びいどろ様
桜楽 遊
びいどろ様
この町には、どんな願いも叶えてくれるという『びいどろ様』の伝説がある。正式名称は別にあった気がするが、びいどろ様が通称だ。
びいどろ様が祀られているのは、山の上の
普段、グラスの中には何も入っていない。
しかし、心の底から助けを求めている人間が祠に足を運んだ時、そのグラスには水が入っているのだという。
そして、その水を飲んだ者は願いを叶えてもらえるのだとか――。
◇◇◇
「――眠たい」
靴を脱ぎ、覚束ない足取りで家に上がる。
その時、「やっと帰ってきた」という声が聞こえた気がした。いや、本当に聞こえていたらしい。
ドタバタと、リビングから足音が近付いてくる。
「
息を切らし、肩を震わせた母が問う。
心配と怒りとが一緒くたになった、複雑な声音だった。
「なんだっていいだろう。俺の勝手だ。夏休みの過ごし方なんて、人それぞれなんだし……」
ぶっきらぼうに言って、俺はため息を吐く。
「また、喧嘩してきたの?」
母の視線が、血の滲んだ拳と頬に突き刺さる。
「そうだよ。母さん、昔から言ってただろ?強い子になれってさ」
「強くて優しい子になれ――、そう言ってきました」
「変わんねぇよ」
無性に苛立って、俺は髪を掻き毟る。
早く、会話を終わらせたかった。
「お父さんも心配してたよ」
「滅多に帰ってこない奴のことなんて、どうでもいい」
そう言った後、俺は足早に階段を上った。
部屋に着くまでの間、遅すぎる「おかえり」を言った母の視線が、背中に刺さり続けていた。
――翌日。
一日における太陽の最盛期に差し掛かった頃、俺は目を覚ました。
意識が覚醒して暫くは、漫画を読んだりゲームで遊んだりした。
そんなこんなで
それでようやく、俺は空腹に気がついた。
食料を求めてリビングに向かうと、テーブルの上にラップで覆われた料理が置いてあった。
その横には一杯の水と、『温めてから食べてね』と書かれた紙切れが添えられていた。
「食べるか……」
そう言うと、俺は冷めた料理を食道に流し込んだ。
――完食した後、俺は外出することにした。
鼻腔を擽る柔軟剤の香りを纏った上着を羽織って、薄汚れた靴を履く。
そして、玄関の鍵を開けようとした時。『ガシャン』と、外から鍵穴が回させる音がした。
数秒遅れて、扉が開かれる。
眩い日差しと共に現れたのは、母親だった。
「「あっ」」
声が重なる。
俺は一瞬で動揺を鎮め、母と入れ替わるように外へ出た。
「何時に帰ってくるの?」
「知らねぇ」
「勉強はしてる?大学に行く気はあるの?もう高三の夏よ」
「チッ、うるせぇなぁ!勉強も母さんも大嫌いだ」
悪態をつき、足早にその場から離れる。
背中で、母の「行ってらっしゃい」を聞いたが、俺は何も言わなかった。
◇◇◇
「いてぇ」
暗い路地裏で、大の字に手足を広げて横になり、土と血で汚れた服を見ながら呟いた。
口腔に広がる鉄の匂い。恐らく、唇が切れているのだろう。
「数の力って怖いな」
家を出てすぐに、俺は昨夜殴り倒した不良少年に出会った。
サシの勝負なら、今日も俺が勝っていたのだろうが、その不良少年は仲間を連れてきていた。
いくら喧嘩に自身があっても、数の力の前では手も足も出ない。
俺はこっぴどくやられてしまった。
「二度とやるもんか。喧嘩なんて、大嫌いだ」
発した声が、闇に呑まれて消えた。
それは、酷く乾いた声だった。
――路地裏から抜け出した俺を責め立てたのは、真っ赤な夕日だった。
血の滲んだ頬を夕日に焼かれながら、俺は人通りの少ない道を歩いた。果てしなく広い世界の小さな街を、彷徨った。
「おい、
背後から声が聞こえ、俺は振り返る。目に入ったのは、HR担任の姿。
今日はよく人に絡まれる日だと思った。
「その怪我……、どうしたんだ?」
「喧嘩したんです。もう二度としませんけど……」
「そうか、それはまあ……いいことなんだろうが。――雨宮、進路は決めたのか?」
「っ!」
「夏休みなんだ。親御さんと話し合って……って、おい!」
俺は激情に駆られ、走り出す。
静止を促す叫び声が聞こえるが、止まりはしない。
「やめろ、やめろ、やめろ」
俺の前で、その話をするな。
「言うな、言うな、言うな」
俺が不快になる話を、俺の前でするな。
「笑うな、笑うな、笑うな」
俺を憐れむな。
俺を見下すな。
俺を、嗤うな!
「はぁ、はぁ、はぁ」
気付けば、俺は山を登っていた。びいどろ様が祀られた祠へと続く階段を、駆け上がっていた。
「うわっ!」
階段を踏み外して、転倒する。
転がり落ちないよう、四肢を使って踏ん張る。
「――だよ」
掠れた声が漏れる。
亀裂の入っていた堤防が、遂に決壊したのだ。
「なんなんだよ!こんな世界いらねぇ!嫌なもんで溢れ返った世界なんか――思い通りにならない世界なんかいらねぇんだよ!」
この世界は理不尽だ。
努力が報われるとは限らない。寧ろ、報われないことの方が多い。
やりたいことを我慢して、やらなければいけないことをやったとしても、上手くいかない。『必要なことだから』と言い聞かせて、本当はやりたくないことを無理にやっても、救われない。
勉強も、運動も、家族も、人間関係も皆、俺を傷つける。
辛いのも、苦しいのも、全部嫌だ。
得意なことや楽しいことだけをして、生きていたい。
だから、昼まで寝た。
漫画を読み、ゲームで遊び、喧嘩をした。
喧嘩に負けてしまった今日、俺は喧嘩が得意ではないことを知った。喧嘩は苦手だ。もうやらない。
苦痛から逃れるためには、俺の苦手なものを――俺の嫌いなものを、全部拒絶するしかなかったんだ。
そうやって、俺は殻に閉じこもった。安全な場所に逃げた。
わかっている、これは俺の弱さだ。独りよがりを拗らせているだけだ。
わかっている――わかってはいるけれど、こればっかりは仕方がないんだ。
「くそっ!」
俺は再び走り出す。びいどろ様の元へ向かって。
「――恵まれているのも、わかっているよ」
俺が強欲なだけだということも、わかっている。
優しい両親がいる時点で、家庭環境に恵まれているのは事実だ。
単身赴任中の父が、家族を養ってくれている。専業主婦である母が、家事をしてくれている。
本当に、恵まれている。
でも、俺はこんなんになっちまった。全てに嫌気が差してしまった。
俺よりも大変な思いをしている人は、大勢いるはずだ。
そんな人の目に、俺はどのように映るのだろうか。
『お前は求めすぎだ!』『恵まれているくせに、我儘だ!』と、そう非難されるかもしれない。
『この弱虫が!』『嫌なことから逃げるな、腰抜け!』と、そう罵倒されるかもしれない。
だとしても……、それでも……俺は……。
「はぁ、――着いた」
ようやく、俺はびいどろ様が祀られた祠に辿り着いた。
祠にはびいどろのグラスが置かれていた。青を基調とした、涼しげな模様を浮かべたグラスだ。
――そして、それは透明な水で満たされていた。
「俺のことを苦しめるものを全部、この世から消してくれ!」
そう言って水を飲み干した俺の体を、淡い青の光が包んだ。
◇◇◇
――そこにはいたのは、一人の少女。
彼女が生まれてすぐに、父親は交通事故で命を落とした。
それからは、母親が女手一つで彼女を育てた。
貧しい家庭で生まれ育った彼女は、まともに勉強することができなかった。
夢があった。やりたいことがあった。
しかし、金銭的な問題で大学に通えなかったのだ。
気付けば、彼女は大人になっていた。
大した能力も学歴もない彼女を必要とする企業は少ない。
だから、彼女はバイトで収入を得ていた。
希望の見えない日々。
彼女は、己の弱さを責めた。己の無力を嘆いた。
そして、自殺を決意した。
終わりの地を探し求めて、彼女は夜の街を歩いた。
そんな時、彼女は一人の男に出会った。
その男は怪我をしていた。先程まで喧嘩をしていたらしい。
男の怪我を、彼女は手当することにした。
彼女は強くなかった。
しかし、人一倍優しかったのだ。
――これが、出会い。
強さを持っているが、優しさを知らない男。優しい心を持っているが、強くはない女。
不完全な二人の出会い。
やがて二人は結婚し、子を授かった。
子の名前は
大切な赤ん坊を撫でながら、二人は願った。
――強くて、優しい子になりますように。
◇◇◇
「――ぷはっ!」
水面から顔を出す時に似た感覚に襲われ、俺は必死に酸素を肺に送る。
「何を見ていたんだ……?」
何を見せられていたのか。
成長し、やがて男と結婚した、あの少女は誰なのか。
そんな二人の間に生まれた子供は誰なのか。
「――――――」
いや、わかっている。本当は、理解している。
俺が見たものは、きっと――。
『まだ、願いを叶えてもらいたいか?』
脳の奥に、声が響く。それは間違いなく、俺の声だった。
「いいや、叶えてもらわなくていい。というか、もう願ってすらいない」
――帰ったら『ただいま』を言おう。
びいどろ様 桜楽 遊 @17y8tg
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