Ⅳ.エミールとの邂逅‐①

 荒野をひたすら南に進むと、エウフラーテス川に突き当たった。

 そこから川に沿って、さらに行軍は続いた。

 ローマ軍として渡河した時とはまた違った景色だが、この川の周りには豊かな大地が広がっている。起伏のある草原に、ポプラ、ギョリュウなどの低木が点々と生え、獅子や兎、蟻んこといった、大小さまざまな動物がそこに息づいている。

 川沿いに進んで五日ほどが経った頃、パルテミラ軍はこの広い草原で狩猟祭を催した。

 狩猟好きな女帝の気まぐれで急遽決まった催し物だが、それが本来は軍事訓練を兼ねたものであることを、オレはすぐに知ることとなった。

 低木林の向こう側から、だんだんと近付いてくる笛の音。

 その音に追い立てられるようにして、鹿の群れが飛び出す。

 だがその先には、人を乗せた鹿の大群が待ち構えていた。驚きと困惑で立ち往生する哀れな鹿たちを、変な鹿の大群が瞬く間に包み込んだ。そして変な鹿に乗った人間が、次々に馬を走らせて矢を射かける。

 包囲の中でなす術もなく狩られていく鹿たちは、まさに先日の戦のローマ軍だった。

「いつまで鹿と呼んでいる。我々が乗っているのは霊羊れいようだ」

 そう教えてくれたのは、先日の戦いでパルテミラ全軍を指揮したスレイナだ。

 霊羊れいようとは、テシオンの東にある、アシュタウィア山脈に棲む動物らしい。言われてみれば、確かに角は枝分かれしていないし…………すまないが、それくらいしか鹿との違いが見出せなかった。

 先日は総勢一万一千の兵がローマ軍と戦ったというが、そのうちの九千までが、この霊羊れいように乗った軽騎兵だった。狩りを見ていても、一人としてスパルタクスの将軍たるオレに劣る騎手はいない。よくもこれだけの練度の騎兵を、これだけ揃えたものだ。

 宴のあとで聞いた話では、彼女たちも女精エレノアといって、幼精エレノスと同様、魔法を介して生まれてきたらしい。見かけ上は、やたら美女が多いこと以外、特に変わったところはないのだが……

 霊羊れいように乗るには重そうな女帝は、やはり馬に乗っていたが、馬術も弓術もなかなかのものだった。部下たちに混じって狩りを楽しんでいる。

 やがて鹿を三頭ほど仕留めてから、暇そうにしてるオレに、弓と矢筒を投げてよこした。

「お前もやってみたらどうじゃ? どれほどの腕前か、私に見せておくれ」

 オレは危うく矢筒を取り落とすところだった。

 おいおい……オレはまだパルテミラに降ったわけじゃないんだぜ? そんな奴に武器を与えていいのかい? 射っちゃうぞ?

 もっとも、オレにはそんなことをする度胸も動機もなかった。

「御意!」とカッコよく応じて、包囲の中に馬を飛ばした。

 さてと……どいつにしようか。

 獲物を探すフリをして、狩猟祭が終わるのを待っていると、鹿の群れの中に一頭の猪を見つけた。こちらに向かって突進してきている。

 あれなら狙いやすそうだ。

 仕方なく、オレは弓に矢をつがえ、馬を走らせた。

 弓術にはそれなりに自信があったが、疾走する馬の上から射るのは初めてのことだった。

 左手に弓、右手に矢を持ち、脚だけで馬を操る。ここまではなんとかできた。

 あとは簡単だ。まっすぐ突っ込んでくる的に、いつも通り――

 ガクンッ

 矢を手放したのと、着地の衝撃で手元がブレたのと、ほぼ同時だった。

 狙いすました矢は、猪の手前の地面に落ちていった。

 今だとばかりに飛び掛かる猪。その鼻が、オレの腹に深々と突き刺さった。


     *  *  *


 その日、オレは捕虜になってから始めて、部下との面会を許された。

 あんな無様なやられ方をしたってのに、スパルタクスの仲間たちは変わらずオレを慕ってくれていた。心の中では、馬鹿だの間抜けだのと言っているのかもしれないが……とにかく、元気そうでなによりだ。

 スパルタクスの捕虜は、このままエウフラーテス川沿いの都市に移送される。移動は厳しく制限されるようだが、ある程度の自由は約束されていた。

 ただ、オレの場合は、女帝の誘いを受けるか否かで、待遇が変わる。

 スパルタ戦士としての意地を貫くならば、部下たちと行き先は同じだが、もし、パルテミラに忠誠を誓うのならば、ここで部下と別れ、女帝の本隊について行くことになる。

 行き先は、男人禁制の帝都――テシオン。

 特例中の特例で、五百人の部下たちも一緒にというわけには、当然いかなかった。

 スパルタ戦士の鏡であるオレは、丁重に断ろうと思ったのだが――

「行ってください! ベテルギウス将軍!」部下たちが、背中を押してくれた。「あなたが行かなければ、誰が行くんですか!? こんな機会は二度とないはずです。どうかオレたちの分まで、テシオンを満喫して来てください!」

 そうだよな!

 ジェロブも、まず間違いなくテシオンに行くのだから、ついて行かないという手はない。

 こんなありがたい誘いを断るのは、愚の骨頂というものだ!

 オレの心は決まった。

 愛と勇気で結ばれたベテルギウス軍団は、これでしばしの解散となる。

「お前たちぃ~! 愛してるぞぉ~!」

 別れ際、オレは女たちが見ているのも構わず、五百人の同胞すべてと熱い抱擁を交わした。

 そうだ。今度会う時が来たら、テシオンでの暮らしがどんなだったかを話そう。

 もし帰ることができたのなら、故郷のみんなにも話そう。

 この日から、オレは日々の体験を記録するようになった。

 カルデアの荒野での戦いまで遡って、美しいパルテミラの地で起きた出来事を、汚れた心の声を添えて、羊皮紙に洗いざらいぶちまけた。

 そう、今書いているこれだ。

 これが後世、貴重な史料として衆目に晒されることになるとは、オレは知る由もなかった。


     *  *  *


 帝都テシオンは、エウフラーテス川の北を流れるもう一つの大河――ティグラス川の畔にあった。

 到着したのは日が沈みきったあとのことだ。

 城門へと続く道はポプラの並木に挟まれ、奥では満開のラーレ(チューリップ)の花が咲き乱れている。太陽の下で見たならば、さぞかし楽園にでも迷い込んだ気分になっただろう。

 だが闇の中で淡く光る姿も十分に美しく、長旅で疲れたオレの心に安らぎを与える。

 月の光を吸い込んで、氷のように光るテシオンの城壁は、邪な心を持つ者の侵入を阻んでいるかのようで――そう、オレみたいな人が入ってはいけない、まさに聖域のような雰囲気を纏っていた。

 穹窿アーチが組まれた城門を抜けると、道の左右に並んだ兵が、勝利を持ち帰った戦士たちと、そこに紛れたオレを静かに出迎えた。

 夜遅いということもあってか、諸々の最終確認が済むと、すぐに解散となった。

 帰る場所のないオレは、案内役を付けてもらって、宿場街へと向かった。一応、軍用の宿舎もあるのだが、女たちと相部屋になったりと、いろいろ不都合があるようだった。

 テシオンの街は、夜であっても、それなりの人出で賑わっていた。

 肉をくるんだパンを食べ歩く人々。禍々しい水晶玉を抱えた老婆が居座る怪しい店。酒場から流れ出る下手くそな歌声。青白い光に照らされた石畳の道で、それぞれが夜を楽しんでいる。

 ただ異様だったのが、大人の男の姿をした者が、オレの他には見当たらないことだ。すれ違うのは、女精エレノア幼精エレノスか女か。あえて言うならば、年老いた幼精が一人いたくらいだ。テシオンまでの道中では、男も普通に見かけたのだが。

 なぜ、オレだけが入ることを許されたのだろう。

 パルテミラの男を差し置いて、なぜ侵略者だったオレが……?

 道行く人がオレを見る目は、どれも友好的なものではなかった。女の付き人がいなければ、卵でも投げつけられていたんじゃなかろうか。

 そう思っていたら、露店のおばさんが、笑顔で林檎を投げつけてきた。

「持って行きな。色男」

 なんだ……そういうことか。

 ありがとう、綺麗なおばさん!


 宿場街まで来ると、流石に静かだった。よい子はお休みの時間だ。

 こうも静かだと、気にも留めていなかったものが目に付く。

 夜道を照らすこの青白い光は、一体なんだろう?

 夜間の行軍や宴でも見た、宙を漂う不思議な光。

「あれは『導きの光オル・ルフズミン』。我々女精と幼精が使う古代語魔法の一つです」

 案内役の女が、そう教えてくれた。

 彼女の名前はエクサトラ。服装からして軽騎兵だ。淡い褐色の髪をおさげにしていて、かなり若く見える。慣れない役回りでやや緊張しているようだが、それが妙に可愛らしい。

「ほう、君たちは魔法が使えるのか! この前の戦では、特にそれらしいものを見かけなかったが……」

「魔法と言っても、そんな大したものではありませんよ。動物と心を通わせたり、体を軽くしたり……精霊の力を少しだけ借りた、目に見えない程度のものです。でも、その道を極めた人たちは、本当にすごいです」

 いや、あんたも十分すごいよ。

 あんなにピョンピョン跳ねる動物を乗りこなすんだからな。しかし、それができる理由が、なんとなく分かった気がした。

 エクサトラは、宿の手配に結構手間取っているようだった。

 事情を説明しても、他の客が驚くからと渋られ、直接客と交渉しようにも、よい子は寝る時間というありさまだ。彼女も早く寝たいだろうに、なんだか申し訳ない。

 やはり、百年にもわたって男人禁制を守り続けてきた都は、いきなりやって来た男を、すんなりとは受け入れてくれないようだ。

 まあ、贅沢は言わんさ。入れてもらっているだけでもありがたいことだ。

 交渉が終わるまで、オレは外でしばらく待つことになった。

 おばさんからもらった林檎をかじりながら、明日はどうしようかと、思いを巡らせる。

 さっきの市場にもう一度行ってみようか。夜とはまた違う光景が見られるかもしれない。王宮に押し掛けてみるのも一興。そのあとは、ジェロブ探しの旅にでも出よう。

 林檎をかじる音に混じって、砂利を踏む音がしたのは、その時だった。

 壁に沿って、こちらに歩いてくる小さな影がある。

 幼精エレノスだ……可愛い!

 そう思うのも束の間、オレはすぐに彼の纏う、異様な空気に気付いた。

 夜闇に溶け込む黒ずくめの服は、少年の華奢な体を引き立たせていたが、身を飾るよりは、動きやすさを想定したもののように思えた。外套の裾に隠れて、短剣も見える。黒髪の下に煌く赤い瞳は、豹にも似た鋭い光をたたえている。

「そこを動くな。パルミュラの亡霊め」

 オレに言ってんのか?

 考える時間は、与えられなかった。

 少年が短剣を抜き、猫のような敏捷さで突っ込んできたのだ。

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