第42話

 俺が地下に潜ってから10日も経過してしまっている。もしクララさんが1階で待っていてくれなかったら、俺はエレベーターを出た瞬間にゴキブリに殺されるだろう。キタムラ医院まで無事に帰ることも、もちろんできない。でもたぶん、クララさんは待ってくれているはずだ。たぶん。

 エレベーターが1階についた。ドアが……開いた。あれ、ゴキブリは? 目の前にクララさんだけ立っていて、いつもの笑顔で俺を迎えてくれた。よかった! ありがたい。俺は周囲を確認しながら恐る恐るエレベーターの外に出た。

「ゴキブリは?」

「30分ほど前に一斉に建物の外へ出ていきました。原因は不明です。タクヤさんは何か心当たりはないですか?」

 クララさんが微笑んだまま言った。

 これ、もしかしてロッチーさんが何かしてくれたんじゃないか? ゴキブリたちと交流が無いとは言ってたけど、やはり同じ種族なわけで、なんらかの方法で影響を与えることが出来るのかもしれない。そして、俺のためにゴキブリの大群を追い払ってくれたのかも。ただ、今はロッチーさんのことは秘密にしておきたい。約束をしたからな。

「俺も理由はわかりません。なんででしょうね? でもエレベーターが動くようになった事と、ゴキブリがいなくなった事は関係してるかもしれませんね」

 俺は言った。そしてエレベーターが止まっていた為に、10日間も地下にいたことを話した。『なぜか』エレベーターがさきほど復帰して、地上に戻ることができたのだ。クララさんに嘘をつくのは心苦しいけど、しゃべれるゴキブリに出会ったっていうのも嘘みたいな話だよな。

「とにかく戻ってこれて良かったです。おかえりなさいませ、タクヤさん」

 クララさんが嬉しそうにして言ってくれた。

「ただいま! ……あ、スラムの伝染病はどうなってます? 何か情報はありますか?」

 俺は焦って訊いた。やべーちょっと忘れてた。

「今のところは大丈夫のようです。ネットで調べた限り、まだ感染者は出ていません」

 クララさんのその言葉を聞いて、ようやく俺は一息つけた。せっかく金が出来たとしても、病気が流行ってしまえばお終いだからな。


 建物の外にもゴキブリの影が見当たらない。俺たちはずっと警戒をゆるめなかったけど、帰り道もゴキブリにまったく出会わなかった。これがロッチーさんの力だとしたら相当凄い。本当はゴキブリのボスだった、なんてオチはないよな?

 早足で3時間半ほど歩いて、俺とクララさんはキタムラ医院に到着した。ゴキブリが出なかったのであっという間だった。クララさんが入り口の扉を開けてくれて、俺はキタムラ医院の中に入る。

「もう! 死んだと思ったわよ!」

 コズエ先生にいきなり抱きつかれた。抱きしめ返すわけにもいかないので、俺はされるがままになっている。

「エレベーターが止まっちゃって……。すみません、ご心配をおかけしました」

 俺は言った。コズエ先生の赤い目が少し潤んでいる。普段はクールな人なので俺はちょっと驚いた。……本当に心配してくれてたんだな。

「でも、ちゃんと仕事は終えてきたのね。凄いじゃない! リュックが2つあるってことは1000万コースね」

 顔が急に明るくなって、はしゃぐ声でコズエ先生が言った。

「あの……。融合炉は一つしか取れませんでした」

 俺は言った。

「あら。じゃあ、リュックには何が入ってるの?」

 コズエ先生が不思議そうにして言った。

「今の段階では融合炉は一つしか取れなかった、ということに出来ないでしょうか。サツキさんを騙すつもりは無いんです。だけどあの、保険をかけたいというか……」

 発電所からここに来るまでに俺はかなり考えていた。こうしたほうがいいような気がする。というか、こうするべきのような気がする。

「とりあえず融合炉一つ分のお金だけ渡して、サツキさんが信頼できるかを確かめたいってことかしら」

「はい……これってマズイですかね? 相手はマフィアのボスだし、俺がこんな試すようなことをしたら、ご機嫌を損ねることにはなると思います。でも俺、最悪のことを考えたら、こうするべきのような気がして」

 俺がそう言ったらコズエ先生がニコッと笑った。

「いいんじゃない? 主導権はタクヤにあるんだし。そもそもサツキさんは情報を提供しただけで、そこまで権利があるわけでもない。これはスラムのために使うお金なんでしょ?」

「はい。もし一気に金を持ち逃げされたら、取り返しがつかなくなってしまいます」

「じゃあタクヤの好きなようにしなさいよ。……あなた、ちょっと成長したかもね。私とクララに騙され続けて、ついに人を疑うことを覚えたのかな?」

 コズエ先生が笑って言った。

「どうやらタクヤさんは、他にも隠し事をしているようですけど。必要だからそうしているんでしょうね? 頼もしくなったものです」

 クララさんがちょっとトゲのある声で言った。げ、バレてる。たぶんロッチーさんのことだよな。アンドロイドにしてみれば、人間の嘘なんて簡単に見破れるのかもしれない。俺は肯定も否定もできないで、曖昧に笑うしかない。

「ええと……」

「別にいいわよ、話したくないことは話さなくても。それよりも融合炉の話をしましょう。時間が無いんでしょ?」

 コズエ先生が笑って言ってくれた。


 2つの融合炉をリュックから取り出して、コズエ先生に渡した。先生がその場で、病院の機材を使って融合炉を簡単にチェックした。その結果、売却するのに特に問題は無いようだった。

「それじゃ、まずは一つだけ。オークションにかけるわよ?」

 コズエ先生が言った。

「お願いします」

 俺は少し緊張して言った。

「……オーケー、登録は済んだ。入札は……いい感じ。ジャンク扱いで売るしかないのが惜しいわね。今、560万。はい、620万で落札」

「はや!」

 俺はビックリして叫んだ。

「まあ私の信用のおかげかな。入金を確認……。クララ、機密用コンテナで発送してくれる?」

「了解しました」

 クララさんがそう言って、融合炉を持って部屋を出ていった。

「すごいですね。もっと時間がかかるものかと思ってました」

 俺は言った。

「融合炉を活用できる人は限られてるのよ。だから実はちょっとだけ、ヒントを出して、相手側に話を通してあったの。結構いい値がついて良かったわね。ここからクララの護衛代を差し引くでしょ。あとはワクチンと、その他もろもろの費用を引く。残金は……だいたい400万。これをサツキさんに全額送る。元からそういう約束だったけど、それでいいかしら?」

「はい、お願いします」

「……よし、作業完了。ワクチンは教会に直接郵送される。たぶん、タクヤがスラムに戻るまでには届いているわよ」

「助かります。これで伝染病の件はなんとかなるかな」

 俺はほっとして大きく息を吐いた。

「でも、病原菌がある場所はまだ処理されていないのよね?」

「はい。それはサツキさんが、送金したお金でやってくれるはずです。これから俺はスラムに帰って、すぐにサツキさんに会おうと思います。それで事情を説明します。その……2つ目の融合炉の話とか」

「ちゃんと会えるといいわね?」

 コズエ先生が怪しい笑顔で言った。

「そうですね。もし会えなかったら……。どうしようかな」

 そんなこと考えたくないけど。

「……そうね。それじゃあこれを渡しておくわ」

 そう言ってコズエ先生が、俺に小さな端末を手渡してくれた。

「何かあったらこれで連絡をして。サツキさんが約束を守っているなら、使う必要は無いかもしれないけど。私の予想だと五分五分かな」

「五分五分ですか?」

 けっこう確率低いな。

「だって400万でしょ? サツキさんはそもそも、スラムを見捨てる可能性も考えていたわけだし。タクヤだったらどうする? 同じ立場だったら」

 コズエ先生が意地悪そうな顔をして言った。俺だったら……どうするだろう。ごみ拾いを一日頑張っても、せいぜい300円しか稼げない。金が無いとそのまま死につながることだってある。それがこのベリーハードの世界だ。

「俺、サツキさんを信じてます。とはいえ保険はかけちゃったけど」

 俺はそう言って、大きく深呼吸をした。

「さてさて、どうなるかしらね」

 コズエ先生が楽しそうにして言った。


 発電所で10日も過ごしていたので、時間の感覚がなくなっていた。時計をみたらちょうど正午だ。そんなに疲れてもいないので、俺はこのままスラムへ向かうことにした。

 ゴキブリの気配は全く無くなっている。これがずっと続くとも思えないけど、今日のところは大丈夫な気がする。それで、スラムまで一人で帰るつもりだったけど、クララさんが新宿のそばまで見送ると言ってくれた。無料ですから安心してください、と付け加えて言ってクララさんが笑った。本当にありがたい。


 一応大きな仕事をやり遂げたわけだし、周囲にゴキブリも見当たらない。だからスラムへ帰る足取りが軽い。良い映画を見終わった後のスタッフロールを見てる時みたいに、しみじみとして気分が良い。

「クララさんの報酬、3%だとちょっと安すぎでしたね。ゴキブリとの戦闘は凄まじかったし」

 スラムへ向かって歩きつつ、俺はクララさんに言った。

「いいえ十分です。私もコズエ先生も楽しめました。タクヤさんの活躍が見られて満足です」

 クララさんが微笑んで言った。

「……俺、この世界だと信じられる人がすごく少なくて。でもクララさんはマジで信用できるから、それが本当にありがたいです。何度も命を救ってもらって、何を今さらって感じですけど」

「コズエ先生はどうですか? 信用できる?」

「うーん……人間は怖いからなぁ」

 俺が小声で言ったらクララさんが吹き出して笑った。アンドロイドもこんな笑い方するんだな……。

「私とタクヤさんは、お互い考え方が古いというか……。お金より大事なものがあるって、本気で考えていたりしますよね? そんな人間はこの世界にもう、ほとんどいません。昔はそれが美徳とされていたのですが、世界は変わってしまいました。みんな生き延びるのに必死ですから」

「そうですね……」

 俺はため息をついて言った。俺もこの世界に慣れてきて、そのことは純粋に嬉しい。ただ、それと同時に何かを失っている気もする。心が雑になっているというか、ラフになっているような。でもクララさんを見てると、前の世界を思い出すような感覚になる。俺は今まで、本当に豊かで繊細な社会に生きていたんだと思う。

 帰り道、結局ゴキブリは出なかった。遠目にスラムの街が見えて来て、クララさんがここで帰ります、と言った。うちでお茶でも飲んでいってください、と言いたいところだけど俺には自宅がない。いつの日か、マイホームも手に入れたいよなー。マイも喜ぶと思うし。

 俺はクララさんと、心のこもったハグをして別れた。

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