夏の虫は氷を笑った

花乃

一章 夏は君を殺したから嫌いだ

第1話 西倉詩織の告白

 砂浜を裸足で走ったあの日のことが忘れられない。日光に熱された60度を超える砂を足で蹴って私は泣きながら必死で走った。誰か、誰か、お願いだから助けてください。

 足に小さな石が刺さって血が出た。でも足の裏はもうすでに感覚を失っていて、そんなことに気づく余裕もなかった。いつのまにかビーチサンダルを脱ぎ捨てていて、それでも必死に前に前に足を進める。


 私たちはあの日にもう、戻れない。二度と、彼のあの笑顔を見ることはできないのだ。



 自己評価が低かった。高校生になったら何か変わると思っていたけれど何も変わらなかった。みんな周りの視線が気になり始めたのか、化粧をするようになって、私は置いてきぼりの状態だった。

 でも、友人の茜に恋人ができて、彼女に付き合ってメイクを覚えた。おぼこい顔を隠すように、塗りつぶすように、ファンデーション、アイシャドウ、マスカラ、チーク、リップグロス、鏡を見たらほら。まるで別人にでもなったかのように、化粧ひとつで私たちは強くなれた。

 通っていた高校はもちろんメイクは禁止だったけれど、女子たちは気にせずみんなやっていた。ルールはみんな守るからルール。壊されたルールに意味はない。

 先生たちは暗黙の了解みたいな感じで、結局身だしなみチェックの日以外は見逃してくれていた。


「詩織はなんで学校にメイクしてこんの?」


 今日も化粧ばっちりの茜は私の野暮ったい顔を見て言った。

 メイクの仕方を一通りは覚えたけれど、私にはメイク道具を一式そろえるお金はなかったし、そもそも学校のルールを破るほどの度胸もなかった。生活指導の先生とすれ違うだけでもいつもびくびくするのに、スカートを短くするのもシャツをまくり上げるのも、ましてやメイクを学校でするなんてできなかった。


「ごめんね。やっぱりちょっと」

「ふうん。別にいいよ、あんたは真面目ちゃんだもんね。ってかさ、このネイルめちゃくちゃ可愛くない?」

「え、ああ可愛い。すごく可愛いね、茜に似合ってる」


 高校からの付き合いだけど、茜が私のことを下に見ていることは言葉の節々から伝わってくるし、それでも私は気にしていなかった。長い物には巻かれろ、というし茜はこんな私とでも仲良くしてくれるいい子だから、といつも心の中で言い聞かせていた。

 茜がもちろん校則違反のネイルを見せびらかす。綺麗に青系の色でまとめられた爪はお世辞で言っているわけではなく、本当に綺麗で可愛かった。彼女は嬉しそうに「でしょ」と歯を見せて笑って、席を立った。


「ってか、つぎ移動教室だっけ。そろそろ向かう?」

「ああ、そうだね。第二理科室ちょっと遠いもんね。そろそろ行こう」

「やだなあ、三島の授業。いつもあたし寝そうになってさ」

「ふふ、わかる。三島先生の喋り方すっごい眠気誘ってるよね」


 必要な教科書とファイルと筆箱を持って私たちは廊下に出る。茜の足取りは重くて、ずっと溜息をついたまま。

 でも、廊下で彼を発見すると、さっきまでの表情が一変して笑顔になった。


「春馬じゃん!!」


 紙パックのジュースを飲みながらこちらに歩いていていた二人組の男子の片方の名前を呼ぶなり勢いよく茜は駆け寄っていった。もちろん私も彼のことを良く知っていた。茜が三か月前から付き合いだした恋人の青山春馬だった。彼は私に気づいたのか「ちす」と小さく会釈をしてくれて、私もこんにちはと頭を九十度下げて挨拶した。


「なにしてんの」

「何してるって、見て分かんじゃん。購買帰りだよ」

「ええ、あたしに何かないの?」

「あるわけねえじゃん。いるんだったらもっと早くいえよ」

「ははっ。冗談だって、あ、岩田もいるじゃん。ちーす」


 青山くんの後ろに隠れた一人の少年に気づいた茜が片手をあげて軽く挨拶する。後ろの彼は茜を見て「どうも」と短く返答した。そっけない返事に見えるし、多分わざとだろう。茜はむっとした表情を見せるけれど、青山くんになだめられてすぐに彼を視界から外して言葉をつづけた。


「どうも」


 上から降ってきた声に私は思わず彼の顔を見た。私は彼とあまり話したことがなかったけれど、名前だけは知っている。岩田棗。よく青山くんと一緒にいる男子だ。

 顔立ちは整っていて背も高くて、イケメンだとクラスの女子が言っていた。だけど、女の子が苦手なのか態度が悪いことからあまり良い評判を聞いたことがなかった。不愛想に彼は私の顔を見る。私は恥ずかしいのか気まずいのか、岩田くんの顔が見れずにずっと足下ばかり見ていた。


「ど、どうも」


 口ごもりながら挨拶を返す。岩田くんへの感情は好きとかそういうものじゃなくて、純粋な興味だった。家が相当なお金持ちで、いいところのお坊ちゃん。それなのに、やんちゃで有名なうちの学校の不良の青山くんと仲がいいという、その歪な関係に私は興味をそそられた。

 私はポケットに入れていたスマホで時間を確認して茜に声をかけた。茜はもうちょっといいじゃん、とその場をなかなか離れなかったけれど、私は無理やり彼女の腕をとって引っ張った。

 私は岩田くんの前でいると、何故か恥ずかしい。好きだから、好意を抱いているから、そういうことじゃなくて、ただ純粋に何かを見抜かれているような彼のあの目がとても怖い。


「ってか、引っ張りすぎ。どしたの、詩織」

「え、ああ。ごめんね」


 私は強く掴みすぎていた手をゆっくり放す。

 首筋には汗が伝っていて、私は上手く前が見れなかった。これがただの恋による動悸だったらどれほど良かっただろうか。

 第二理科室の教室のドアを開けて中に入る。もうクラスの大半は席に座っていた。


 

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