アイワナビー!

ぽんぽこ太郎

1章

第1話

 ここに、一冊のスケッチブックがある。

 クラスの誰かが落としていったものだろう。僕が忘れ物を取りに教室に戻ると、床にぽつんと落っこちていた。

 焦げ茶色の変哲のない表紙だ。なんとはなしに拾い上げて、誰のものか確かめようと表紙を眺める。けれど名前は書かれていない。仕方なく、スケッチブックを開くことにした。

「……」

 開いて一瞬、驚いた。スケッチブックに描かれていたのはアニメに出てくるような女のキャラクターばかりだったからだ。柔らかく丸っこいデフォルメされた少女が主だった。線が雑で、イマイチキャラクターの判別がつきづらい。普段目にしている商業のイラストと比べれば上手くないなという感想が出るのは当然だが、落書きとしてはこんなものだろう。

 僕は、これを描いたのは誰だろうかと予想してみた。うちのクラスの床に落ちていたのだから、同じクラスの人間だろうと思う。

 ひとりひとり頭に浮かべて検討してみる。といっても、まだ高校生活が始まって一ヶ月も経っていない。クラスのやつらの顔と名前が一致しているとは言い難い。それでも顔くらいはある程度覚えている。頭にぼんやりとクラスメイトの顔が浮かんでは消えていく。

 イラストを描くようなやつだから、地味で目立たないやつだろうと決めつける。古来より、絵を描く人間なんてのは、教室の隅っこに座っていて、それで、はしゃぐグループを遠巻きに眺めている。そういうものだと、相場は決まっている。違うかもしれないが、そんな気がする。偏見か。

 地味な生徒を何人か思い浮かべながら、ページを捲る。それでふと、思考が絵に引き戻された。しばらくは同じような少女の落書きが続いていたが、様子が変わったのだ。それは漫画だった。鉛筆の線でコマをわけて、雑ではあるが、漫画のような体裁を整えている。興味を惹かれて、読んでみることにした。

 それは、だいたいこのような内容だった。

 イマイチ特徴のない、普通の女の子が食パン(一斤)を加えながら家を出てくる。どうやら学校に遅刻しそうらしく、ひどく慌てている。路地の角を曲がろうとした時、向こうから美形な男が飛び出してくる。しかし、その瞬間、女の子は靴紐を結び直すために立ち止まる。男の子は何事もなく去っていく。女の子は学校に着く。しかし、奮闘虚しく残念ながら女の子は遅刻していた。ぎゃふん。(ぎゃふん……………………?)おしまい。

「……なんだこれは」

 微妙だ。

 果てしなく微妙だ。

 いや、微妙なんていう言葉もふさわしくないだろう。面白くない。何を思ってこんなものを描いたのか、さっぱりわからない。

 ストーリーもおそまつだし、ギャグはつまらない。他に褒めるところもない。別に絵はうまくないし、リアルなキャラを描くのが苦手なのか、常にデフォルメっぽいイラストになっている。しかもそのデフォルメは絵が下手なのを誤魔化そうとする浅はかな意図が見え透いているものだ。つまり、情報量が少ない。男はイケメンらしいが、顔に特徴がなさすぎてそうは思えない。というか、途中から描くのが面倒になったらしく、顔の真ん中にイケメンと殴り書きされているところはいっそ清々しい。建物や背景も適当だし、途中出てきた犬はカバかと思うような顔をしていた。

 絵も上手くなければ内容に光るところもない。唯一褒められるところがあるとすれば三ページ程度とはいえ最後まで終わらせているところだろう。とはいえそれも、最後に「おわり!」と付け加えただけの強引な感じは否めないが……。

 その漫画の後は特にめぼしいものはなかった。同じような落書きが延々続いているだけだ。スケッチブックは半分ほど使い切られている。白紙のページが続いていくのを確認して、僕は、それを閉じた。

「ふむ……」

 顎に手を当て、少し考え込む。いったい全体このサッパリ面白くない漫画をこいつは、どういう思いで描いたのだろうか。

 ただの暇つぶしか。気の迷いか。それとも、本気で描いたのか。

 本人に聞いてみなければわからないが、だがしかし、大事なのは、ここにつまらないが、それでも漫画が描いてあるという事実だ。

 それで、僕には思いついたことがあった。

 天啓に似た閃きが降りてきた瞬間、がらりと音を立てて教室のドアが開いた。

 カーテンの隙間から差し込む夕暮れの光が、そいつを照らし出す。女だ。

 とても背が低い。制服を着ていなかったら、小学生とも間違えそうなレベルだ。太い三つ編みを背中に垂らし、顔は極端な丸顔。およそ垢抜けたという表現からは縁遠い顔立ちをしている。制服は、サイズを間違えたのか、それとも成長期を信じたのか、明らかにぶかぶかで、長く伸びた袖が手まですっぽり隠している。

 誰だっけか、と一瞬考えてから、思い出す。荻原芳子。同じクラスの女だ。

 ──もしや、と僕は思う。

 荻原は教室にいた僕にすぐに気がつき驚いた顔をした。それからきょろきょろとあたりを窺った。何かを探している目が、僕の手にしたスケッチブックで止まる。予感はあたった。

 荻原は傍目から見ても明らかなほどに、愕然としていた。スケッチブックに気がついた瞬間目を丸くし、息を呑む。遠くからでもその掠れた呼吸音は聞こえた。それからあわあわと身体を震わせて、腕を口もとに持ってきて、叫んだ。

「あー!」

 ──う、うるさい。

 僕は慌てて耳を塞いで悲鳴が止まるのを待つ。パニックに陥った猫のようにその場でぐるぐる駆け回った挙げ句、荻原は立ち止まってこっちを指差した。

「それ、それ……それえっ!」

 まだ耳鳴りのように残る悲鳴に顔をしかめながら、僕はスケッチブックを掲げてみせた。

「これ、お前のか」

「……」

 こくこくと荻原は頷いた。そして手をばっと差し出す。返せ、ということだろう。

 その頼みを聞く前に、僕は少しこいつと話がしてみたくなっていた。

「絵を描くんだな」

 荻原の目が面白いように見開いていく。

「み、みみみみ見た、見た、見たんです、か?」

「ああ。上手くはない……いや、下手だな」

「〜〜〜っ!」

 荻原の顔が真っ赤になって声にならない悲鳴をあげる。

「ど、どどうして、勝手に、ひ、ひ、ひ人の、見るん、です、か!」

 羞恥と嘆きは怒りに変わって僕へと向けられたようだ。真っ赤な顔で涙を浮かべながら、荻原は抗議する。

「仕方がないだろ。名前も何も書かれていなかったからな。それに、落ちているノートがあったら、誰だって開いてみたくなるだろう」

「ぐぬぬぬっ……」

 名前も書かれていないのだから、開けるのは当然だ。僕の言い分に利があることを認めているが、けれど文句は言ってやりたい、その狭間で荻原は悔しげに唇を噛む。

「だ、だからって、その、へ、へへへへへへたあって! そ、そんなことあなたには関係ないでしょうっ!」

「ふんっ。知るか。下手くそだから下手だと言ってやったんだ。僕は思ったことをそのまま言ったまでだ。正直者なんだよ、昔から」

「き、気遣いが足りないんじゃないですか! 中を見たって、見ないふりをするとか、まして、その、ひ、ひどい……」

 自分で自分の絵を下手だとは言えなかったらしい。後半は悲しそうな顔をして俯いてしまった。だが僕は、安い同情をくれてやるような、つまらん人間ではない。

「なぜ僕がお前のために嘘をついてやらなくちゃいけない。お前のことはまったく知らないからな。気を遣ってやる理由もない」

「うううっ……」

 荻原は肩を落とし、すっかり泣きそうになっていた。僕はスケッチブックを開き、ぱらぱらと捲る。その動作に荻原が慌てる。

「か、返して」

 とたとたと荻原は僕の方へ近寄ってきた。手を伸ばし、スケッチブックを取ろうとする。僕はひょいと身をかわし、

「ああそうだ。ついでにあれも読んだぞ。あの、なんだ、びっくりするほど、面白くない漫画」

「ぎゃー!」

 荻原は悶絶し、その場に膝をついた。戦意を喪失したらしい。憐れだ。

「なんだ、この、しぬほどつまらん漫画は。何がしたかったんだ? ありきたりな展開を揶揄してコメディを狙ったのか? しかしそれにしてはギャグも面白くない。絵も下手だ。キャラクターは雑すぎて、誰が誰だかわからん」

「ぐはっ」

 荻原は胸を抑え、吐血するポーズで倒れ伏した。

「お前、どうしてこんなもの描いたんだ?」

「ど、どうしてって。そんなの、別に。ただの暇つぶしですよ」

「暇つぶしか。なるほどな」

 僕は近くの机に腰掛け、脚を組む。パラパラとスケッチブックを捲って眺めていると、荻原が不安そうに話しかけてきた。

「あ、あの……」

「なんだ」

「それ、か、返して」

「ちょっと待て」

「え……?」

 戸惑う荻原を無視して、僕はもう一度スケッチブックの漫画を読み直した。最初から最後まで、丁寧に眺めていく。また最後まで読んでみて思うのは、やはり、面白くないという感想だ。

「なあ、確か、荻原とかいったな。お前、漫画を描くことに興味があるのか」

「え? それは……別に。興味があるってほどじゃ」

「でも、まったくなかったら描いたりしないだろう」

「はあ。まあ、そうかもしれませんけど」

 荻原の答え方はひどく曖昧なものだった。僕はスケッチブックをパタンと閉じる。

「もっと上手く描けるようになりたいとは思うか?」

「いえ、別に……。でも、上手になったらそれはもちろん嬉しいですけど……」

「どうしても描いてみたい、と思うものはあるか?」

「なんですか、それ。特にないですけど……。あの、それより早く返してくださいよ。わたしのスケッチブック」

「まあ待て。僕の提案を一つ聞いてみないか」

「はい?」

 僕はひょいと机から降りる。スケッチブックを前に出すと、荻原はほっと息を吐いた。手を伸ばし、スケッチブックを受け取ろうとする。けれど僕は、スケッチブックを手にしたまま、離さない。

「あ、あの……」

「荻原芳子よ」

 戸惑う荻原の顔を見下ろして、僕は言った。

「お前、漫画家になれ」

 荻原は僕を見上げたまましばらくぱちぱちと瞬きを繰り返した。それから、うすのろの頭でようやく言葉を理解したのか、首を傾げて、

「はい……?」

 まったくもって意味がわからないという顔をしていた。


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