火宅咲(わら)う
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火宅咲(わら)う
噂というものは必要な者のもとに届くようになっているようだ。
彼女がその話を耳に挟んだのは、終電間際のがらんと空いた車内でのことだった。
勤め先の送別会に義務的に参加してみたものの、身の置き所がなく、彼女は所在なさを飲むことで紛らわせてしまった。
飲みなれないお酒で、したたかに酔っていた彼女は座席に収まるとそうそうに眠りに落ちた。
うつらうつら、現実と夢の境を行き来していた彼女はふと目を覚ます。
「火が出てたんだって! でも、誰もいなかったのっ!」
甲高い声がアルコールでふやけた彼女の脳に響く。
のろのろと顔を上げた彼女は、少し離れた座席にだらしなく足を投げ出して座る派手な女を見つけた。
その女もまた酔っているようだ。
周囲のことはお構いなしにキンキンとした声で電話に向かって話し続けている。
女のスカートは短すぎ、それは無造作に投げ出された脚と相まって下着が見えそうなほどで、彼女は不快気に目をそらす。
みっともない。
声を口の中で転がした彼女は、苦いものを口に含んだかのように顔をしかめ、頭を押さえる。
平生であれば心地よく感じられるであろう電車の揺れが、今の彼女には拷問のように頭痛を増幅させている。
女はまだわめくように通話を続けていた。
「……に、叶えてくれるって。だーから、左右田町だって」
目を閉じれば視界は塞げる。
しかし音はそうもいかず、頭を押さえていた掌を耳に移動させてみても、声はそれをすり抜けて彼女の許に届く。
彼女は自分の膝に突っ伏しながら、ひたすら目的の駅への到着を待った。
「……死ぬんだって」
周囲を憚ったのか唐突に女の声が潜められた。
そのせいで却ってその言葉は彼女の耳にしっかり残った。
反射的に顔を上げた彼女は、暴力的な頭痛に負けて再び体を折り曲げる。
わずかに声量を落とした状態で電話に向かう女の言葉に彼女は耳を澄ます。
酔っ払いの特性だろう。
女の話は行きつ戻りつ、同じ場所を何度も通りもたもたと進んだ。
それが彼女にとっては幸いし、大筋のことは掴みとることができた。
女の従姉の友人の友人から聞いた話のようだ。
怪談話や都市伝説にはありがちな、近いようで遠い、顔の見えない相手からの伝聞。
左右田町にあるという友人の自宅の近所にある空き家で怪異があるという。
さほどの傷みがないにもかかわらず誰も住むこともなく長らく放置されたままのその家にはごくたまに訪問者があるらしい。
不動産屋や内見希望者といった風ではなく、かといって浮浪者や不法侵入者といった感じでもない。
訪問者は比較的きちんとした身形で玄関前に立ち、ドアベルを押す。
そしてしばらく経つとドアが内側から開き、訪れた人は扉の内側に消えるという。
その様子はなんら違和感もなく、知人の家に招かれた客人が挨拶をして家に上がるようにしか見えない。
だが、その客が帰る姿を見たものはいない。
好奇心に駆られたその友人は、空き家に人が入るのを偶然見かけ、後を追うようにしてドアベルを鳴らしたことがあるらしい。
しかしいくら待っても招き入れられることはなく、試しにノブを回し引いてもドアは開かなかった。
それでも諦められなかった友人は庭にまわり、窓から家の中を覗いたという。
薄暗い部屋の隅に訪問者らしき人影と揺れる大きな炎が見え、焦った友人は「火事だ」と叫びながら庭から飛び出した。
近所の人が通報し消防車が到着するも、火の気など全くなく、勝手に入り込んだことも含めひどく怒られたという。
しかし不審な訪問者が何度もあるのは確かだったので、序でに警察に中を検めてもらったらしい。
だが、家内は先の住民の家具が多少残されているものの、人の住む様子も、火の痕跡も、もちろん遺体があるといったこともなかった。
女の語ったことが事実であるなら不思議な話だった。
訪問者たちのすべてが幽霊であったというなら、出ていく姿の目撃情報がなくてもまだ納得できよう。
ドアが開くまで待機する理由はつかないが、幽霊であれば人目につかないように消えて出ていくことも可能であろうし、認知されないだけでかの家に住み続けているのかもしれない。
女の口にした「死ぬ」という言葉もそれを踏まえてのことなら納得できなくもない。ただ、その場合「叶えてくれる」の意味が分からなくなる。
彼女が痛む頭を抱えながら甲高い声を我慢しているのは、それが知りたいからなのに肝心なところはわからないままだ。
女はただ「その家に入ると願いがかなう」としか言わない。
戻ったものがいないというのに、何故そのように言い切れるのか、女は疑問には思わないようだ。
「やーだよ。帰れないとか怖いじゃん」
女は電話を持たないほうの手で荷物をまとめて立ち上がる。
ヒールの高い靴をだらしなく引きずり扉の前に立った女は停車の衝撃でよろめきながら電車を降りる。
「ダメだって意味がない」
先ほどまでの甲高い声ではなく、まるで別人のようなひどく冷め切った女の声が車内に残された。
駅から徒歩十分。
夜間はもちろん昼間もシャッターが下りたままの死んだような商店街を通り抜け、彼女は家にたどり着く。
酔った足取りで、音を立てないよう気を使いながらアパートの外階段をのぼった彼女は沓脱ぎで力尽きたようにしゃがみ込む。
外灯が入る余地のない暗い玄関でちかちかと明滅する明りに気が付くと、彼女は顔を歪めた。
だが放置することもできないのか、気の進まない様子ながら、光るボタンに手を伸ばす。
「九月三日、二十一時十四分です」
「まだ帰っていないの? こんな遅くまで、みっともないことしてないでちょうだい」
録音時間を告げる音声の後に、不機嫌な年配女声が続く。
ボタンを操作し「消去しました」というアナウンスに彼女は安堵の息を吐く。
真っ暗な玄関に座り、隣室から漏れ聞こえるテレビの音を聞きながら彼女は仄かに頬笑んだ。
カーテンの隙間から差し込む光に彼女は枕元の時計に手を伸ばす。
時計の示す時間をみて目を瞬かせる。
ありえないことだった。
休日であっても朝寝坊などすることなく、規則的な生活を送るのが常で、それを崩したことなど彼女にはなかった。
起き上がり、壁に掛けられた時計にも目を向け、その時間が見間違いでないことがわかると彼女はカーテンを開ける。
良い天気だったようだ。
沈みかけた夕方の光が入り込み、部屋を赤く染めた。
その広がる赤に昨夜の電車の女の話を思い出す。
火が出る、願いをかなえてくれる家。
彼女は身支度を整えながらも迷っているようだった。
しかし、いつも通りの化粧を済ませ、夕焼けが残る部屋を見るとバッグを手にした。
彼女にはある程度あてがあるようだった。
迷いなく三つ先の駅までの切符を購入し、電車に乗る。
電車を降り、閑静な駅前を抜け、住宅街に入ったあたりで彼女は立ち止まり、電柱に書かれた「左右田町」の文字を確認してほっと息をつく。
住宅の間にぽつぽつと田んぼや畑がある以外、さして特徴のない町だ。
人通りはなく、家々からは夕餉の匂いが漂う。
日は沈み、空が藍色に塗り替えられる中、彼女は古そうな住宅を探しながら歩く。
さほど大きな町ではないが、残る手がかりが空き家というだけでは、探し出すのは困難だと思われた。
しかし呼び合うものがあったのだろうか。
今にも寿命を迎えそうにまたたく街灯の下、彼女は表札のない門柱を見つけた。
さほど大きな家ではない。二階建てで、おそらく家族四人程度で暮らすことを想定していると思われるごく普通の住宅だった。
庭が荒れているので空き家だというのは一目瞭然だが、建物自体は古びていても荒んだ様子がなく、庭さえ除けば人が住んでいてもおかしくないように思えた。
彼女はそっと周囲を見て誰の目もないことを確認すると膝丈まである草をかき分けながら敷地に入る。
この家が彼女の求める家だという確かな証拠は何もなかったはずだ。それでも彼女は玄関前に立つと、スカートの裾についた草の穂を払い、ドアベルのボタンに手を伸ばした。
しかし建物内で呼び出し音が鳴った様子はない。
当たり前のことだ。ここは空き家なのだ。電気が通っているはずもない。
それでも彼女はそのまま待つ。
盲信しているというわけではないように見えた。一縷の望みにかけているという風でもない。
ただ、わずかばかりの期待は見て取れた。
りり、と草むらで小さな虫が鳴きはじめ、彼女はさすがに迷う様子を見せ始めた。
まだ待つか、帰るか。
さ迷わせていた視線をドアに向けた時、扉が音もなくわずかに開いた。
隙間から見える家の内側は外よりも暗く、何も見通すことができないにもかかわらず、彼女は躊躇なく自分の体を滑り込ませ、後ろ手にドアを引く。
ぱたん。
ドアの閉まる音が空虚に反響する。
「おじゃまします」
彼女は無人のはずの家に声をかけ、靴を脱ぎ、きちんと揃えて上がる。
外は完全に夜の様相で、家の中は明りがつかない。
それでも何故かおぼろに明るく、彼女が家の中を歩くのに難はなかった。
玄関左手に小さな洋間。それに対面する位置に六畳の和室。
その畳の間から襖を隔てて洋室がある。
廊下をはさんだ右側は手洗い、風呂場、台所と水回りがまとまっていた。
奥の洋間まで入って来た彼女は訝しげに上を見たあと、窓の外を覗く。
小さな庭は背丈ほども草が伸び、その隙間から朽ちかけた物干しが顔をのぞかせているだけだ。
この家がかの空き家であれば、件の友人が覗いたというのはこの窓だろう。
しかしこの部屋に火の気はない。
彼女は困惑したように廊下を見て、やはり部屋に戻る。
ふと思いついたように洋間の奥にしつらえられた押入れらしき戸を引く。
そこは押入れではなく、急勾配な階段が伸びていた。
探し物を見つけ、謎が解けたように彼女は小さく笑む。
二階に上がろうとするのを見計らったように階段手前に突然火が付き、彼女は反射的に後退る。
火は大きくなり、しりもちをついた彼女と同じくらいの高さの炎となる。
彼女は膝をそろえ、ようやく
彼女は語り始めた。
それは願い事ではなく、恨み辛みも含まれず、淡々としていた。
幼い頃から厳しくしつけられてきたこと。
親に逆らうことなく、道をそれずに生きてきたこと。
母の知人の紹介で知り合った男と婚約したこと。
喜ぶ母を見て、幸せだったこと。
言葉を促すようにちろちろと揺れる炎を見つめながら彼女は続ける。
相手の男と結婚式直前に連絡が取れなくなったこと。
言葉を発したわけでもない炎に彼女は肯く。
「ええ。恨んでいるわけではありません。彼も、私のようなみっともない女を隣に置くのが嫌になったのでしょう。彼は正しかった。結局、みっともないことになってしまいました」
その言葉に嘘はなく、どこか清々として聞こえた。
「母に責められました」
きちんとしなさい、みっともないことをしないでとさんざん言われ続け、それに従って生きてきた彼女は途方に暮れた状態で家を追い出された。
そして一人で暮らすようになって尚、身に沁みついた声から逃れられない。
「他人のことをどうこう言えた立場ではなかったんです、私」
薄暗闇の中、炎に照らされた彼女は穏やかな目で炎を見つめる。
「来られて良かった。願いを、叶えてください」
彼女は満面の笑みを浮かべて、炎に手を伸ばした。
炎はその手を舐めるように包んだ。
彼女を、包み込んだ。
その、未明。
アパートで火災が発生した。
一室が全焼したが、他の居室には全く被害がなく、幸い死傷者もなかった。
ただ、火元の住人の行方だけが杳として知れないままだった。
彼女の痕跡は消えてしまった。
彼女は戻らず、かの家はまた待つ。
そして私は次の訪問者を探し、ただ寄り添う。
【終】
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