咲馬の葛藤

 工場見学、というのはうわべであり、本当の狙いは咲馬や竜生、それにソルジャー部の部員たちを連れていくことにあるのではないか。研究所が新たに建つということは、メディアも取材に来るはずだ。そこでソルジャーの育成、教育に熱心な学校として全国に広めてもらう。

 すでに波瀬の視線は手元のプリントに戻されている。当たりだろうなと咲馬は思った。

 二時間目の休み時間。咲馬は竜生に呼び出され、二人で池のある中庭まで来ていた。濁った水の中で三匹の鯉が泳いでいる。彼らはこの水の中の世界しか知らないのだろう。ベンチに腰かけながら、咲馬はふとそんなことを考えた。

「で、僕に話があるんだって?」咲馬は横に座っている竜生に訊いた。

「おう。元気ねえなと思ってよ」竜生は、咲馬の肩を叩いてきた。「十秋ちゃんの糸が斬られたことがショックだったのはわかるけど、でも、お前自身を責めるのは違うと思う。そんなことしたら、余計に十秋ちゃんは傷つく。と俺は思うんだが」竜生はいつになく声を小さくして告げた。

「わかってる。ただ、少し一人で考えたかっただけだから」

「ソルジャー部は辞めないんだよな」

「ああ」

「んじゃ、心配はいらねえみたいだ」竜生はぽんと膝をたたき、立ち上がる。「今日の放課後、少し恋愛研のほうに顔を出す。咲馬も一緒にどうだ?」

「僕は部員じゃないよ」

「気にしないって、そんなこと。ソルジャーってだけで歓迎されたんだぜ、俺たち。それに、今日は羽野先輩、部活に顔出すの遅れるっていってたし。絶好のチャンスってわけ」

「羽野先輩もびっくりしてると思うよ。自分のことをこれだけ何とも怖がらない下級生は初めてじゃないかな」

「ありがたく、褒め言葉として頂戴しておく」

「恋愛研のほう、少し顔出してみようかな」

「おお! ほんとか! よしっ。たまには心の底から楽しまねえと」白い歯を見せ、竜生はそそくさと教室に引き返していった。咲馬を残したのは彼なりの配慮だろう。

 再び池のほうに目をやっていると、視界の端に駆け抜ける何かを捉えた。誰かが廊下をものすごい勢いでダッシュし、職員室のある棟へ向かっている。その姿には見覚えがあった。

「夕菜さん……」

 このまま教室に戻ってもいいのだが、何となく彼女の後を追いかけてみたい気分になった。職員室前に着くと、咲馬の読みは正しく、夕菜が扉付近の廊下をぐるぐると頭を抱えながら旋回しているところだった。方向感覚を失った鳥ごっこでもしているのか。

「あの……」と咲馬が呼びかけると、向こうもすぐに気付いた様子だった。

 彼女はなぜか咲馬に抱きついてくると、「どうしよどうしよ!」とひどく慌てた声で耳元に告げてくる。佐奈島先輩は爽やかで優しい香りがする一方、夕菜はどこか甘い香りがする。というか、学校の廊下で、二人で抱き合っているこの状況は一体──。

 そんなこんなを考えあたふたする暇もなく、即座に夕菜は咲馬から離れ、今度は両肩をがしっと掴んでゆすってきた。

「あのね、あのね、朝宿題出すの忘れて、んでめっちゃ厳しい先生でね、一秒でも遅れたら受け取ってくれないの。もう、何で寝坊しちゃったかなあ」じたばたと足踏みをする。

 聞けば、その先生とやらは咲馬のクラスで昼一で授業をする予定である、地理の前島だった。厳しいという噂はすでに一年生の間でも流れている。

「素直に謝れば、受け取ってもらえるんじゃないですか」

「だって今日先生朝から機嫌悪いんだもん。あーもうどうしよ……」頭を掻きむしる。

 最終的に夕菜は宿題を提出することを選んだようで、しばらく待っていると、晴れやかではない曇り空のような表情で夕菜が戻ってきた。その手に宿題のワークが握られていないところを見るかぎり、一応受け取ってはもらえたのだろう。

「二十点引きだってさ。はあ、通知表が心配。またお母さんに怒られるー……もう、こうなったら洋平にジュース奢ってもらわないと」

 なぜその考えに行く着く、と思わず疑問文を投げたくなったが、この人の場合すべてのことを何となく、とかそういう気分だったで片付けられそうなので、黙っておくことにした。

 教室に戻ると、竜生と十秋が楽しそうに話していた。入学式の頃はどことなく竜生を苦手にしているようだった十秋も、今は屈託のない笑顔を浮かべている。

 でも、やはり気になる。糸を斬られる前までの十秋の表情とは、微妙に何かが違っているのだ。それが橙ノ糸に起因するものであることはわかっているが、具体的には何もわからなかった。無視してはいけない。彼女が失った想いを、いつか自分が見つけてやらねばならないのだ。

「お、帰ってきた」竜生がこちらに手を振ってくる。

 二人の元に寄ると、十秋が相変わらずの明るい表情で話しかけてきた。

「あたし今日病院に行かなきゃいけないから、部活はお休みするね。羽野先輩にもそういっといてほしい」

「具合が悪いの?」

 咲馬が訊くと、十秋は口元に力を入れ、わずかに俯いてから話し出した。

「人間狩りの未成年の被害者は、被害に遭ってから二か月間は定期的に精神科に通院しないといけないの。瞬間的に感情を断絶される影響は、まだあまり解明されてないからね」

 聞きながら咲馬は胸が苦しくなった。その気持ちを見抜いてか、十秋に笑顔が蘇る。

「咲馬くんのせいじゃないから」と咲馬の両手を優しく包んでくる。「確かに斬られる前のあたしがどんな感情を抱いてたのかはわからない。けど、橙ノ糸ならむしろよかったって考えたいの。悩みや葛藤がなくなって、思い切ってこれからの人生楽しめそうだし」

「そうだね……そうだといいな」

 教室の前の扉が開き、地理の前島が入ってきた。チャイムの二分前には必ず教壇に立っている、一言でいえば典型的な嫌われる教師。

 ただ、さっき夕菜がいっていたように、今日が特別不機嫌そうには見えなかった。いつもと変わらない不愛想な顔をしている。

 しかし、彼から一本の赤ノ糸が天井に向かって伸びている。

「朝の登校時間、こっぴどく二年生の生徒を叱ったらしいぜ。何したかまでは知らねえけど。結構もめてたらしい」竜生がひそひそと告げた。

 咲馬は今の言葉のどこかに引っ掛かりを覚えた。だが、その違和感は泡のように消え失せ、結局正体は不明のまま、始業のチャイムが鳴った。

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