十秋の糸1/2
──橙ノ糸。
咲馬は以前、竜生からいわれたことを思い出した。十秋から自分に向かって紫ノ糸が伸びていないことが気になる、と。あれだけ好意的な態度を示しておきながら、咲馬に対して友好の感情、仲間意識といった明らかに紫ノ糸に反映されそうな感情が出ていなかったということだ。
そう、ずっと彼女から出ていたのは紫ノ糸ではなく、橙ノ糸だった……。
「よっぽど意外だったみたいだな」梶尾が嘲笑する。
「信じるわけじゃない。君はソルジャーじゃない、普通の人間なんだから」
その瞬間、梶尾の眼光が鋭く光ったのが街灯の明かりのおかげでわかった。
「俺は本物のソルジャーだ。剣の腕だってお前より遥かに上だ」
そんなの嘘だ、という言葉を飲み込み、咲馬は唇を噛みしめた。実際に十秋の糸はこの場で斬られたのだ。証拠を目の前で見せつけられている以上、咲馬に反論の余地はなかった。咲馬は着実に一歩ずつ二人のもとへ接近する。
「だったらなぜ正体を隠す? もし仮に君が本物のソルジャーだとして、何のためにそんなことをするんだ」咲馬は声を荒げた。
梶尾は十秋の喉元に刃先を押し当てた。咲馬をこれ以上近づけさせないための威嚇だろう。
「やめろっ!」
咲馬の声に十秋は反応しなかった。糸を斬られた際の急激な精神的変化により、意識レベルが低下しているのだろう。
「推薦で入ればソルジャー部への入部は半強制的。推奨とはいうが、加入率は九十パーセントを超えていると学校の説明会のときに聞かされた。そのとき俺は思った。確かに俺はソルジャーだが、その能力を磨くよう誰かに指示され強制され、おまけにチートみたいなソルジャー推薦枠で入ってきたと他の人間に思われたくなかった。だから己の実力で入った。小狡いお前や久松とは違って。ソルジャーの力は俺が好きなときに好きな目的で好きなだけ使う。俺自身が幸せになるために」
「君のいいたいことはよくわかったよ。でも十秋は関係ない。解放してやってくれ」
「お前の糸を斬ったらすぐにでも解放してやる」
そのときだった。
「おい、咲馬!」
竜生の声だ。数秒して、羽野先輩のよく響く声も同じ方向から聞こえてきた。やがて彼らの姿が見えてきた。
「あっ、お前、梶尾!」
咲馬の置かれた状況を素早く理解したのは部長である羽野だった。
「彼女の糸を斬ったみたいだな。よくもうちの部員に手を出してくれたな」
羽野が刀を抜き、梶尾から咲馬に出ている赤ノ糸を斬ろうとする。しかし梶尾の刀がそれを見事に阻止する。機敏な反応だった。羽野が充分に梶尾を引きつけてくれているおかげで、咲馬を狙う気配はなかった。他の部員たちは羽野先輩をいつでも助けられる中距離状態を保ちつつ、辺りからの新たな襲撃に警戒している。
その隙に風間が、咲馬と十秋がいるほうへ駆けてきた。梶尾の相手は羽野一人で対処できると判断したのだろう。
「大丈夫、なのか」相変わらずの片言である。そして着物姿である。
「十秋が、糸を斬られたんです」
「橙ノ糸か。ずっと前から、見えていた」
「見えてたって、風間さんは十秋から僕に糸が出てたことを見抜いてたんですか」
「そう思ってもらって差し支えない」
橙ノ糸や緑ノ糸を視られる風間だけが、本当の十秋を知っていたのだ。
「十秋……」咲馬は彼女の顔を正面から見据えた。「君は、何を思っていたんだ」
「わからない」と意識が鮮明になってきた十秋が呟いた。「あたし、わからない……」声が震えている。
十秋にとって大切な感情、それは一体何だったのだろうか。
「安全なところへ」と風間が十秋に肩を貸してやり、咲馬に護衛を任せてきた。梶尾以外のブラックが徘徊している可能性は充分にあるからだ。辺りを警戒しつつ、咲馬たち三人は梶尾の死角となる位置に移動しようと試みる。
だが──。
「逃がさねえ」羽野の一振りをかわし、咲馬たちのほうに向かってくる。このままだと三人とも糸を斬られる……。
「淳太!」と羽野が自分の日本刀をカーリングのごとく滑らせ、それは梶尾の横を通り抜け、風間に渡された。
梶尾の一振りを左手の刀で受け、さらにもう片方で咲馬に伸びている糸を斬ろうとしたのだが。
すぐ近くにある民家の影から凄まじい勢いで回転するナイフが飛んできた。それを咄嗟に右手の刀で弾く風間。
その一瞬の隙を突き、梶尾が勢いよくナイフが飛んできたほうへ逃げ去っていく。仕留めるべく風間が追いかけようとするが、彼の手を咲馬は掴み、動きを止めた。
「おそらく援軍です。敵ソルジャーは何人いるかわかりません。いくら風間さんでも危険すぎます。再襲撃をかけられる前に、ここは一度、撤退しましょう」
咲馬の意見に風間は深くゆっくりと頷いた。
「賢明な判断。差し支えない」風間は鞘に刀をしまった。
羽野先輩や他の部員たちが、十秋のもとに集まってきた。
「十秋ちゃん、大丈夫か……」竜生が心配そうにいった。「ったくあの野郎、何の抵抗もできねえ十秋ちゃんを狙うなんてよ、卑怯すぎるぜ」
「斬られた糸は──」と訊いたのは羽野だ。「もしや、淳太が前に話していた、橙ノ糸」
「そうみたいです」と咲馬が代わりに応える。「十秋は僕に対して、たとえば葛藤のような感情を抱いていたんだと思います。それを、梶尾に斬られました。僕の責任です。ソルジャーでもない十秋を一瞬でも一人にしてしまったから」呼吸が苦しい。悔しさで視界がかすみ始める。必死に気持ちの整理をつけようとする十秋を見ていると、一層つらくなる。
すると、咲馬の頭に温かい手が置かれた。佐奈島のものだった。彼女はゆっくりとかぶりを振った。
「咲馬くんのせいでこうなったんじゃないんだからね。あたしがきちんと指示を出すべきだった。あなたが梶尾くんを追うのを止めるようにいうべきだったのはわたし」
「責任の有無は後で話す」羽野がいった。「ひとまず安全な場所へ避難する。本日は撤退する。やむを得ない。舞山さん、立てるか」
十秋はこくりと頷くと、今度は咲馬の顔を見上げてきた。
「あたしは大丈夫だよ。ちゃんと咲馬くんと出会ったときのことも覚えてるし、入学式のこととか、教室で話したこととか、ちゃんと全部覚えてるからね。だから安心して」
にこりと微笑む十秋。
だが──。
微かに違う。そこにあるのは、咲馬の知っている十秋の笑顔ではなかった。彼女は屈託のない笑みを浮かべている。
こうしてみると、わかった。咲馬に向けた橙ノ糸を斬られる前まで、十秋の笑顔は微妙に引き攣っていたのだと。
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