電灯を持って見回りをするのが日課だった。

 机から取ってきた懐中電灯で老婦人の足元を照らして見送ると、ぼくはせめてもと、裏庭を調べてみた。

 ぼくの家の裏庭は広い。肥料の袋やビニールハウスの骨組みが転がっているのは、農夫であるはずの祖父が近くの畑で使った道具をそのまま放ってしまうからだ。妹が散らかし魔なのは祖父の遺伝なのかもしれない。

 サルスベリ、柚子、夏みかん、金木犀の木の周りを調べてみたけれど、黒猫が隠れている気配はなかった。

 家屋から離れて夜空を仰ぐ。

まだ東の空の低いところに十六夜のお月様がいらっしゃった。魔除けの鈴のような金色に輝いている。

ぼくはお月様に深く礼をして、手を合わせた。

「黒之助くんが無事でありますように」

 そよ風が吹いてきた。就寝前だった体には冷たいけれど、答えのあることが嬉しい。

 きっと、だいじょうぶ。

ただ、今夜は見つかりそうにない。夜が明けたら、自転車で辺りを探してみよう。

 ぼくはお月様にあいさつをした。

「おやすみなさい」

 それから、覚えたてのイタリア語で。

「Buona notte(ブオナ ノッテ)」



 笛の音が聴こえて、ぼくは目を開いた。

 暗い。寒い。ふとんを被ったぼくの足の上で、灰色猫が眠っている。あのかすかな緑色の光はファンヒーターのタイマーだ。

 黄金の音色を掴まえたくて、ぼくは真夜中に目を覚ましたのか。

凪いだ海面のように平坦な音が続いている。外に出れば、もっとはっきり聞き取れるだろう。

音色より睡眠が欲しいらしい灰色猫を起こさないよう、慎重にふとんから這い出て、日誌の隣に置いてあった懐中電灯を取った。

上着を着たら、外に出る前に、隣の広間にある神棚と仏壇に礼をした。

――いってきます。

優しい声が聴こえたような気がした。

――いってらっしゃい。寒いから、すぐに戻ってくるんだよ。

ぼくはうなずくと、靴を履いて玄関を出た。

十六夜のお月様が夜空のまんなかに昇っていた。芝生が月影に白く照らされている。懐中電灯が必要ないぐらいだ。

耳を澄ませると、笛の音に節が加わり始めていた。裏庭から聞こえてくる。

ぼくは歩いて音をたどっていく。金木犀の間を抜けて、サルスベリの隣を過ぎた。

そして裏庭の端に来た。

アスファルトの細道に、背の高いお兄さんがいた。

羽飾りをつけた緑色のピーターパンハットと金色の巻き毛。

羽衣のような白い服に黄金のインバネス。

あったかそうなブラウンのモカシシ。

黄金の横笛。

天使様だ。

黄金の横笛からお口を離して、青い瞳の天使様はぼくに微笑んでくださった。

 再び笛を吹き始めながら、天使様は西へ歩き出す。

 ぼくは天使様についていく。

数少ない街灯の明かりを抜けて、天使様は、老婦人と旦那様の住むお家の前で止まった。

 笛が強く吹かれた。

お隣さんの正面にある背の高い茂みから、凛々しい顔立ちの黒猫が出てきた。

「黒之助くん」

ナァーと長く鳴いて、黒之助くんは天使様のモカシシに額をこすりつけた。

 次に、かわいらしい鳴き声が聞こえて顔を向けると、とら猫のどらちゃんがぼくのそばに来ていた。目を細めている。どうやら、ぼくに笑いかけてくれているみたいだ。

 どらちゃんが歩き出し、黒之助くんがあとをついていく。お隣さんの倉庫の中で一泊するのだろう。明日の朝には、老婦人か旦那さんが黒之助くんを見つけて、東のお隣さんへ帰してくれるはずだ。

 天使様は黄金の横笛を下ろして、ぼくに優しく微笑んでくださった。

「天使様、ですよね……」

 天使様はうなずいてくださった。

「黒之助くんを連れてきてくださったんですか?」

 天使様はうなずいてくださった。

「毎晩、こうしていらっしゃられるんですか?」

 天使様はお顔を横に振られた。

「迷子がいるとき、笛をお吹きになられるんですね」

 天使様はうなずいてくださった。

「女神様はごいっしょではないのですか?」

 なんのことか思い出すように天使様はお顔を上げて、それから微笑んでくださった。

 苦笑いだった。

「またお会いできますか?」

 天使様はうなずいてくださると、軽く横笛を吹いて、細道を西へ歩き出した。

 この夜には他にも迷える者たちがいて、天使様はみんなを家路へ導いてくださるのだろう。

 十六夜のお月様に黄金の音色を添えながら。



 目を覚ませば、ふとんの中だった。

薄暗い。寒い。ふとんを被ったぼくの脚の上で灰色猫が眠っている。すぐに耳に入ってきたのはファンヒーターが作動した音だ。

 朝だ。

 灰色猫を起こさないよう慎重に足を引き抜いて、ふとんから這い出た。

 机の上の日誌を手に取れば、鉛筆で薄く文字が書かれていた。

天使様、黄金の笛の音、どらちゃんと黒之助くん。

夢じゃなかったんだ。

 神棚と仏壇にお祈りをして、着がえて、朝食をいただいたら、ぼくは白いコートのポケットに猫の缶詰を入れて、西のお隣さんのお家へ向かった。

 お隣さんの敷地の中に入ると、倉庫の奥からどらちゃんが歩いてきた。黄色いカーディガンに白いエプロンをつけた老婦人がどらちゃんの後ろをついてくる。

「おはようございます」

「あら、今朝も早いのね」

 寝転んだどらちゃんのおなかをなでて猫の缶詰を取り出すと、どらちゃんは嬉しそうに長く鳴いた。

「おみやげ、持ってきてくださったの?」

「はい。黒之助くんのことなんですが……」

「そうそう、今朝ね、どらといっしょに倉庫で寝ているのを見つけましたよ」

「連れていけましたか?」

「はい。キャリーケースの蓋を開けたら、向こうから入ってくれたんですよ」

「賢い子ですね」

「本当に」

 老婦人に猫の缶詰を渡して、ぼくは尋ねた。

「今度、天使様と女神様の絵をカメラでお撮りしてもいいですか?」

「ええ。それはいいんですが……」

「どうかなさいましたか?」

「あれを女神と呼んでいいのかわからなくて……」

「きっと女神様ですよ」

 すり寄って来たドラちゃんの頭をなでて、老婦人は困ったように笑った。

「そうかしら……」

「はい。困った人を助けずにはいられない優しい女神様だと思いますよ」

「そんな……」

 なぜかはわからないけど、老婦人は頬に手を当てて恥ずかしがった。

 ぼくは老婦人に軽く礼をする。

「そろそろ行きますね」

「はい。ごきげんよう」

 微笑んでくださった老婦人にもう一度頭を下げて、ぼくは敷地の外へ向かう。

すると、倉庫の前にある柿の木の向こうから、旦那さんがいらっしゃった。黄色い作業着に緑色のウィンドブレーカーを重ねて、頭にカンカン帽を被っている。まだほとんど冬といってもいい三月の末だけど、肌の焼けた旦那さんにはとてもよく似合っている。

「おはようございます」

「おはようさん。黒猫のことか?」

「はい。見つかったそうですね。どらちゃんにおみやげの缶詰を持ってきましたので、奥様にお渡ししておきました」

「ありがとな」

 朝日の中で気持ち良さそうに伸びをする旦那さんにぼくは尋ねる。

「あの」

「ん?」

「ふすまの絵……天使様と女神様の絵を写真に撮りたいと、奥様にお願いをしたのですが」

「あれが、女神様か」

 ガハハと旦那さんが笑って、ぼくはあわてる。

「何かいけないことをしてしまいましたか?」

「ああ、わりぃ。お前の言う女神様のこと、俺、知っててな」

「え?」

 旦那さんは、玄関の前でぼくたちの様子を見ている老婦人に目をやって。

「あいつだよ」

「………………?」

「芸術家の先生が来たときな、あいつ、せっかくだからって、琴を引いたんだよ。で、お礼っていうことで、あそこにあいつの絵を描いてやったんだってよ。あのころは髪も長かったんだ」

「…………」

「天使は俺のことじゃねぇぞ。俺は笛なんて吹けねぇからな」

「…………ケ」

「ん?」

「Che meraviglia(ケ メラヴィッリア)」

 立ち尽くすぼくに、どらちゃんが長く鳴いた。



 その夜も笛の音が聞こえて、ぼくは目を覚ました。

 灰色猫を起こさないようふとんから足を抜いて正座になって東の障子を開ければ、十七夜目の月影と共に、東の空から黄金の音色が流れてきた。

 外に出れば、天使様とお会いできるのだろう。

 でも、天使様はぼくの勘違いを存じていらっしゃるだろうから、しばらくはお顔を会わせたくない。

 だから、ぼくは手を合わせて、お祈りだけさせていただいた。



 どうか迷える子たちをお救いください。

                     結

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