日常生活に役立つ【魔法使い】の使い方!
筆々
その娘、魔法使い。
『前略、娘をほっぽり出して旅に出たお父様とお母様、私は高校卒業後、まともな人生を歩むことなく、約6年人生の浪人生活を経て、やっとの思いで今年から大学に通えることが決まりました。6年の浪人で得られたものは多く、なくしたものも多いですが私は元気にやっています。
私に起きた様々な事柄はわたくし自身を成長させ、それはそれは立派な成長を遂げたと自覚しているのですが、今あなた方はどこのジャングルを彷徨っているのでしょうか? 私の成長を見てもらいたいです。
さて話は変わりますが、お二人が呑気に過ごしている間、わたくしもまた金策や勉学というジャングルを駆け回り、いつかぶっ飛ばしたい人間をぶん殴るためにこれでもかと体を鍛え続けました。
1人という時間をこれでもかともらったわたくしでしたが、御二人がいなくなり自分のことでいっぱいいっぱいになり、友人はおろか一般教養までわたくしのもとから裸足で逃げ出していきました。
そんな環境にあったからかせっかく受かった高校も休みがちになり、何もする気の起きなかったわたくしは夜の繁華街に飛び出しては喧嘩三昧、大人の男の人にも劣らない屈強な肉体と鋭い拳が自慢になりました。
誰もわたくしに近寄らなくなりました。
そんな私も今年から大学生、非日常の日々から脱却しようと文字通り血反吐を吐きながら、勉強に学費を稼ぐためあらゆるコネを利用して様々なことをしてきました。
思い出すだけで心の中のどす黒い感情が沸騰しそうになります。
せめてお金だけでも置いていってくれたのなら、わたくしはこれほど荒んでいなかったのかもしれません。
ないものねだりで、しかもすでに終わったこと。今さらグチグチ言っても仕方がありません。
お金だけください。』
そこまで文字を綴り、彼女は便箋を丸めた。
最早前略の意味を履き違えている手紙の内容に、彼女はハフっと息を吐き、何をやっているのだろうとこれから始まる大学生活に一抹の不安を覚え、引っ越してきたばかりの部屋を見渡す。
ダンボールが積まれた部屋はもの寂しく、これから訪れる新たな生活に彼女は瞳を濡らしていた。
そんな彼女は七畳の畳張りになっている部屋のベランダに繋がる窓を開け、外に出てタバコに火を点けると紫煙を追って視線を上げ、きらびやかな星々と闇夜に紛れる雲のコンチェルトに魅入るように空を仰ぐ。
そして、深く深く煙を吸い込み肺の中に有害物質を取り込むと、その瞳から涙が溢れていた。
どうしてこんな目にあわなければならないのだろう。もっと凄惨な人生を送っている人間はいる? ただの甘え? そんな言葉が彼女の脳に残響しても彼女の容量は彼女のものでしかなく、弱音だっていくらでも口から溢れてしまう。
これが弱さだというのであれば、誰でもいいから救ってくれとついに彼女は吐き出してしまう。
先の手紙に上げたように彼女は現在1人、一般的な社会では誰にも頼ることができず、大学に入学したといっても年齢は24歳、周りの空気に馴染めるかもわからない。
新たな生活への不安、学生という時間を離れていたために同年代や学友との人間関係の形成を築く上でのブランク、挙げ始めたらキリがないほど彼女は大学生活に後ろ向きになっていた。
人と会話をするにはどうしたらいいのか、そのための行動を彼女は頭に思い浮かべ、それを実践する。
まずは敵意の確認、敵意がなければ武器を下ろし拳が届く距離を保って適度に力を抜く。敵意がある場合は武器の有無について詮索、そこから足の向き、相手の拳を常に横目で捉え、最短で組み敷くシミュレーションを頭にトレースする。
仮に依頼人がそばにいる場合、その依頼人の安全は確保できるかなどなどのエトセトラ。
彼女の対人スキルは戦場でやり取りされていたものとなっており、一般的なそれとは随分と離れていた。
さらにもう一つ、彼女が社会に馴染めないだろう力がある。
それは文字通り力なのだが、彼女はタバコを大きく一息吸うとすぐにフィルター近くまで燃え尽き、未だに燻っている先端に目を落とす。
そしてそのタバコを指で弾き宙に放るとそのまま引力の法則に従い、落っこちてきたのだが、彼女はタバコの火がついている箇所に拳を放つ。
火に拳を当てたわけではないのに、タバコはふわっと一度浮き、そして引力と拳の衝撃に葉を包んだ紙に巻かれた棒状のそれはクシャと潰れ、そのままベランダに置かれている缶の中に入っていった。
一体いつから本気で拳を放った時、離れた場所にあるスチール缶を風圧で潰すことが出来るようになったかを彼女は考える。
こんな風になりたかったわけではない。そんなことを思いながら彼女は唇を噛み締め、口いっぱいに広がる鉄の味に眉をひそめる。
彼女が大学に通うことを決めた理由も、ある時の仕事帰り、楽しそうにしている同年代の女の子たちが輝いていて、その時に携帯の画面に写った自分の醜悪な顔が恐ろしくなったからであり、このままその生活を続けていたら元に戻れないと落ち込んだからである。
生活が変わると考え事が多くなる。そんなことはわかっていると自問自答を繰り返す彼女は畳の上での胡座をかき、ため息をついた。
そもそも杏子の両親は彼女が高校受験を終え、志望校に受かった時突然荷物をまとめ、あとは一人で生きていけよと随分と軽いノリで出ていってしまった。
それ以来一度も連絡はなく、顔も見せていない。
杏自身、両親のいない生活に慣れたせいか彼らについて思うところはあるものの、別にいなくても構わないと思っている節があるが、それでも一つだけ言わせてもらうのなら金だけ置いていってほしかったと思っている。
なにせ両親は家と杏子だけを置いて何も残さなかった。そう、生活費や授業料も何もかももである。つまり金など一銭も残していかなかった。
そんな彼らに恨みを持っていないと言えば嘘になるが、それでもただぶっ殺したい程度の恨みしか持ち合わせていなかった。
こんなことを思い出しているからか、杏子はつい、鼻息を荒げる。
「ああ、ファック! あのアホ両親ども、どっかでバナナの皮に滑って大怪我して強制送還されないかしら!」
杏子はドンドンと地団駄を踏み、頭を掻きむしるのだがここがアパートで、引っ越してきたばかりなのを思い出したのか、足を止めそっとあちこちに耳を傾ける。
隣から壁を叩く音は聞こえてこず、杏子は胸を撫で下ろす。
「引っ越してきて早々、ご近所さんに嫌われるわけにはいかないわよね。うん、反応はないようね」
杏子は壁にかかった時計に目をやるのだが、時刻は19時前、昼間に一度お隣に住んでいるという人物に引っ越し蕎麦を届けに行ったのだが、そのときは不在で改めて隣の部屋の気配を杏子は探る。
気配を感じる。杏子は呟き、隣に誰かがいることを感じ取った。
すると杏子は一口しかないコンロで買ってきておいた蕎麦を茹で始め、隣への挨拶の準備をする。
そして茹で上がった蕎麦を盛り付け、それを手に外に出て隣の部屋のチャイムを鳴らそうとするのだが、ふと杏子は考え込む。
引越し蕎麦が一般常識か否か。
まるで早朝の筍のようにそんな疑問が彼女の頭に湧いたのである。
そもそも杏子の常識というのはまだ普通の生活をしていた時、テレビで見たことのある光景をなぞっているだけで、引越し蕎麦もそういう光景をテレビで見たことがあるということから行なっているのだが、それがフィクションだったのなら? それとももう廃れた文化だったのなら? 嫌がらせのためだったのなら? その光景を見たことがあるだけで、それ以外をまったく思い出せていない杏子は頭を抱えてうずくまってしまった。
そもそも蕎麦だったのだろうか、うどんだったかもしれない。素麺の可能性もあり、変化球でスパゲッティだったのかもしれない。蕎麦だったのなら十割蕎麦? 二八蕎麦? 田舎蕎麦だったかもしれない。
思考の渦に囚われた杏子は先ほど振り切ったはずの涙で再度瞳をコーティングし、蕎麦を持つ手を震わせた。
「何をやっているのよ私は。こんなの簡単じゃない。ただ隣に越してきた星駆 杏子です、よろしくお願いしますと言うだけ。難しいことなんて何もないわ」
杏子は数回の呼吸をすると未だ震えている手を呼び鈴に添えた。
自分以上に変な人間はいないだろう。もしいたとすればこのアパートは変人ハイツと呼ばれてしまう。そんな天文学的な確率はありえないと言い聞かせ、きっと間違ったマナーも笑ってくれる優しい人が出てくると呼び鈴を鳴らす。
ドタドタと忙しなくなる足音を杏子は注意深く聞いていた。音の鳴り方から小柄な女性だろうと予想をつけたため、いきなり熊のような凶悪な人相が出てくることはないと安心し、安堵の息を吐いた。
そして扉が開くと同時に杏子は声を出す。
「あ、あの! わひゃひ、とにゃりにこひへひは星駆ともうしまする! よろひふおねはいしまする!」
死んだ。杏子は確かにそう思った。
顔を真っ赤にし、脂汗を額に浮かばせ、羞恥からか乾いた笑い声が出る始末。
そんな杏子を呆けて見ていた小柄な可愛らしい女性はパッと咲いたような顔を浮かべ、瞳を輝かせた。
杏子は救われたような気がしていた。優しい人だった、人の失敗を笑わない天使のようなお隣さんだと安堵した。
そんなお隣さんが口を開いた。
「僕は魔法使いだよ!」
杏子は扉を閉め、引越し蕎麦を手にそそくさと部屋に戻っていった。
しっかりと部屋の鍵を締め、チェーンをし、窓のカーテンを閉め落ち着くために部屋の中でタバコに火を点ける。
「タバコは良いわ、否応なしに頭をクリアにしてくれるわ。いえそうじゃないわね、頭に淀んで溜まった思考の羅列を読み取りやすくしてくれる。思考の波をゆっくりにしてくれる。さて、それじゃあ思考しましょうか」
杏子は緩やかになった思考の波を1つずつ紐解いていく。
とはいえ、今の出来事は衝撃的で、例えるのなら潜水艦から筍が射出されるような違和感と驚きがあり、彼女は冷や汗を描きながら目を閉じて煙を吐き出した。
「私の記憶では、あんなことを言ってのけたのは宗教家のベンジャミンだけかしら。いや、でも奴の目には大前提として他者を食い物にするという下心があったはず。しかしあの子はどうだった? そんな邪な思惑は一切感じられなかったわね」
だからこそ困惑する。
彼女は本気だ、そんな人物と一体どのように接すればいいのか杏子にはわからなかった。
部屋の中には静寂……否、蛇口から滴る水滴が音を鳴らして落下しており、それ以外の音が聞こえなかったが、突如辺りにあるダンボールの1つから本が落下した。
元傭兵にも実践できる一般的な人との付き合い方!
まさに彼女のためにあるような人付き合いのための本、しかしあんなお隣さんを想定して書かれているのだろうかと杏子は本を手に、ただただその前例を祈るばかりであった。
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