空白の時間

やすんでこ

空白の時間

 心電図が起伏を失い、甲高い機械音が鳴り続ける。

「ご愁傷様です」慣れた口調で父の死亡確認をした医師は、目のやり場に困らないようにやや俯き加減に告げた。

 海華は今、自分が立っているのか座っているのか、起きているのか眠っているのかすらわからなかった。ただ一つわかるのは、溢れる涙で視界がぼやけていることだけだ。

「お父さん! 起きて! 起きてよ! あたしまだ親孝行してない……大学に入るまで生きててくれるって、約束したのに……」

 まだ温かさを保っている父の亡骸に、海華はいつまでもすがりついた。

「海華……」背中をさすってくれる母の声も震えていた。しかしすでに覚悟を決めていたのか、同時に冷静さも感じられた。

「お母さん、どうしよう、あたしとんでもない親不孝のままだった。どうしよう……取り返しのつかないこと」

「ちゃんとお父さんには伝わってたよ。今は思いきり泣きなさい」

 海華は父のベッドに顔をうずめ、声にならない声でしばらくの間、悔しさと申し訳なさで一杯になりながら、ただ父に謝り続けた。母がずっと背中をさすってくれている。

「あたし、最低な娘だったよね……お父さんの時計の仕事、散々否定して、いつも文句ばっかいって、ひどいこといって、いつもお父さんを傷つけてた」

 母が海華の手を取る。その手は父のそれより温かさがあり、生きている温もりでもあった。

「お父さん、最後に何か喋ろうとしてたでしょ」母は目元をハンカチで拭いながらいった。「何ていったのか、わかった?」

「……ううん、わからない」

「『海華は大丈夫』って最後にいったの。お母さんにはちゃんと届いた。お父さんね、海華が親不孝な娘だなんて、ちっとも思ってなかった」

「どうして? そんなわけない」

「海華は一人前にたくましく育ってくれた」そういって母は父の顔に優しく触れた。「ねえ、お父さんは安心したから『海華は大丈夫』だっていったんだよね」

 今の海華には母の言葉を信じる気にはなれなかった。たぶん自分はろくな娘じゃなかった。もしかしたらお父さんは、心の奥で自分が時計師の仕事を継ぐことを期待していたかもしれない。押しつける気はなくても、少しくらい興味をもってくれるかもしれない、そんな想いが少しはあったのではないか。

「ごめんね、お父さん。もっと前にちゃんといえばよかったのに」



 確かあれは中学一年になったばかりの四月のこと。クラスの友達作りもうまくいき、新たな環境に馴染むのが得意な海華の中学生活は、順調なスタートを切った。テニス部に入った海華は、校則などお構いなしに友人たちと夜遅くまで駅前で遊んでいた。いわゆる悪いグループに所属していたわけではなく、ただ単に遊び足りなかっただけだ。

 そして十三歳を迎える八月のとある日も、海華は夜遊びに興じていた。母は帰りが遅くなることをそれほど咎めなかったが、父はまるで違った。

「子どものくせに、こんな時間までどこをうろついてた!」

「あたしがどこへ行こうがお父さんには関係ないでしょ。出ていって!」

「親として、心配じゃないわけないだろうが」

「はいはい、わかったから。もうしないから。遅くまで遊びません、それでいいでしょ」

「次はないからな」

「しつこいな! わかってるっていってるじゃない!」

「お前の誕生日に、こんな説教をしたくはなかったが。まあいい、引き出しを開けてみなさい」

 ぎくりとした。引き出し……そこにはあの写真が。恐る恐る開けてみると、引き出しの奥のほうに隠していた例の写真が影も形もなくなっていた。代わりに見覚えのない小箱が置かれていた。

「じつは、その箱はお父さんからのプレゼ──」

「ちょっと! ここに入れてた写真どこやったの!」海華が声を荒げると、父はポケットから一枚の写真を取り出した。

「ああ、これのことか。偶然見つけてしまってな。ここに写ってる男の子は、お前の彼氏か」

 急激に頬が熱くなった。激しい怒りで体温が一気に上昇するのがわかった。

「返して!」

「さすがに交際は早すぎる。せめて高校生になってからにしなさい」

「そんなことあたしが自分で決める。お父さんに決める権利なんてない!」

「お前が従わないなら、こちらから相手の親御さんと話をする。うちの娘と別れてほしいと」

「そんな……」

「お父さんはな、お前のためを思って──」

「馬鹿みたい!」海華は小箱を取り出し、わかりきってはいるが中身を開けると、やはり父のハンドメイドの腕時計だった。

「いらない、こんなの!」勢いよく床に叩きつけると、衝撃に負けた繊細な部品たちが四方八方に飛散した。

「少し頭を冷やしなさい。今のお前とは話ができない」

 それだけをいい残し、父は海華の部屋から無言のまま去っていった。



 翌日に通夜が執り行われるので、先に家に帰って休むよう母にいわれた。

 ついこの間まで三人で暮らしていたのに、今日からは一人欠ける。いなくなった、死んだという概念は理解できてもしっくりこなかった。入院生活が続いていた父の工房の電気も、ここ一か月は一度も点いていない。遺品整理、という言葉が頭に浮かんだ。

 何となく電気を点けてみたくなり、スイッチを押すと、木製の台の上に細かなパーツ類や工具がびっしり並べられているのが目に入った。見慣れた光景だった。小さい頃は父が作業をしている姿を見るのが好きだった。いつから見なくなったのかは覚えていない。

 正面の壁に本棚があり、そこには時計関連の本以外に、家族の写真アルバムが納められている。

 表紙がピンク色の物が、確か海華の成長アルバムだったと思う。その海華の記憶は正しかった。広げて順にめくっていくと、生後間もない頃から高校に入学するまでの時系列に沿った内容が細かくまとめられていた。几帳面で職人気質な父らしいなと思った。

 そして、ふとあるページで手が止まった。中学に入学して、しばらくした頃のページである。写真一枚を貼れるサイズの枠があいており、そこだけ歯抜けの状態になっている。元々何かを貼ってあって、やっぱり剥がしたという痕跡もなかった。十一時二十三分となぜか写真ではなく時刻が手書きされている。『海華の成長を、父として嬉しく思った。』と短く綴られていた。時間だけ書かれても、その日に何があったのかまるで思い出せなかった。

 海華、と背後で声がしたので振り向くと、泣き腫らした目で母が静かにこちらを見つめていた。

「アルバム見てたんだ。生きてるときのお父さん、どんな顔してたかなと思って。お母さん、病院のほうは?」

「うん、またすぐ戻るつもり」母がアルバムを覗き込んでくる。「どれもいい顔してるでしょ。堅物だけど、海華の成長はお母さんに負けないくらい喜んでたんだから」

「そうなんだ……あとさ、ここのページ、一か所だけ空白になってるんだけど。時間だけ書かれててさ」

「どれ? ああ、これね」母は納得するように頷いた。

「知ってるの?」

「そこの作業台の引き出し、開けてみなさい」

「引き出し?」

 いわれるがまま海華は父の机の引き出しを開ける。そして、全身に鳥肌が立った。同時に込み上げてくるものがあった。海華の視界に入ったのは、腕時計だった。

「これ……中学の時に投げて壊した……」そこからは声にすることができなかった。

「お父さん、こっそり直してたんだよ」

 耐えきれなくなり、海華は母親に抱きついた。

「あたし、馬鹿だよ。もうお父さんに謝れない。どうしたらいいの?」

「謝ることは何もないの。お父さんはね、時計を壊されたことなんかより、海華が少しずつ大人になっていく姿を喜んでた。不器用ないい方しかできなくて、海華を傷つけることもあったかもしれない。けど、わかってあげてほしいの。時間を見てみなさい」

 海華は腕時計の時間を確認した。十一時二十三分──アルバムの空白に書かれていた時刻と一致している。

「もしかして、これ、あたしが時計を壊した時間……」

「そう。あのときに針が動かなくなっちゃったみたいね。修理はできたけど、ネジを巻いてないから時間はあのときのまま進んでないのよ。アルバムにも書いてあったけど、お父さんは海華のことをひどい娘だなんて思ってない。成長してくれてありがとう、親っていつもそういう気持ちだから」

「じゃあ、お父さんはあのときのこと、許してくれたのかな」

「当たり前じゃない。よかったね、お父さんが時計師で」

 父があのときの時間をアルバムに書き残してくれたおかげで、海華はようやく確信をもつことができた。

 自分は深く愛されていたのだ、と。

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空白の時間 やすんでこ @chiron_veyron

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