第19話 ジーニアス

 一星くんと初めてキスしてからもう一年たった。


「美華さん、アニバーサリーのお祝いをしよう」なんて、一星くんが柄にもないことを言うので、近所のケーキ屋さんで小さいケーキを一つずつ選び、酒屋でちょっとだけ値のはるスパークリングワインを買った。


 お誕生日用の小さいロウソクを一本立てて、私たちは一緒にロウソクの火を消し、スパークリングワインを開ける。


 私はケーキのクリームを指ですくうと、一星くんの鼻に付ける。それからそれを舐める。そういうことをすると、一星くんはとても困った顔になる。私はこの顔が見たくて、いつも意地悪をする。その結果、私たちは私のアパートにいるときのほとんどを、ベッドで過ごすことになるのだ。


 一星くんは、一年のほとんどを私のアパートで過ごしている。でも、ときどき携帯を私のアパートに置いたまま、ふらりといなくなる。大抵は2、3日で帰ってくる。一星くんが帰ってくると、私はいつも親を見つけた迷子みたいな気持ちになる。迷子は一星くんの方なのに、あべこべだ。


 今日も私たちは、例によって裸でベッドに寝転んでいる。「お腹減ったね。」なんて言い合いながらも、中々ベッドから出られないで、だらだらとしている。一星くんはいつも、私の髪をいじったり、頰や鼻を指でなぞったり、手のひらをひっくり返して遊ぶ。まるで一星くんの目や指に私の全部を覚えさせるみたいに。私はこの時間が一番好きだ。


「ジーニアスの語源って知ってる?」ベッドに一緒に寝転がったまま、一星くんが突然聞くので、知らないと答える。


「古代ローマではさ、ジーニアスは人じゃなくて、人に宿るクリエイティブの妖精みたいな存在だったんだって。ジーニアスはときどきアーティストのところに降りてきて、アーティストの体を使って音楽だとか絵だとかを生み出すわけ。だからそのころは、アートは神様と人間の共同作業だったんだよ。」


「ふーん。」と私は相槌を打つ。


「こういうこと言うと、不遜だとか頭おかしいって言われそうだから、みんなには言わないけど、僕にもジーニアスが降りてんのかなって思う時があるんだよ。」


「『ジーニアス』が描いた絵は褒められるのに『僕』が描いたやつは、イマイチなんだよ。どんなにがんばって描いても『僕』の絵は、なんだか見劣りするんだ。だから、そういう絵は全部捨てるか仕舞ってある。ただの思い込みかもしれないけど。」


「見たいなぁ、『僕』の方が描いた絵も。」と私が言うと、一星くんは、


「案外、本気でがっかりすると思うよ。」と笑顔のままで言った。

 

 こういうとき、意味もなく私はふと不安になる。この人はいつかかぐや姫みたいにどこかに帰ってしまうのではないか、と荒唐無稽なことを考える。だって何だか、この世の人ではないみたいだもの、一星くんは。いつか、クリエイティブの妖精が連れ帰ってしまうんじゃないか、なんてバカなことを思って私は苦笑する。


「ねぇ。」と私が言うと「うん?」と一星くんが返す。


「一星くんの子どもが生みたいな。」


 私の言葉に、一星くんの笑みが薄くなる。


「僕が父親になるなんて、想像できないなぁ。」のんびりと一星くんが言う。


 私だって、一星くんが父親になるなんて、まるで想像できない。でも私が子どもを生めば、一星くんは人の親になる。そしたら、天に帰らなくてもよくなるかもしれない。ああこれじゃあ、天の羽衣みたいだ。


 妖精だの。かぐや姫だの。天の羽衣だの。おとぎ話を信じるなんて、私はどうかしている。

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