第9話 布団、気持ちよさそうだね

「温泉に入りたくなった」

「さっき入ったじゃないですか」

「気持ちいいお湯には何度だって浸かりたいんだよ」

「まあ、そうっすね」


夕飯を終えしばらくダラダラとしていたし、有りと言えば有りだ。

実際ここの温泉は気持ちよかったし。


「じゃあ、行きますか」

「うん」


ということで、いざ二度目の温泉、の前に。


「せめて返信ぐらいしとかないとなぁ」


溜まりに溜まった通知の処理をする。脱衣所で。春海さんが横にいたら絶対なんか余計なちょっかいかけてくるし。

ていうかこれなー、返信すんのめんどくさい。

余りにもめんどくさすぎて、部屋でダラダラしてるときも放置してたぐらいには、めんどくさい。

だけど、SNSへのリプやグループラインはともかく、個別で来ているラインはさっさと返信しないと後が怖い。

特に、女子からのライン。

男友達からの『今、何してるん?』系のラインは雑に返しとけばいいんだけど、女友達からのラインは、やっぱりちょっと気を遣う。


「……」


美由紀からの『京都ウケるw』に返信した後、悩むのは千沙への返信だ。

『京都にいるの?』なら普通に返せるけど、『私との約束、忘れてない?』はヤバい。

なんか変に返したら地雷踏む気配がプンプンしている。

こういう時は、変に一人で考えるよりも人に聞いた方が早い。ということで、


『出た、京都男』

「人を妖怪みたいに言うなし」

『だっていきなり京都に行ってるから』


美由紀に通話した。


『何?』

「千沙から『私との約束、忘れてない?』ってライン来てるんだけど、何か知らない?」

『あー』

「何、その反応」

『いやぁねぇ。それはさ阿澄、タイミング悪いよ』

「どういうこと?」

『こういうこと』


ゴソゴソとした音。

え、何? とか思ってると電話の向こうで微かな話し声が聞こえた後に、


『なんで直接聞かないの』


と、声が聞こえてきた。

そして同時に思う。これは地雷踏んだ、と。


「千沙」

『なんで美由紀に電話してんの』


さーて、どうしよう。

この場合、美由紀に聞いたってのがアウトだ。それがバレてるってのが致命的だ。

……逃げ道なくね?


「美由紀と一緒にいたんだ」

『そうだけど』


だから何? と言われてる気分になる。思い込みかもしれないけど。

ていうか、なんで俺はこんな浮気がバレた男みたいな心境になってるの!?


『ねえ、なんで京都にいるの?』

「旅行中だから」

『一人で?』


……圧が強いよ、千沙。変に緊張感を煽るのやめてくれない!?

ていうか、いいか俺。間違うなよ。絶っ対に、選択肢を間違うなよ。

千沙がなんで『一人で?』って聞いてきたかを考えろ。…………わっかんねぇ。


「まあ、そう。一人で」

『ふぅん』


セーフか? セーフだよな!?


『親と一緒なのかと思った』

「うちの親は夏休み中海外に行ってるって言わなかったっけ」

『言ってた。だから誰と行ってるのかなって』


セーフだ。これはセーフだ。下手に親と一緒なんて言おうもんなら、夏休み前の会話をほじくり返される。

そうなったら、嘘に嘘を重ねる羽目になって、なんかもう色々大変なことになっていた。


『……』

「……」


間ッ! 間がキツイッッ!!!

いや、何この無駄にジリジリした空気感は!? なんで電話一本でこんなに緊張しなきゃいけないのさッ!?


『交代』

「は?」


千沙がなんか言ったと思ったら、またも微かな話し声が聞こえてきて、


『交代だってさ』

「美由紀」

『なんか、千沙はもう無理みたい』

「何それ」

『察して』

「無理だろ、それは」


今のやりとりで何を察しろと?

無駄に緊張しただけじゃんかよぉ……。


『女子の色々を察せないと男子はモテないよ』

「男子をエスパーと勘違いしてない?」


世の中には出来ることと出来ないことがあるって知ってる?


「千沙は? 何してんの?」

『ベッドに倒れて唸ってる。自己嫌悪中かな、たぶん』

「何それ」

『察して』


いや、だから無理だって。不可能だってそれは。


『あ、またラインするって言ってる』

「おけ」

『ちゃんと返してあげなよ』

「わかった」

『千沙に言っとくから。阿澄が今度はちゃんとライン返すって』

「ああ」

『じゃあね』

「おう」


プツンと通話が切れる。

結局、千沙との約束が何だったのかは分からずじまいだったけど、まあいいや。

またラインが来るなら、その時に聞けばいい。


「さて」


これで心置きなく温泉を楽しめる。

本当、一体なんだったんだ千沙のやつ。



「エッロ」


部屋に戻ってきた俺は思わずそう呟いていた。

恐らく春海さんはまだ髪を乾かしでもしてるんだろう。部屋の中は無人だった。

無人なんだけど、さっき部屋を出た時とは違うことがひとつだけある。

布団だ。

布団が二組並んで敷かれている。

旅館の部屋に二組の布団。それが妙にエロく見えた俺は、思わず心の声を漏らしてしまったというわけだ。


「……」


特に意味はないけれど、布団を避けて窓際の広縁に向かう。

旅館の部屋にある、窓際に一人用のソファが置かれたこの空間が妙に好きだ。

落ち着く。


「……ふぅ」


腰掛ければ思わずため息が漏れてしまう。

細く開けたカーテンの向こうに夜の闇を見ていれば、今日一日のことが思い返される。

まさかこんな夏休みの始まりを迎えるなんてな。

京都で春海さんと2人きりなんて、昨日までの俺は想像すらしてなかった。


「やっぱり男の子って早いねー」

「……あ?」

「ぷっ。何? その反応」

「……ちょっと寝てました」


ぼんやりする意識で目を向ければ春海さんが戻ってきていた。


「広縁っていいよね。私も好き」

「落ち着きますよね」


腰掛ける春海さんはやっぱり浴衣姿だ。相変わらず似合っている。


「ありがとね」

「何がですか?」

「ん。付き合ってくれて」

「旅は道連れって言いますし」

「……優しいね、肇君は」

「春海さんだからですよ」


どこからか聞こえてくる虫の音と川が流れる水音が、静かな夜を優しく彩る。

心地よさに身をゆだねるようにして、俺と春海さんは揃って窓の外に目を向ける。ほんの少しだけ心に触れ合いながら。


「京都にはいつまでいるつもりなんです?」

「うーん。明日には出ようかなって思ってる」

「早いですね。もうですか」

「旅だから。色んな所に行きたいし」

「じゃあ、次は大阪に行きましょうよ」

「食い倒れ?」

「そうですね。本場のたこ焼きを食べたいです」

「いいねー、そうしよっか」


湯上りのぼんやりとした頭のまま交わす会話はどこか気だるげで、だけどそれが、ほんの少しだけいつもよりもやわらかい。

そのやわらかさが、在りし日の記憶を思い起こさせる。


「あ、でも京都もちょっとは見て回りたいから、観光してからね」

「どこに行きます?」

「清水寺と二条城」

「修学旅行で行ったんですけど」

「私は久しぶりだから」


いたずらっぽく笑う春海さんは何を思うのだろうか。

家族も友達もいない場所。俺と春海さんしかいないここで、彼女が俺のように期待することはあるんだろうか?


「どうしたの?」

「おかしな夏休みになったなって思って」

「楽しいでしょ」

「ええ、それは間違いなく」

「本当に?」

「本当ですよ」


覗き込んでくる眼差しは嬉しそうに輝いている。

歳の差は10歳。でも、時折そんなことどうでもよくなる。春海さんと俺の違いなんて忘れて、ただただ愛おしく感じることがある。


「布団、気持ちよさそうだね」


静かな声音。何かを抑えるような、そんな響き。


「旅館の布団ですから」


自分の当たり障りない言葉に、春海さんと同じ響きを感じる。


「私、清潔な布団って好きだなぁ」


ぼんやりとした口調を装う言葉とは裏腹に、眼差しは訴えかけてくる。


「……っ、ぼちぼち寝ます?」


俺の中で湧きあがってくる情動は、期待と焦り。

いいのか、という嬉しさと、いいのか? という緊張のせいで、喉が鳴る。


「うん。そうしよっか」


囁くような声。立ち上がりざまに近づく距離に感じるのは、湯上りとは違う理由によって熱くなった吐息。


「……」

「……」


夏休み初日。京都。

どこかから聞こえてくるのは微かな虫の声と川の音。

むせかえるような夏の暑さは部屋の外。

明かりを落とした部屋の中で感じる存在感。

鼻孔をくすぐる温泉の残り香が、彼女の輪郭をじわりと滲ませる。

感じたものを逃さないように伸ばした腕の先で、夏の暑さを捕まえた。

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