リストカット

しゅーめい

第1話 リストカット

 今日も僕は扉を開ける。


 部屋に入るといつものように君が座っている。左手を床に突き、座っているような寝転がっているようなその中間くらいの姿勢で座っている。例えるなら人魚姫だろうか。岩に座っている人魚姫にそっくりだ。


 君はとても美しい。潤んだ瞳に長いまつ毛、柔らかそうな唇に鎖骨あたりにあるほくろ、そしてすらっと長く伸びた色白の手足。


 でも、その手首にはいつも赤い色がにじんでいる。そしてその周りにはかぴかぴに乾いた血液が浅黒くなり、膿で黄ばんでる。


 それはリストカット、通称リスカによってできたものだ。君は僕がここに来るといつもリスカをする。


 僕はその傷跡が嫌いだった。そもそも自分の手首を自分で切るなんてどうかしている。まったく意味の分からないことだ。本当に理解できない。


 最初、君がリスカをしたところを見たときとても怖かった。ツーっと赤々とした君の液体が腕を垂れていく。それは何というか芸術作品を見ているようで見入ってしまう。


 でもその液体が血だと分かったとき、背筋がぞっとした感覚を今でも忘れない。本能的に恐怖を感じていたんだと思う。


 君はリスカをしているとき、とても幸せそうな顔をする。だから何度も見ているとリスカのことなんかどうでもよくなり、ただ君の幸せそうな顔を眺めるだけになっていった。そんな君の表情が僕は大好きだった。


 つやのある長い黒髪を指先でいじりながら艶やかな笑みを浮かべ僕を見つめる。僕はすっかり君に魅了されていた。


「どうしてそんなことをするの?」


 いつものように僕は君に問いかける。なぜリスカをするのかはもうどうでもよくなっていたが、なぜそんなに幸せそうなのか、僕は不思議でたまらなかった。だからいつも質問するのだが、君は一度も答えたことはない。答えないと分かっていてもそれくらいしかしゃべることが思いつかないのでつい毎回聞いてしまう。


 でも今回は違った。君は嬉しそうに目を細め弾力のある唇を動かししゃべり始める。


「人はね、つらいこと、困難なことを通して成長し、強くなれると思うの。それを乗り越えることで新しい何かに自分は慣れる。手首を切ろうとするとき、私だって怖いわ。何度やっても薄れずに私を襲う。傷口から血が手てくるんだろうな、とか、にじむような痛みがするんだろうな、とか毎回考えてしまう。でもこれを乗り越えたら何か変わるかも。そう信じてるわ」


 君は右手にカッターを手にし、左手首へと刃を置く。


「痛みを感じているときって一番人が生きてるって実感できる瞬間じゃないかしら。寝ているときであってもぱっちりと目を覚ますわ。どんな快楽だって痛みにはかなわない。身体じゅうに雷が落ちたような前進感。。脳みそが焼けこげるような後退感。私はあれ以上の感覚を知らないわ。生きている中で間違いなく最大量の情報を感じとっている。これを幸せ以外の言葉で説明できるかしら。いいえ。絶対にできないわ」


 君はそう話しながら、幸せを噛み締められるようにゆっくりと刃を進めていく。


「手首を切り終えたとき、たまらない達成感に満たされる。だからまた満たされたくなってしまうの。あの快感が私の脳裏にべったり張り付いて離れない。恐怖は希望、痛みは快楽の裏返し。再びリスカをするとき、胸をときめかせるけれどもやっぱり恐怖心は消えない。いくつもの感情が解けきれず混じり合いながらもそれを私の脳が処理しようとするとき、人として生まれてきたことに喜びを感じるわ。ほかの動物はこんなに複雑なことはできない。怒りたいときに怒り、喧嘩したいときに喧嘩をする。複数の感情を同時に持つなんてことはないわ。だからもう一度カッターを手にしたときのぞわぞわとした感覚は特別」


 君は手首を切り終え、カッターを遠ざけると再び最初の場所へとセットする。


「あぁ・・・幸せぇ・・・」


 君は熱い溜息を洩らし、小首をかしげうっとりとした表情で僕を見つめてくる。


 その瞬間、視界がぐらっと傾いた。




 気が付くと僕は天井へと手を伸ばし仰向けに自分の布団で寝ていた。


「それなら僕は今幸せということなのか・・・」


 そのとき、伸ばした方の手首にさっと見えない切り傷ができた感覚があった。


 あの日救うことのできなかった君の夢という刃物を毎日のように心へと無意識に差し込んでしまうのはそういうことなのだろうか。

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リストカット しゅーめい @xsyumeix

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