第9話
「アタタタタ……」
工場の入り口を出た所で、お爺さんが腰を押さえてうずくまっていた。
「大丈夫ですか?」
俺は慌てて駆け寄る。
「腰が痛え……。兄さん悪いけどな、俺の尻ポケットに痛み止めがある。それをちょっと出してくれんか」
お爺さんが辛そうな顔で言った。
「分かりました」
そう言って俺は探したけれど、スボンのポケットに薬は無かった。
「上着の方かもしれん」
そう言われて俺は、上着のポケットも探した。
「……無いですね」
「ちくしょう……どこかで落としちまったかな」
お爺さんが腰を押さえて、よろよろと立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
俺はお爺さんのそばに寄って体を支えた。
「ああ大丈夫だ。ゆっくり帰るとするよ。ありがとうな、兄さん」
お爺さんが顔をしかめて台車を引き始めた。
「本当に大丈夫ですか?」
俺は心配して訊いた。あんなに痛そうにしてたのに。
「大丈夫だ! もう気にせんでくれ!」
突然お爺さんが目をカッと見開いて言った。ちょっと怒った顔になっている。怖。立ち尽くす俺をよそに、お爺さんが台車を引いて歩いて行った。
まいったね。何もしてないのにスゲー疲れた。俺は工場の入り口が見えるところに腰を下ろした。周囲を見物しながら、少し休憩することにした。
ここには老若男女問わず、いろんな人がゴミを売りにやってくる。子供も多い。自分の体と同じくらいの、でかいゴミ袋を担いでいる子もいる。あの袋一つで、いくらぐらいの稼ぎになるんだろう。黒板に書いてあった情報から考えると、たぶんたいした金額にはならないだろうな。
試しにちょっとだけ、俺も近くのゴミ山に入ってみる事にした。一歩踏み入れた途端、空気がめちゃくちゃ悪くなった。生ゴミの酷い匂いがする。割れたガラスもあるのに、素手とサンダル履きでゴミ拾いをしている人も多い。あれで怪我をして、傷口にばい菌が入ったらどうするんだろう。薬を買うお金が無い人もいるだろうに。恐ろしすぎる。
見ているだけで気分が悪くなってきた。空気が悪いせいで喉が痛い。とりあえずマスクと水を買おう。俺は金を数えようとしてジーパンのポケットに手を入れた。
……無い。小銭はあるけれどお札が無い。慌てて俺はズボンのポケットを全部ひっくり返して調べた。やっぱり無い。
落とした? どこで? 30円の水を買った残りで、千円札が4枚と、小銭で970円あったはずだ。小銭は残っている。お札だけ落としたのか? でも俺は今までずっと立ちっぱなしだったし、ポケットに何も出し入れはしていない。
背中がスッと冷たくなった。たぶん台車の爺さんだ。俺が薬を探している間に、金を盗られた。たぶんそれで間違い無い。あの時俺は、爺さんの体に密着して薬を探していた。爺さんは、俺の肩に手をかけたりして何度も体勢を変えていた。体が辛いからそうしているんだと俺は思っていたけど、あれは金を盗る為だったのだ。頭が真っ白になった。
ゴミ山の片隅に座って俺はぼんやりとしている。人を助けようとして、その結果がコレか。あんまりだ。生き延びる為の金を一気に失ってしまった。残金が970円。これだと宿代に金を使っていいものか迷う。だとすると、今夜も野宿か。飯はどうしよう。節約のために、なるべく食べない方がいいだろうか。だけど腹が減ったままでは、ゴミ拾いなんて出来ないだろう。
腹が空いている。俺は一旦ゴミ山を離れて、屋台の一番安い20円の麺を食べた。箸を持つ手が震えてしまう。味が分からない。それでもスープを全部飲んで、席を立った。安宿の前に行って、共同部屋の料金をうらめしく見つめた。こんなことをしても何にもならない。
落ち込んでいる暇は無い。ついさっきまで、俺は無一文だったじゃないか。廃墟のビルから始まって、巨大なゴキブリに追われた。マイに助けて貰って、なんとかスラムにたどり着いた。屋台の残り汁を掠め取って飲んだ。サツキさんの家に泊めてもらって、新しい服と5千円を貰った。サツキさんの件は、たまたま運が良かっただけだ。あの金は無かった物だと思えばいい。最初からやり直しだ。少しは情報も集められたじゃないか。
俺は屋台のテーブルからのっそりと立ち上がる。とにかく金を稼がなければ。そのために、ゴミ拾いの為の装備を整えよう。俺はゴミ山の近くの雑貨屋に入って、道具を見てみることにした。
ゴミ袋20円。手袋、30円。マスク、20円。長靴、120円。ゴミ拾い専用の『ひっかき棒』150円。これがあるとゴミが拾い易いよ、と雑貨店のご主人が教えてくれた。
ここがファンタジー世界だったら、と俺は性懲りもなく思う。武器か防具か、どちらを先に買うか迷うだろう。やっぱり武器が先かな。その方が戦闘が早く終る。HP(えいちぴー)が減ったら、すぐに街に戻って宿に泊まればいい。その繰り返しで金を貯める。レベルを上げながら、徐々に装備をアップグレードして行く。時間はかかるけど楽しい作業だ。
さて……俺はゴミ拾いだ。残金、950ゴールド。じゃなくて950円。ゴミ袋は必要だ。それと長靴も欲しい。サンダル履きだと、すぐに怪我をしそうだ。空気がめちゃくちゃ悪いからマスクも欲しい。手袋も買おう。だけど今日の宿代はどうしよう。飲み水と食べ物も買わなければならない。これから、いくら稼げるのかも分からない。ああ、盗まれた4千円があったらな……。
結局、俺は何も買わずに店の外に出た。精神的なダメージが大きくて、冷静に考える事ができなくなっている。行動を起こす気力もない。
ゴミ拾いなんてしたくない。だけど、やるしかない。あの5千円を元手に、なんとか始められると思っていた。しかし、親切をしたつもりでバカを見た。シャッターの降りている店の前に俺は座りこむ。今日はもう、動きたくない。
そのままそこで夜を明かした。次の日もそこで寝た。一日2食にして、水も極力買わないようにした。今日こそはゴミ拾いに行こうと、何度も思った。だけど嫌だ。怖い。怪我をしたら終わりだ。病院に行く金もない。路上で眠るのは辛い。気温は高いし、体中がベトベトだ。眠りが浅いせいか何度も夢を見る。家族と一緒に飯を食べている夢。スマホでゲームをして、暇つぶしをしている夢。授業をぼんやりと受けている夢。料理部で、慎吾一緒に筋トレをしている夢。
一週間くらい経っただろうか。朝に目が覚めて、すぐに体を起こそうと思わなくなった。思考が停止している。……屋台の残り汁を盗むのはもう嫌だ。泣きたいと思ったけれど、ほとんど涙が出ない。残金は110円になった。
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