序章

第一話 轟臨

 大日本おほやまと神國かみのくになり天祖あまつみおやはじめてもとゐをひらき、日神ひのかみながくとうつたへ給ふ。我國わがくにのみ此事あり。異朝いてうにはそのたぐひなし。此故に神國かみのくにといふなり。――神皇正統記じんのうしょうとうき、冒頭部。

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 五十六年振りに自国開催されたオリンピック・パラリンピック大会の全日程が終了した。

 そして憂鬱な月曜日も過ぎ去ったこの日の朝空は、本当にどういう風の吹き回しか、つい先日までの入道雲が嘘の様に欠片かけらも見当たらない。


 まさに日本晴れと呼ぶに相応ふさわしい空模様であった。


 この日は日本国にとって極めて重要な記念日なので、それを知る人にはまるで天が祝福しているかのようにも思えたかも知れない。

 しかし地に営む一般の人々にとっては特に感慨も無いごくありふれた火曜日の朝であり、湿度が低いので幾分か過ごし易いという程度の話でしかなかった。

 よってこの青々とした天球にたたえられた異様な気配に感付く方がおかしいのだ。


 そんな街中で麗真うるま魅琴みことという少女だけが、このまばゆい光を遮る雲一つ無い空を駅のベンチから、何を思ったのか睫毛まつげの長い切れ長の目を更に細めながら見上げていた。

 彼女は通学途中であったが、多少足を止めた程度で遅刻することなど無いくらいには比較的早い時間に登校していたので、何をするでもなく茫然ぼうぜんと時間を潰すこのやや長身の少女に注意を向ける同級生はいなかった。


 もっとも、知り合いともなれば話は別であるが。


 一陣の風がセミロングの黒髪をなびかせる。

 その長い髪の一本一本が光をまとい、絹糸けんしのような軽やかさで首元下まで舞い戻る。


 眉目秀麗びもくしゅうれいな彼女の姿はさながら天女であり、その美しさに魅せられた一人の少年がいた。

 同時に彼女は聞き慣れた足音で近付いてきた少年に気が付いたらしく、座ったまま少しわずらわしそうに視線を向けた。


「おはよう魅琴みこと。」


 やや長身で細身の優男から発せられる、何の変哲も面白味も無い朝の挨拶。

 それは少女を非現実的な晴天から彼の言葉と同じ次元のありふれた日常へと呼び戻すような空気をほんの一瞬だけ作り、そのまま通り抜けて行った。


 岬守さきもりわたるは中性的であどけなさを感じさせる顔立ちで魅琴みこと微笑ほほえみかけている。


 その出で立ちは先程細身と書いたが、決して華奢きゃしゃではない。

 全身の筋肉をバランスよく鍛えることによって全体的に脂肪分を絞った、引き締められたせ方の肉体である。

 制服はまだ夏服であるため、わずかに汗で湿った服の上から縄目をかたどるような筋のたぎりが微かに垣間かいま見える。

 それが露出されればおそらく、典型的な男のたくましさとは別種のなまめかしさが衆目に晒されるであろう。


 彼とはもう毎日のように顔を合わせている筈なのに、出会った肉体の状態を気取けどるのは、麗真うるま魅琴みことがその十数年の人生で習慣付けられてしまった全く嬉しくないくせであった。


「おはよう。」


 素っ気なく返される挨拶。

 おそらく何千回と繰り返されたであろう二人のやり取りは、古今東西あらゆる者達の人生で当たり前の様に繰り返されているに違いない。


 魅琴みことはこの少年が引き連れてくる日常が好きではなかった。


 彼自身の事を悪く思っているわけではない。

 だが例えば今の様に何か物思いに耽っていた時、それをあらゆる世俗的な営みの中に埋没させてしまう様な、ある種の押しつけがましさを感じてしまうのだ。


 とはいえその日常に対するもやっとした拒否感は、ほんの一瞬わずかによぎるだけで、一度受け入れてしまえば居心地は決して悪くない。

 現に彼女は、彼とその日常を傍らに登校することをあっさりと了承していた。




⦿⦿⦿




 岬守さきもりわたる麗真うるま魅琴みことは小学校の頃から交友のある幼馴染だ。

 二人の関係は魅琴みことわたるの通っていた小学校に転校して来たことに端を発する。


 魅琴みことと出会う前の彼は元々活発な少年であった。

 真面目な優等生でありながらそこそこやんちゃであり、運動神経も良かったので、割とモテる子供であった。

 それ故に、転校生の美少女ともきっと仲良くなれるだろうという期待、好かれるであろうというある種のおごりから、魅琴みことにも積極的に話しかけた。

 丁度図書室での授業から教室に帰る途中の廊下だった。


 しかし期待とは裏腹に彼女の対応は冷たかった。

 慣れない環境に戸惑っているというわけではなく、ただ他人と接するのが煩わしいという内心が透けて見えるかのようだった。


 こういう場合、誰もが必ずしも人と積極的に関わりたいわけではないということが分かる者と分からない者が大人にもいる。

 後者は自分の距離感を相手に押し付けてくることがあるものだが、この頃のわたる少年にはまさにそういう図々しさがあった。

 そしていつまでも冷淡な魅琴みことの態度にだんだんと腹を立て、何か困らせてやろうという邪念が湧いてくる不躾ぶしつけな少年であった。


 そこでほんの出来心で、わたる魅琴みことの尻を触ってみた。

 批難されても知らぬ顔をし、証拠も無く疑うのかと言って揶揄からかってやろうという汚い糞餓鬼精神からの行動だった。


 後悔することになった。

 間髪かんはつを入れず、小学生女子のものとは思えない石の様な拳がわたるの顔面に飛んできたのだ。

 恥知らずな涙目の鼻血少年はここで逆上して反撃を試みるが、この一発のへなちょこパンチを実にあっさりと鮮やかに回避されてからは、それはそれは悲惨なことになった。

 二発目の拳が頬に炸裂した時点でわたるは首が捩じ切れるかと思う程ってバランスを崩し転倒。

 そこから馬乗りになられた後は、それこそ殺されるかという恐怖を味わうことになる。

 その後無抵抗のわたるに浴びせられた超小学生級のハンマーパンチは十数発にも及んだかもしれないし、恐怖体験ゆえに記憶が誇張されていて実際は四、五発だったかもしれない。


⦿


 事態を聞き付けた教師に羽交はがめにされた魅琴みこと悪鬼羅刹あっきらせつの如き怒りから我に返った時、目下の少年は弱々しく泣きながら、すでに上手く発せない言葉で許しを乞うていた。


 冷静に周囲を見渡してみると、周囲の級友たちは恐怖に固まったまま二人をただ見ていることしかできない様子だった。

 そして引き剥がされた足元では先程まで自分が殴っていた少年が失禁してしまっていた。

 そのうわ言の様に呟く声をよくよく聴いていると、許しを乞う言葉にはどうやら命乞いも混じっていた。


 彼女は自分のした報復は死の恐怖すら与えるもので、彼が働いた無礼に対し、あまりにも釣り合わない過剰な暴力だったのだとわかった。

 同じ年頃の子供相手に喧嘩をした、もとい暴力を振るったのは初めての事だったので、加減がわからずに全力で殴ってしまったのだ。


 わたるは保健室に連れて行かれたが、すぐさま病院へ送られたらしい。

 当然魅琴みことはこっぴどく叱られた。

 ここで岬守さきもり家の親が出て来ていれば、ここから後の一切の話は全く違った筋道を辿ったのだろう。



⦿⦿



 鼻骨、眼窩底がんかてい骨折に加え、歯も四本折れていたらしく、わたるは二週間ほどの入院を余儀無くされた。

 彼の見舞いに来た者は担任の他には凶行を謝りに来た魅琴みこととその母親だけだった。

 この時治療費については確約され、また彼女の母親は身なりが大変良く、かなり裕福な人物だと察する事ができたこともあって、ひとまず費用の心配はなさそうでその点は一安心だった。


 それよりもわたるにとって気がかりだったのは、最初にちょっかいをかけたのは自分だという事が有耶無耶うやむやになってしまわないか、ということだった。

 魅琴みことが謝っている間上手く喋れず、ただ黙って聴いているしかなかったことで、自分は謝るべきことを謝れなかったと気になっていた。

 このようなことがあったので冷淡な対応をされることは仕方が無いと思っていたが、一度だけ話をさせて欲しいかった。


 ほんの少しだけ、せめて謝ることだけは許して欲しかった。



⦿⦿



 女子にセクハラをして返り討ちに遭い、その折に女子に手を挙げ、おまけに一方的に泣かされて小便まで漏らしたことで、クラスでのわたるの評価はどん底に落ちていた。

 一方で魅琴みこともまたあまりの苛烈かれつな仕打ちにドン引きされ孤立していた。

 それで、学校生活において他人と組みを作る必要が出た時、必然的に二人は余るようになった。

 これによって余り者同士の組み合わせが成立するようになり、わたるの願いは図らずも叶うことになる。

 そしてこれをきっかけとして、なし崩し的に二人の交友は続いていくことになる。


 後にわたる魅琴みことから最初に声を掛けた理由を問われると、「寂しそうにしている人を見ていたくなかった。」と答えている。

 魅琴みこともまた孤立したわたるを見ていて同じ事を感じ、それを理解できた気がしたと返したので、その時に和解が成立したと言える。




⦿⦿⦿




 よわい一桁にして前歯が入れ歯になる事態に見舞われたものの、幸いわたるの顔は綺麗に完治した。

 それに中学、高校と人間関係が入れ替わったこともあって、彼がかつて孤立していたことは魅琴みこと以外誰も知らない環境になっていた。

 魅琴みことは今でも周囲とは距離を置きがちであるが、あれ以来暴力は全く振るっていないので、かつての凶行を知る者は最早おらず、特段避けられているというわけでもない。


 二人は同じ高校に通っており、クラスは隣同士であった。


 この日の一限は体育で、二人のクラスは男女それぞれに分かれ二クラス合同で授業が行われていた。


 わたるは男子では中の上くらいの運動能力だが、魅琴みことのそれは隔絶しており男子顔負けである。

 その為、ことあるごとに運動部の勧誘を受けていたが、彼女はかたくなに一切の部活動に参加しようとしない。


 そんな彼女にまとわり付く熱い視線が一人の男子から、腕やもも、胸や尻など、全身を舐めまわすように注がれていた。

 誰のものかは彼女もよく知っていたので、ファーストコンタクト以来小中高とずっとこうなので、もう溜息ためいきしか出ない様子だ。


 ただ、体操着を装いほとばしる汗と共に躍動する彼女の肉体は惚れ惚れするほど美しい、ということはその場にいる誰もが認める所だろう。


 彼女もまた華奢に見えて凄まじい資質をその五体に宿している。

 極めて高い身体能力を支える筋肉は女体特有の柔らかさとしなやかさを極限に備え、その素晴らしき肉を包み込む珠のような実りを蠱惑的に踊らせる。

 軽やかに舞う姿は正に蝶の如しである。


 今の魅琴みことに組み敷かれることがあったとしたら、それはそれは至福の一時になるかもしれない……。 ――時折、わたるはそんなことすら考えてしまう。


 真下からそのたわわなからだを見上げた時、広がるのはさぞ絶景であろう。

 もっとも、見下ろすその視線は間違いなくむし螻蛄けらを見るような極めて冷ややかなものであろうし、直後の光景は地獄すら生ぬるいものであろうことは想像にかたくない。


 わたるはその恐ろしさを思い出し、同時に一瞬魅琴みことの横目と目が合って戦慄せんりつしたこともあって、慌てて彼女から目を背けた。

 しかし、彼女の四肢ししが描く瑞々みずみずしい隆線りゅうせんも、体操着の下でなまめかしく揺れる乳房と尻も、抜群の安定性でその見事な動きを支える腰回りのくびれも、これで見納めにするにはあまりにも惜しい。

 そのめまわすような視線をあからさまに向けられるほどの度胸はないものの、わたる魅琴みこと肢体したいを授業が終わるまで隙を見ては横目でチラチラと盗み見ていた。


 ちなみに、見た目ばかり爽やかですました顔をしながら胸の内には下心を忍ばせ、悟られないように取りつくろいながらもバレバレな腐れ縁の友人に、当の魅琴みことはただ毎度毎度心の中で「気持悪きンもッ……。」と唱えるばかりだったりする。



⦿⦿



 授業が終わった。


 わたるは体育教師から呼び出された。

 要件は彼にとっては毎度の話で、いつものように生まれつき薄茶色の地毛を染める様に指示されていたのだ。

 どうやら体育教師はわたるの事が相当お気に入りらしい。

 だがわたるにとっては単に呼び出されることが煩わしいだけで、中年男が若い男に注ぐ変な視線は別段どうでも良いものだった。


 休み時間の半分を消費してしまい、チャイム直前にようやく更衣室での着替えを終えて自分の教室に戻ると、何やらノートに描かれた漫画が一枚一枚破られて黒板に張り出されていた。


 嫌がらせだという事はすぐに察した。


 下らないと思いながらもそのままにしておくのもどうかと思い、とりあえずは全て回収して枚数を把握した後、自分の机の中に入れておいて次の授業を受けることにした。


 二、三限間の休憩時間は短いので行動を起こすには少し時間が足りず、これは席に座ったままやり過ごすしかない。

 次の三、四限間の少し長い休憩時間こそ、クラスメートが何人も出入りすることもあり、チャンスである。


 わたるはクラスメートの移動を見計みはからい、張り出されていた漫画を取り出して枚数を確認した後、それを持ったまま教室を出て購買部に向かった。


 クリアファイルを購入したところで恐る恐る声を掛けてきた少女が一人。

 小柄な彼女はクラスメートの久住くずみ双葉ふたばだった。

 目立たず大人しい、よく教室で隠すように何かをノートに描いていた少女である。


 わたるは試しにいてみた。


きみの?」


 双葉ふたばは恥ずかしそうに黙ったまま小さく頷いた。

 どうやら彼女のもので間違いはない様だ。


 わたるには一人になったタイミングで持ち主が自分に声を掛けてくれるという計算があった。

 それは狙い通りに行ったのだが、実際成功したのは偶々たまたまだろう。

 このまま持ち主が現れず盗人ぬすっとになるという結果にならなかったのは、彼が柔らかな印象を与える話しかけやすい人物であったというのと、運が良かったからだ。


 わたるはクリアファイルのホルダーの内一つに漫画をまとめめて仕舞しまうと、それを双葉ふたばに差し出した。


「勝手に持ち出したのは失敗だった、どうやって持ち主を探そうかと思ってたんだ。不安にさせてごめんね、返すよ。ページはわからないから自分で整理してくれると助かる。」


 双葉ふたばは戸惑った様子でファイルとわたるの目に視線を交互に向けてファイルをつかむと、恐る恐る口を開いた。


「あの、これは……。」


 クリアファイルは目の前の少年が自腹をはたいて買ったものである。

 それをそのまま受け取っても良いのだろうかという躊躇ためらいを見せる双葉ふたばだったが、対するわたるはファイルから手を放して答えた。


「使えば良いんじゃない? その方が失くさないし読みやすいでしょ。まあ要らないなら悪いけど捨てといて。」

「え? でも……。」


 双葉ふたばが言い終わらない内にわたるは立ち去ろうとする。


「金持ちにコネがあるから気にしなくていいよー。」


 去りぎわの言葉が双葉ふたばの時を止める。


 彼女は階段を上っていったわたるが去った後もチャイムが鳴るまで踊り場を見上げていた。



⦿⦿



「その金持ちというのはわたしの事かしら。」


 階段を上ったわたるに声を掛けてきたのは魅琴みことだった。

 隣のクラスで騒動があったことと、そこにわたるが関与しているという話を後から聞き、どうするつもりか気になったので着けて来たらしい。


 わたるは更衣室で自分のクラスの女子に不審な人物はいなかったかと魅琴みことに尋ねたが、いつもさっさと着替え終えて更衣室を出てしまうためわからないという。

 それに対しわたるが付いた溜息が「期待外れだった。」というニュアンスを含んでいたので、魅琴みことは少しムッとした様子だった。


 わたるに対する攻撃的な気分はいつも魅琴みことの表情に底意地の悪い笑みを浮かばせる。


「まあ早くに着替えないといけない理由、貴方あなたはよくご存じでしょうけど、ね……。」


 ふふっ、と笑う魅琴みことの穏やかな口調とは裏腹な刺々しい言葉に対し、わたるはギクリとする思いがした。


 あの日以来彼女は肉体的な暴力こそ振るわないが、代わりにこういう嫌味をネチネチと言ってくるのだ。


「し、心外だな……。もう随分昔の事だろ? ぼくだって痛い目を見て反省してるよ。」


 否定はしているがわたるの眼はあからさまに泳いでいた。

 それに対し、魅琴みことはジト目でありながらも口元はからかうように微笑みを浮かべ、さらに嫌味をたたみかける。


「その割にはあの後も、隙を見ては他人ひとの座っていた椅子の臭いをいだり体操服の袋を抱き締めたりしてたわよねぇ……。」


 うぐ、と痛い所を突かれた航はたじろぐ。


 匂いを嗅ぐのは所有物ではなく座っていた椅子であったり、体操服そのものではなく袋を抱き締めるに留まる辺りに、彼の助平でありながら一歩踏み込めないヘタレな性根が垣間見える。


「そ、それだって最後は中二だろ……。」

「バレたのはね。いや、わたしにバレていると知っていたのは、と言った方が良いかしら。」


「え……?」


 わたるの顔から血の気が引いていく。


 魅琴みことの口撃はさらに続く。


「そういえば今朝も、電車が来てずいぶん経ってから声を掛けて来たわねぇ……。時間が空き過ぎて次の電車がもうすぐ来るところだったわ……。どうしてかしら、当ててあげましょうか。電車から降りたらホームのベンチにわたしを見つけて、同じことをしようと思い様子を窺っていた。でもいつまでもわたしが立たないまま次の電車が来そうになって、人が多くなりそうだったから諦めて一緒に登校することを選んだ……。」


 真っ青になって無言で固まってしまうわたる

 図星であった。


 魅琴みことは大きく溜息ためいきをついた。


「実はバレバレだとわかって良かったと思って、今まで見過ごしてあげたわたしに海よりも深く感謝して、今後一切そういう事はやめなさい。わたしも小さな頃からえんのある大切な友人を気持ち悪い犯罪者にしたくないから。」


 そう言い残し、魅琴みことは自分の教室に戻っていった。


 わたるはチャイムが鳴っても固まったままだった。

 同じくチャイムが鳴って初めて階段を上ってきた双葉ふたばに声を掛けられて、二人慌てて戻っていった。


 四限は自習だったのが幸いである。



⦿⦿



 放課後、下校途中のわたるは一つ悩んでいた。


「さっきから何を考えこんでいるの?」


 魅琴みことが尋ねた。


 二人はなんだかんだ言って共に下校している。

 元々強烈なマイナスから始まった腐れ縁なので、ちょっとやそっとの事では切れないのだ。


「今日のことでさ、あ、きみの忠告は胸に刻んでおくけどそっちじゃなくてね……。」


 わたるが考えていたのは双葉ふたばに行われた嫌がらせの事だった。


 今日の嫌がらせが氷山の一角として、二学期が始まって一週間で表に出たという事は一学期以前から、下手をするともっと以前から行われていたとも考えられる。

 今日したことはただ起きたことに対処したに過ぎず、根本的なことは何も変わっていない。


「どうしたものかね……。」


 その内容を聞かされた魅琴みことは、さも当然のように余計なことに首を突っ込もうとするわたるに呆れていた。

 しかし、そういうお節介な人間だという事もよく知っていたので、今更止めようとも思わなかった。


 今では、そのお節介が暴走して本人に危険が及ばないように、リスクを分散した方が得策だと考えていた。


「体育の時間一緒のわたしも知らないし、女子の間で暗黙の内に知られているわけでもなさそうね……。とりあえずわたしも休み時間はそっちに行って見張りながら犯人を捜しましょうか?」

「そうだなあ。まずは実態をつかまないと始まらないからなあ。魅琴みことと仲良くなったことで収まってくれれば万々歳だし。」

「あまり人と仲良くなるのは得意じゃないから、フォローしてもらえると助かるわ。」


 魅琴みことは積極的に人と関わろうとはしない。

 だがコミュニケーションが取れないわけではないことをわたるは知っていたので、その点の心配はしていなかった。

 とは言えやはり本人には不安があろうとは思ったので、ひとまず了承はしておいた。



⦿⦿



 朝から変わらず非現実的な程どこまでも青い日本晴れの空。


 それはまるで何らかの神憑かみがかり的な力が、その巨大な天幕てんまくを覆い隠す存在を一片たりとも許していないかのようだった。

 まるでそこから降り注ぐものをさえぎる存在を一切排除してしまっているかのようだった。


「やはり神為しんいが……満ちている……。」


 わたるには急に立ち止まって空を仰いだ魅琴みことが何を呟いたのかよくわからなかった。

 そして彼女の様子をいぶかしんで声を掛けようする。


 突然、魅琴みことは突然わたるの脚を掛け、綺麗に体を崩して転がした。


 訳の分からぬままうつぶせになったわたるは、そのまま魅琴みことに抑え込まれた。

 背中に何か柔らかいものが、触れるか触れないかの微妙な塩梅あんばいで感じられ、少しだけ嬉しかった。


「ごめん、このまま伏せてて!」


 言い終わった直後、突然の揺れが辺り一面を襲った。

 それは地震というより、この世界そのものが巨大な力に耐えかねて震えているようだった。

 周囲の家屋では窓が割れたり、木の枝が折れたり、高所に置かれたものが落下したりしていた。


 揺れは約二分間、散々周囲に恐怖を振りまいてようやく収まった。


 しかしそれでもなお魅琴みことわたるを解放してはくれない。

 わたる魅琴みこと体躯たいくに完全に抑え込まれ、全く身動きが取れなかった。

 鍛えられたはずの体が、単なるひ弱なか細い体と大して変わらない、無力な有様である。


 久しく忘れていたが彼女の膂力りょりょくはやはりおかしい、早く退いてくれと、わたるの不満は引いていく揺れの恐怖に代わって次第にふくれ上がっていた。

 そうして暴れようとするわたるを、魅琴みことの体は動けないように更にきつく抑え込む。


 必然、体が密着する。

 わたるは急に大人しくなった。

 魅琴みことは突然妙に大胆だいたんになることがある。

 普段は素っ気ない態度なのに、彼女の距離感はよくわからない。

 日頃から彼女をコソコソ助平な目で見ているわたるも、急にこんなことをされては困ってしまう。


 直接感じられる体の熱と、至近距離からかお芳香ほうこうがあまりに悩ましく、変な想像からの自らの変化が恨めしかった。

 気取けどられるのではないかと気が気ではなかった。


 魅琴みことはそんなわたるにはまるで目もくれず、空を見上げた。

 体が反れると共に、心地良い柔らかさがわたるの背中を擦れて離れたので、わたるの気はさらに小さく縮こまっていく。

 おそらく、わたるがいざ女性に迫られた時の反応はこんな感じなのだろう。


「来る……。」


 魅琴みことの下ではうつぶせのわたるが耳を真っ赤にして小さく震えている。

 しかし魅琴みことは全く目に入っていない。


⦿


 そしてそれは太陽の影となって現れた。


 それはこの国に住まう者ならば誰もが見知った形をしていた。


 世界に目を向けても実に多くの者が一度は目にしたであろう形をしていた。


 ただ、それは我々が知るものよりも明らかに大きかった。


 すなわち縮尺にして約三倍、面積にして約十倍の日本列島だった。


 地上からは裏返って見えたそれは、巨大な存在感を太陽光と共にまとっていた。


 そして南東へと轟臨ごうりんし、太平洋上空に我が物顔で鎮座ちんざした。


 世界中の人間にとって史上空前の何がなんだかわけがわからない状況であったのは間違いない。

 しかし、意味不明な現象はここからさらに続く。


 余りにも空に映し出されたのは、軍服の様なものを着込んだ片眼鏡の女の巨大なバストアップだった。

 見た目こそ若そうだが妙に貫禄のある女だった。

 二十代後半に見えるが、雰囲気で倍は生きていそうだ。


 肩肘かたひじを上げて胸元に持ってきた両手は何やら刀剣のつかの様なものに添えられていた。

 見た目若く体格のある高圧的な女がきらびやかな飾緒しょくしょや勲章を備えた軍服を着こなした姿は、どうしてこうも魅惑的に見えるのであろうか。

 この映像の後、おそらく少なくない人間が彼女に壁際へ追い込まれたい、踏まれたい、などという不埒ふらちな妄想をいだいたであろう。


 もっともそういうものが好きそうなわたるは、その姿を見ることは叶わないが。


 女は口を開き、極めて流暢りゅうちょう明瞭めいりょうな日本語で語り始めた。


御初おはつにお目にかかる。わたし神聖しんせい大日本だいにっぽん皇國こうこくが内閣総理大臣、能條のうじょう緋月ひづきである。此度このたびえある皇國こうこく臣民しんみんの第一人者として偉大なる森羅万象しんらばんしょうきみ神皇じんのう陛下の御威光ごいこうにより三千世界あまね照照しょうしょうたらしめるべく、万国ばんこくの愛護を宣言するものである。畢竟ひっきょう、各国日輪のいんいただ皇尊すめらみことを敬いわれらと共に歩むならば良し。きみもと永遠の繁栄が約束されよう。独歩どっぽたっと皇化こうかを拒みわれらと一戦まじえるもまた良し。いずれにせよ行く道は変わらぬであろう。以上、色好いろよい返事を期待している。」


 能條のうじょうの映像は引き気味になり、手に持っていた刀剣を抜刀して高々と掲げた。

 そして馬鹿でかく空一面に響かせる「皇國こうこく彌榮いやさか!」の声。


 それと同時に背景に旭日紋様きょくじつもんようが浮かび上がり、そのまま能條のうじょうの映像だけがフェードアウトしていった。

 旭日紋様きょくじつもんようは突如響き渡った軍艦行進曲が鳴り終わるまで大空を占拠し続けていた。


⦿


「何なんだよ今の……。まるで意味が分からない……。」


 映像の途中で幾分か拘束の緩められたわたるは、状況が全く飲み込めず引きった半笑いを浮かべるしかなかった。


 一方魅琴みことは深刻な、しかしきもは座った面構えで残された紋様もんようを仰ぎ見ていた。


「ついに現れた……。偽りのみかどべる、もう一つの皇國こうこく……。」


「それはともかくそろそろいいだろ?」


 魅琴みことの呟いた意味深な言葉は相変わらずよくわからないわたるだったが、今なお抑え込まれていてそれどころではない。


「あ、ごめんなさい……。」


 音楽が終わり、再び元の雲一つない快晴の空が戻ってきたところでわたるの抗議はようや魅琴みことに届き、魅琴みことわたるの背から離れた。

 しかし、わたるは一向に起き上がろうとしない。


「どうしたの? 退いてあげたんだけど立たないの? どこか痛めた?」

「うん、ありがとう。立たないというか、ったというか、まあ、ね?」


 わたるは背後から見下ろす魅琴みことの視線が季節を先取って急激に冷え込んでいくのを感じていた。

 魅琴みことは極めて冷たい声で言葉を発した。


わたしね、いきなり転がしたことは一応悪いと思っているのよ。乱暴だったって。そこは反省しているわ。」

「いえいえ、怪我しないように綺麗に転がしてくれたし、よくわからないけど危険から守ってくれたんでしょ? そこはもう全く気に病む必要は無いんです……。」

「あら御気遣きづかいありがとう。善意に受け取って貰えて助かるわ。でもわたし貴方あなたえさをあげたつもりは無いんだけど。」

「はい。まあえさと言うかオカズと言うか、ですが……。」

「ああ、助平犬すけべいぬだと思っていたらマスざるだったというわけね。ごめんなさいね、よりにもよって大嫌いな動物と間違えてしまったわ。わたしの知っている猿は反省くらいできる生き物だったから……。」

「返す言葉も御座いません。どうか見放さないでください。」

「じゃあすぐ起き上がって。十秒以内。じゅーう、きゅーう、はーち、なーな…」

「ちょっ、待っ」「ろく、ご、よん」「速い速い速い!」


 こうしてふざけ合っている様子は一見いつもとさして変わらない。

 しかし、最早彼女の心が元通り日常に埋もれることはない。

 同じ日常を過ごしていても、この日を境に一つの影が常に心に射すことになる。


 西暦二〇二〇年九月八日、六十九年前日本の戦争に終わりが宣言された日。

 時を超え、世界は日輪をかんした帝国と再び邂逅かいこうした。




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岬守さきもり わたる

西暦2003年(皇紀2663年) 11月19日生

身長 177㎝

体重 70㎏

血液型 AB(Rh-)


麗真うるま 魅琴みこと

西暦2003年(皇紀2663年) 6月28日生

身長 166㎝

3サイズ B88 W55 H88

血液型 AB(cis)


次回は8月19日㈬更新予定。


読みにくい漢字、極端に変な文章、ルビの振り忘れ、誤字脱字等御座いましたらご連絡願います。

※カギ括弧内の句点については仕様です。最後の会話文に句点が付いていないのも仕様です。

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