世界の終わりのブルー・モーメント
綾繁 忍
海辺の丘
ぼくの血を吸いなよ。そう言うと、きみはふふっと軽やかに笑った。
世界が終わる海辺で、ぼくはただきみが死ぬのを待っていた。
***
丘の上から見渡す景色は実に壮観だった。汚れた綿を敷き詰めたような曇天の隙間から数条ほど差し込む夕日はスポットライトのように海面を照らしているけれど、その先に照らし出すのに値するものなど見当たらない。海は見えない巨人が暴れているかのように荒れ狂い、おそらく魚達は軒並み酸欠であえいでいることだろう。水平線の果てでは稲妻が落ち続けているせいで空がひび割れている。
ぼくらがこの丘にたどり着くまでに通り抜けてきた都市は、怪獣でも通過したかのような有様だった。背の高い建物は軒並み崩壊し、遠くに見える巨大で真白い塔だけが変わらずに佇んでいる。
致命的なダメージを受けた大地は、そこかしこで傷口のような裂け目を見せていた。つい最近、すぐ近くの活火山がついに噴火したらしい。
それらはきっとぼくらが壊してしまったこの星の悲鳴。
今は無風のこの丘も、そう遠くない先に、立ってもいられなくなるのだろう。
それは彼女が息を引き取るのと、どちらが早いだろうか。
「コーヒーを飲むかい?」
ぼくは努めて明るく尋ねながら、リリィの隣に座る。リリィは一瞬驚いたような表情を浮かべたあと、にっこりと歯を見せるいつもの笑顔になった。ぼくは彼女のこんな無邪気な笑顔が好きだった。そのためならどんな冗談だって上手くなろうと思えるくらいに。その歯の中に鋭い牙が紛れ込んでいたとしても。
「どうしたの。盗んできたの?」
悪戯っぽい口調で聞き返すリリィ。
「まさか。代金分くらいは置いてきたよ。地下室に少しだけ粉があったから、お湯を沸かして溶かしてみたんだ」
へえ、と感心したようにリリィは笑う。ルビーのように紅い瞳を持つ大きな目を細め、ローズブロンドの長い髪をかきあげながら。透き通るように白い頬が心做しか赤くなった気がするのは、わずかな夕日のせいかもしれない。
リリィはコーヒーを両手に持って啜る。「美味しくないね。でも嬉しい」とまた笑った。
「ねえ」
コーヒーを飲み終わると、リリィは上目遣いになってぼくに言った。顔かたちは十代だけれど、それよりずっと歳上に見えることもあれば、こうして随分子どもっぽい振る舞いをすることもある。彼女にとって年齢はあまり意味のある概念ではなく、そのときどきで一番そうしたい振る舞いをするのだそうだ。その考え方には、ぼくも不思議と共感できた。社会の視点からものを見るには、今や社会というものは壊れすぎていた。もはや何に準拠する必要性も感じられなかった。
「少し休んだら、あの塔に登りたい」
リリィは崩壊した街の向こう、山を背にすっくと伸びる真白い塔を指差す。目標とするには確かにわかりやすい目印だった。彼女に死が迫っていることと、街区には略奪者が潜んでいることを考えなければ、だけれど。
「どうして? 危ないよ」
「何とかと煙は高いところが好きだって言うじゃない」
それは多分バカのことだ。
ぼくは危ういところで口をつぐむ。人の世界の慣用句に明るくないのなら、無理に使わなければいいのに、と思う。
「なるべく広く見渡せるところで死にたいの」
そう話す彼女は微笑んでいたが、有無を言わせない意思の光がその目に見え隠れしている。
「わかった、行こう」
ぼくは答える。この属するところが何もなくなってしまった世界で、ぼくはただ彼女の望みを叶えるくらいしかやることもなかったから。
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