封筒
@ouichirou_hayashi
封筒
弟①
父親が急に仕事をやめた。十年以上続けたエンジニアの経歴に見切りをつけ、友人の経営する保険会社に転職するという。父はよく、自分の強みは度胸である、度胸があるからお前たちを育ててこれた、そう語っていた。兄はそんな父親を尊敬し、しかし兄は度胸のかけらもない学生生活を送っていた。そんな兄が、私は苦手だった。
弟②
私が十八歳の誕生日を迎えると、父はこっそりと私を自分の部屋へ呼び、私の右手の平に封筒を渡した。今まで、一万円以上を財布に入れたことのない私は、情けないことに一センチを超えるその紙幣の束にドキドキしてしまった。いつものように、余裕のある表情で、お前はもう立派な大人だ。今、自分にできる一番でかいことを、これを使ってやってみろ。そういって、父は私の左手を封筒の上に置いた。季節外れな、乾いた冷たい空気が心を落ち着けるのを待ち、私は黙って部屋を出た。自分の部屋へ入り、音をたてないようそっと机の引き出しに封筒をしまった。母の呼ぶ声が聞こえ、夕食を食べにダイニングへ歩いた。夕食を食べながら、寂しさがこみ上げた。しきりに父と母の顔を見た。
兄①
特に夢もなく、やりたいことも見つからないので、思い入れも何もない大学に通っている。つまり、普通の大学生だ。私の父は今の自分と同じ年ごろに、友人と起業して副社長をやっていたらしいが、私にはそんな意識の高い友人などいない。家に帰れば、学校のことを嬉々として話す弟と、自分の昔話を英雄譚のように話す父親でリビングはにぎわっているのだろう。そう思うと足が止まってしまう。考えるのをやめて、帰路に就く。
匂いは、記憶と強く結び合っていると聞いたことがある。夏の夜の冷たい匂いは、私の小学生の頃のある記憶を呼び起こす。当時地元の少年野球チームに所属していた私は、監督に怒られるのが怖くて練習に行くのが嫌だった。ある日、午後に予定されていた練習にどうしても行きたくなくて、母親に指の痛みを訴えた。それを聞いた父は、もう行かなくていい、そんなに嫌ならやめてしまえ。と、私の顔を見ることもなく、突き放した。のちに聞いた話だが、あの時父は、仕事場でのいざこざでフラストレーションを溜めていたのだという。そんなことを知る由もなく、ショックを受けた私は、泣いてしまうのを必死にこらえて練習へ行った。帰り道、迎えに来てくれたのは父だった。まだ怒っていないだろうかと、顔色をうかがいながら家まで歩いた。父はいつものように優しい表情だった。これからは怒られないために、父に喜んでもらうことに努めようと思った。
弟③
兄が大学受験を受けたのを見て、私も当然のように受験勉強をしていた。クラスメイトに就職しようとする人はおらず、どこの大学の何学部に進学するかを、聞いてもないのに宣言して回っていた。しょっちゅう、お前はどこに進学するんだと聞かれるので、芸術大学でも目指そうかな、と、冗談っぽく話してみると、勉強できるのにもったいねえよとわらいとばされてしまった。先生や友人たちは、私に何を期待しているのだろうか。
父にあの封筒を渡されてから、将来のことを考える機会が増えた。兄も同じものを受け取ったのだろうか。どのように使った、あるいは使おうとしているのか気になったので、夕食を食べ終えた後、聞いてみた。兄は、今の自分には使い道が見つからない。いつか、ここぞというときのために、貯金しておくのだと答えた。私は、情けなく感じてしまった。度胸に生きた父を尊敬しながら、自由に使えと言われた大金にまで怖気づいているように見えた。そのうえ、使わない理由を未来への投資だと正当化して、目を背ける。私は、高校を卒業するまでに封筒を空にすることを心に決めた。
兄②
家につくと、思いのほかリビングは静かで、弟が珍しくまじめな相談をしてきた。先日成人した弟は、自分と同じように父から大金を渡されたようだった。私にとってあのお金は、私の創造性と行動力の不足を表しているようなもので、むしろ忘れてしまいたい資産だった。まだ使っていないことを伝えると、がっかりしたような、腹を立てたような、そんな顔をして部屋を出ていった。そんな顔をするな、嫌なことを思い出させやがって。
箪笥の奥から封筒を出し、机に置いた。父だったら、どう使ったのだろうか。どう使えば、父は喜んでくれるのだろうか。
兄③
今年から、通うキャンパスが変わるので、実家とは離れた場所で一人暮らしをすることになった。実家で荷物を整理していた時、封筒を持っていくか迷った。結局、自分には持て余すと思ったので、親孝行と思って父にそのまま返した。父は、残念そうな顔をしていた。
弟④
大学受験をしない意向を父に伝えると、いつもの、余裕のある表情で、頑張れよ、と応援してくれた。父からもらったお金は、家を出る初期費用と、画材を買うのに使った。学校の先生にも友人にも反対されたが、父だけは応援してくれた。都内の美術館をすべて回り、父の友人が経営する美術館で、私の作品のために展示スペースを一枠用意してくれることになった。
封筒 @ouichirou_hayashi
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