妖精の住む世界で
AtNamlissen
第1話
やけに閑散とした電車の中で、左手を見つめながら僕はどうして電車に乗っていて、どこに行こうとしているのか、必死に思い出そうとしていた。
今日は5月13日木曜日。時計は19時を少し過ぎたところを指している。
帰宅ラッシュのこの時間、記憶の中ではかなり混み合っていたはずの車両には、僕一人しか座っていない。
車窓はよく見慣れたもので、僕が家に向かう電車に乗っていることは間違いないのだろう。いつもの電車、いつもの景色。なのに、最寄り駅だけが思い出せない。
「間もなく、
聞いたことがあるはずなのに、どこかピンと来ない感じのする駅名がアナウンスで流れる。
その数秒後、ぼんやり眺めていた車窓の外を流れる無人のプラットフォームを見て、僕はようやく何か恐ろしいことが起きていることをはっきりと自覚した。
いつのまにか左手に握りしめていた小さな板をよく見てみる。
形としてはアイスによく付いてくる木製の使い捨てスプーンによく似ているだろうか。端の丸くなった短めの棒の真ん中がやや括れている。
色は陶器のような光沢のある白で、棒の縁と中心線に沿って金色の美しい模様が掘られている。
「随分と高そうだけど、実用性があるものには見えないな。何に使うものなんだろう。」
ひっくり返してみたり擦ってみたりするが、どこかが変形するとか可動するということもなく、指紋すら付かない。
しかし少なくとも貴重なものだということは間違いないだろう。ここで置いて行ってしまったら、実は僕の物だったとしても困るし、誰かの物だったとしたら駅に届けるべきだろうと思って、ポケットに入れて気にしないことにする。
「一番の問題は、駅に止まらないこの電車だ。」
運転手は何を考えているのだろうか。仮に僕と同じように記憶が吹っ飛んでいたとしても、駅に来たら止まるべきだというくらいのことは覚えているんじゃないのか?
今は3号車にいて、先頭車両までは2車両分だ。少し遠いな。疲れの溜まっているらしい体を椅子から持ち上げ、車両を隔てる扉の前まで来ると2号車の中が見える。
「ここも誰もいない。」
しんとした車両に僕の足音だけが鳴り響く。
扉越しに見た1号車も誰もいない。運転席はカーテンが掛かっていて良く見えないから、1号車に入ってみるしかないか。
止まる気配のない電車の車両をゆっくり移動するという行動に、僕の好きな横スクロールのホラーゲームシリーズの1作品を思い出して怖くなる。ホラーゲームが現実になっていいことなんて何もないからな。
そんなことを考えながら慎重に歩いていくと、何事もなく運転席の前にたどり着いた。
内心びくびくしながら運転席の扉をノックしてみるが、反応は無い。まさか運転手がいないんじゃないかと、そんな最悪な想像をしながらカーテンの隙間を覗き込むと、猫ほどのサイズのある真っ白い鼠と目が合った。
僕は思わず足を一歩後ろに下げる。目の前の扉のノブががちゃがちゃと動く。しかしまさか開くわけがない。扉には鍵がかかっているはずだ。そんな僕の希望的観測を無視するように、ゆっくりと扉が開いていく。
僕はさらに後ずさりしようとするも、足が上手く回らない。バランスを崩してしりもちを突いてしまう。
扉の隙間からさっきの鼠が飛び出してきて、僕の膝の上に立つ。
「やあ。やっと起きたか。」
「え……喋った……のか?」
「ああ。俺は妖精だからな。人の言葉くらいは簡単に話せる。」
妖精……かあ。この世界に妖精はいなかったような気がするが、僕の記憶違いだろうか。
「この世界にはこんな速度で動く乗物があるんだな。驚くべき技術だ。」
あまりに心の準備が出来ていなかった僕が動揺しているのに一切気にすることなく、妖精を名乗る謎の鼠が話しかけてくる。
「ところで、この乗物はどうやって止めるんだい?」
そんなの僕が知ってるわけがないだろ。
鼠の声に呼応するようにアナウンスが鳴る。
「この先大きく揺れますのでご注意ください。」
こんなアナウンスは久しく聞いた覚えがない。ということはもう最寄り駅は通り過ぎたのか?
そんな疑問を抱いたところで、大きな音とともに体が浮く。そして、
「え?」
という鼠の声とともに、僕の頭に大きな衝撃が走る。
◇
目を開けると、目の前に白い尖った顎が見える。鼠の顎だ。
「やっと起きたか。」
鼠が上から僕に話しかける。
「お前は何者だ。僕がどうしてここにいるか、知ってるのか?」
鼠が首を傾げ、僕の顔を片目で覗き込む。
「俺は妖精さ。そして、お前はこの乗物が倒れた衝撃で気絶した。……もしかして、さっきの衝撃で記憶が飛んだか?」
記憶が飛んでいるような感覚はあるが、電車が倒れたときの記憶はある。こいつが妖精だってことも知ってる。
「聞きたいのはそういうことではなくて、妖精が何かとか、なんで僕の記憶が消えてるのかとか、そういうのが知りたいんだ……。」
鼠は答えを探すように小さく何度も首を傾げると、小さな声で言った。
「…………え?」
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