死人に口なし

 時雨さんが長い指で丁寧に包みを解くと、なかから出てきたのは今にも匂いたちそうな山梔子の花も鮮やかな着物だ。


「こちらがお問い合わせいただいた品です。お間違いないでしょうか」

「……ああ、これだ。もう長らく見ていなかったが覚えているよ。母が、彼女に誂えた着物だ」


 花崎さんは、涙ぐんでしばらく懐かしむように着物を見つめていた。

 それから、決意を秘めたまなざしを時雨さんに注ぐ。


「西御門さん。すでにお話したとおり、こちらの着物を売っていただきたいのです」


 時雨さんはその要望に応えなかった。注意深く花崎さんを見つめ、ゆっくりと声をかける。


「この着物の以前の所有者はすでに亡くなっています。それをご存知でしょうか」

「ああ、それは僕も聞き知っている。それを知って、なにか彼女にゆかりのあるものはないかと探し始めたんだ。知りたかったんだ。なぜ、彼女が僕を捨てて出て行ったのかを。もっと早く、それこそ本人が生きているうちに探してやれていたらと悔いても、もう遅い。口惜しいけれどね。……君は、彼女のことを?」

「いえ、存じ上げません。僕はただ着物を買い受けただけなので。しかしながら、この着物からわかることもありました。失礼ながら、花崎さんは彼女と恋仲だったのでは?」


 単刀直入に切り出した時雨さんに、花崎さんはかすかに動揺したようだった。


「……そうだね。僕の家は裕福な商家でね。彼女は僕の家の女中だったんだよ、幼い時からずっと一緒にいてね。若かった僕が恋心を抱くのにさほど時間は必要なかった。いつか、一緒になりたいと思っていたんだよ」


 しかし、ある日を境に彼女は彼の前から姿を消してしまった。


 暇乞いすらなく、痕跡すら残さず。


 日夜恋しい人を捜し歩く青年に、親族たちは「おまえにふさわしい嫁ならほかにいくらでもいるのだから、諦めなさい。あの娘は金に目がくらんで、おまえを捨てるような女狐だったのだよ」と語って聞かせた。


 当時、良家の子女と見合い話が持ち上がっていた花崎さんのために、ご親族がたは彼女には身を引いてもらいたかったのだという。結果、いくらかのお金を掴ませて厄介払いをしてしまった。彼には一言の相談もないままに。


「ありふれた話だよ。だけど、僕は彼女を信じたかった。信じているつもりだった」


 ほとんど震えるような声を絞り出して、彼は視線を床に落とした。まるで告解でもするような不安げな顔で、組んだ指先に力を込めている。


「それでも、心のどこかで信じられなかったのかもしれない。あれ以来、だれを愛することもできずに一人身を貫いてしまったのは、また裏切られるのではと疑いが先に立っていたからなのかも……」

「それは彼女を信じていらっしゃったから、諦められていなかっただけでしょう」

「さあ、どうだろうねえ……。いずれにせよ、もうわからないことだ」


 諦めから浮かんだ微笑に、時雨さんは静かに視線を注いだ。


「信じて差し上げるべきかと。彼女も生涯独身で、日雇いの仕事を重ねていたそうです。その暮らしぶりは質素だったといいますから、大金を提示されても受け取らずに身を引いたとも考えられます」

「はは、どうしてそんなことをするんだ」

「あなたを愛していたからですよ。今でも、その思いは消し去ることができないまま残されているんです」


 信じていただけないかもしれませんが、と時雨さんは念を押した。


 花崎さんは、今度こそ時雨さんの言葉が理解できなかったのか困惑したように顔を上げた。


「この着物は女中をしていた女性が手に入れるにはあまりに高価な品です。お母さまが贈られたと先ほどおっしゃいましたね」

「ああ。彼女に似合うだろうと見せられたのを覚えているよ。山梔子の花が美しく、印象的だったからね」

「ええ、とても美しいです。そのため、これはこちらの推測です。あなたのご尊母を知らない部外者の世迷言と切り捨てても構いません」

「なんだろう」

「お母さまが、山梔子にかけて『嫁入りのくちなし』という言葉遊びで彼女を拒絶したのではないかと思えないこともないんです」


 花咲さんは、一瞬言葉を飲んだ。


「……ああ、そうか。そうだね。……気づきもしなかったけれど……、あの人のやりそうなことだ。彼女は僕より聡かったから、きっとその考えにも思い至っただろうね」


 花崎さんはうつむいて黙り込んだ。

 目を片手で押さえて、彼はしばらくそうしていた。やがて時雨さんを見つめた瞳には涙が滲んでいる。


「これを、売ってもらえないだろうか? いくらかかってもいい。今となっては、僕にとって彼女をしのぶよすがはこの着物しかないんだ。叶うならそばに置いて、我が身の戒めとしたいんだよ」


 しのぶよすが。戒め。


 私はふと、着物のそばに涙ながらに立ち続ける憑き物の女性の姿を思い浮かべた。


 きっと、彼女も彼を忘れられなかった。


 つらい記憶の形だとしても。なにひとつ形にはならなかった恋が、過去たしかにあったものだと、ただひとつ手元に残った着物を眺めることでせめてもの慰めにしたのかもしれない。


 ずっと、涙を浮かべてこの着物を見ていたのかもしれない。


 彼を想って。会いたい夜はこの着物を戒めとして。


 その記憶が今でもこの着物に焼きついている。あの悲しい涙は、これからも癒されることはないのだろうか。同じ思いを持つこの人なら、寄り添うことができるのではないか。


 そんなことを考え始めた私の隣で、時雨さんは静かに口を開いた。


「……そこまでおっしゃるなら、この着物はお譲りします。ただ、ひとつ条件があります。この着物はしまい込まず、いつもそばに置いて慈しんでやってください。そして、大変失礼なことを申し上げますが、あなた自身が管理をすることが難しくなった場合は焚き上げてください」

「……つまり、私の棺桶に入れたらいいのかな」


 たった一着の着物をそばに置くのも難しくなる時は、そう多くない。

 時雨さんの言葉の真意を察した花崎さんは、茶化すように言った。


「むろん、彼女が嫌がらなければそうしたいね。どうせ今更、同じ墓には入れないんだ。せめて、彼女が長年そばに置いたこの着物を冥途の土産にしたい。甲斐性のない私だったが、それくらいは彼女も許してくれるだろうか……」

「生涯を捧げられるほどに強く愛したあなたのことなら、きっと」


 時雨さんの穏やかな声を彩るように、窓から夕日が差し込み始めた。


 なだれ込む紅の光が、ゆらりと燃えるように揺らぐ。


 そして、陽炎のように揺らぎながら花崎さんの前に浮かび上がったのは、連夜、涙を見せていた女性の姿だった。


 彼女は白魚の指をしわだらけの花崎さんの頬に伸ばす。

 だけど、花咲さんの目には彼女は映らなかったらしい。


 ただ、彼女の向こうにある艶やかな着物を懐かしそうに、――いっそ愛おしさすら感じられるほどに優しいまなざしで見つめていた。


「それなら、あと少しだけ待っていてもらおう。じきに私も同じところに行くのだから、その時はたっぷり詫びをする時間があることを期待しながらね」

『はい。いつまででも待ちますから。旦那様は、どうかごゆっくり』


 微笑んだ彼女の目にはもう、涙は浮かんでいない。

 夕日に溶けた声なき声を、私は最後に聞いたような気がした。

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